【太夫、傾国の娼妓(やり手爺)ときて今世悪妃とは、これ如何に?】第58話〜牡丹宮筆頭女官side

玉翠ユースイ様!?」

 パリンと何かが割れる音がして主の部屋へと足早に向かえば、長年仕える主が割れた花瓶を床に落としていた。

 この宮の象徴花たる早咲きの牡丹。皇帝陛下の寵愛の証たる王花ワンファが床に散らばっている。

「何でもないわ、杏鈴シンリン。少しぼうっとして、手を滑らせてしまっただけ」

 向けられる微笑みには憂いが見て取れ、儚げだ。我が主は何とも美しい。

「すぐに片づけさせます。夜も更けました故、お休み下さいまし」

 控える女官に指示し、まずは主を寝台へとお連れする。

 先程までいらした皇帝陛下主の夫君。何を話されたのか知らない。いつもなら夜に訪れると、そのまま朝まで時間を共にするのに今日は違った。

 主が幼き頃より見守ってきた。だからこそ優しい主の心は、ずっと張り詰めて傷ついている。更に今は一段と儚さを肌で感じ、何故夫君は放って帰られたのかと恨めしさを覚えた。

「また、あの貴妃が何かしたのですか」

 もしやと思い、尋ねる。あの入宮したばかりの性悪貴妃は頭が回る。何かしでかし、それ故に夫君を振り回して我が主の心に陰を差したのか?

 すると主の麗美なかんばせが翳った。

 当たりだ。主を傷つけた事に怒りが湧く。ギリリと歯を噛み締め、握った拳が戦慄わななく。

 しかし今は主の心に少しでも穏やかさを取り戻して差し上げねば。

 そう考え、平静を保って寝台に横になられた主に掛布を肩までお掛けする。

「陛下のご寵愛は、唯一の妻君たる我が主の物です」
「……そうね。けれど私に皇貴妃という立場は……いえ、もう休むわ」
「……はい」

 頷いて退出する。

 歯がゆさで叫びそうになりながら、筆頭女官として与えられた私室へと戻った。

 あの性悪貴妃――滴雫ディーシャが主となった水仙宮の起きた今朝の一件で、この宮から女官が何人も消えた。恐らく他の宮の女官も連座で消えたが、全て性悪貴妃のせいだ。

 もちろん仕事を放棄した女官達が悪い。幾ら水仙宮に幽霊云々の噂話が怖かったとは言え、流石に庇い立てはできない。

 その上、嫌がる女官達が無理矢理世話を押しつけたらしい女官が、破落戸呼ばわりされる程、周囲にもわかりやすくあの性悪貴妃に楯突くとは。もっと賢く立ち回っていれば良いものを。

 水仙宮の惨状から、その宮に新たに入宮する貴妃は、どうせすぐにいなくなる。年も若いし田舎者。性格も我儘だと聞いていたから耐えられる筈がない。

 そう高を括って配属する女官達の所属先を牡丹宮から変えていなかった。主が言及してこなかった事を良い事に、筆頭女官である私がそうしていたのだ。

 それが仇となり、主の立場が悪くなるなど考えもしなかった。主は間違いなく、他の宮に住まう貴妃や嬪に対する、皇貴妃としての体裁を潰れてしまっただろう。

 なのにあの性悪貴妃! 後宮追放となった女官達から、違約金や慰謝料という名の大金をせしめるとは!

 ボフン、と自室にあった座布団を手にして、床に打ちつけて憂さを晴らす。

 名実共に我が主は皇帝陛下の寵愛を受ける唯一の妻君だ! その妻君がいるその場で! 他に下々の者達もいるその場で! 性悪貴妃は主の夫君たる皇帝陛下を、自らの夫であると公言した! その上、皇貴妃の揚げ足をたかが貴妃が取ったのだ! 許せるものか!

 丞相も丞相だ! 陛下の幼馴染であろうが! 皆の面前で陛下のみならず、我が主の責をも声高々に宣うとは!

 座布団を何度も打ちつける。それでもこみ上げる怒りが治まらない。

 第一、調度品を盗んだだと!? 仮にも貴妃となる者が、廃宮どころか廃墟と化した宮へ本当に入るなどと誰が信じる! あのような場に置くのがもったいないからと、気を使った私達が手間賃として貰ってやったのだ!

 手間賃を取ったからこそ、本当に入るかどうかわからぬ貴妃の為に、一応だが女官を手配してやったのだ! 多少態度が悪くとも、女官がたった一人でも、性悪貴妃を宮へ案内しただけ感謝すべきであろう!

 後ろ盾が嬪よりも弱い上に、生家の爵位は低いのだ! 分不相応にも後宮へ踏み入る方が悪いと何故思えぬのか!

 なのにそれも全て見越して悪巧みを企てただと!? 一体、何様のつもりだ!!!!

 貴金属全てが一点物。その上、製造番号に宝石の形を職人によって絵にして残してあるだと!? バラして使ったとて、検分すればわかると暗に告げた時の、あの憎らしいしたり顔!

 最後には、気に入らねば己の持参金を引き上げるだと!? こちらを脅すにしても国家予算並みなど、有り得ない! 辺境の田舎娘がどうしたら、そのように高額の金を納められる!?

「はあ、はあ……有り得ぬ……」

 興奮と、普段まともに運動もせぬからか肩で息をしてしまう。お陰で幾らか怒りが冷めてきた。

 どうせハッタリだと思いつつも、女官達から回収した性悪貴妃の貴金属をよく見た。確かに小さな番号が刻印されていた。

 そして、ある大商会の特別な客の物にのみ使われる、特殊な墨を使った紋も……。

 あの紋があれば商会の製作者は、その品が万が一盗難にあっても追跡できる。有名な話だ。あの商会独自の紋で、門外不出らしい。故にその商品は高額となる。

 そして、それ故にその紋の付いた商品を購入できるのは、姿を知る者が殆どいない商会長と縁のある者だけ。

 かつて皇貴妃もその商品を頼もうとした。しかし断られている。

 故に私が見たのも初めてで、思い過ごしの可能性もある。だが万が一そうならば……。

 回収漏れが無いよう、女官達には再度通達した。

 あんな性悪な田舎娘が何故……。薄気味悪い貴妃が入ってしまったと、一人身震いしてしまったのは秘密だ。

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