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映画『さよならジュピター』のセンスを改めて考える。


 こんなTweetがあった。映画版『さよならジュピター(1983)』に関する話だが、引用RTで書いたことをここでまとめておこう。

 『さよならジュピター』が酷評されてしまうのも無理はない。あらすじを書くと、2140年の遠い未来世界で、火星の氷原下でナスカのそれと類似した地上絵が発見されたのをきっかけに、人類の宇宙進出を推進するための「木星太陽化計画」、そしてブラックホール接近という太陽系の危機という、宇宙を舞台にしたミステリーとスペクタクル、そこに立ち向かう人々のドラマである。
 と、面白そうでもあるが、実際に観てみるとミステリー感はほぼおまけ程度。その分、過激な環境保護団体「ジュピター教団」がいろいろと話に絡んでくる。これは現実世界でもそんな連中がいることを思えば先見性はあるのだが、その演出は観てて照れる(小っ恥ずかしく思える)くらいで、そっちの話を膨らませるくらいなら他の部分もそうして欲しかったと思えるほど。なおその組織には、木星太陽化計画の現場責任者でもある主人公の元恋人も在籍しており、それゆえに起こるロマンスや悲劇もやはり描かれるが、そこのシーンもまあ、あれだ。無重力でのラブシーン、の一言に全てが凝縮されている。察して欲しい。

 だから監督の橋本幸治氏に批判が集まるのも当然といえば当然だ。しかし、監督だけがその元凶かと問われたらそれは「否」である。これは当時、同作品の助監督を務めた手塚昌明氏の証言からも分かる。

出典:「今こそ語ろう!映画『さよならジュピター』37年目の真実」より

 そもそも『さよならジュピター』の製作に関しては、小松氏の「シナリオ」が先行していた。つまり小説はノベライズ版だったのだが、その脚本は映画だと3時間超にもなる長尺だった。それを監督だった橋本氏が2時間程にまとまるように詰め、小松氏の意見を取り入れつつ最終稿に仕上げていったという。

 しかし橋本監督は「まさか自分がSF大作をやるとは思っていなかった」そうである。もともとは『日本沈没』でも組んだ森谷司郎氏が予定されていたものの急逝され、長らく氏のもとで助監だった橋本幸治が抜擢という経緯もあり、また橋本監督はどちらかというと文芸作品志望だったようだ。上記の同人誌にて手塚監督はこう語っている。
「やっぱり向き不向きはあるし、それを考慮せずに(東宝も)『お前やれ』と任せたのはどうかな」と。

 さらにはこんな話も。
「小松左京さんと橋本さんがスタッフルームに入ると、絶対に小松さんが勝つ。プロデューサーで(元となる)脚本も書いて、総監督もやってるからもう誰も文句言えない」。
原作者が『書ける』と思って脚本書いちゃいけない。やはり別の知恵が入らないとダメだった。(中略)原作通りにやりたいところを繋げれば原作の味が保てるかというと、やはり違う。それはしみじみ思った」。

 だから、原作者が大乗り気なのは理解できるが、それを橋本監督が無視したというのは違うのではあるまいか。何より、壮大なアイデアを一本の映画に落とし込むという点で、小松氏の方法はやはり違っていたように思える。
 「脚本書く時は別の知恵が入らないとダメだった」のは、同じく小松左京原作の映画『日本沈没(1973年版)』が証明している。物語は基本的に原作の筋通りだが、削るトコは削りつつ、東京大震災における消化弾とか「門を開けてください!」等の原作に無い要素を足したにもかかわらず、全く違和感ゼロの映画に仕上がっているのだから。
 あの映画にもロマンス要素はあったが、日本が沈むという事実に直面した科学者や政治家といった人々へのドラマを何一つ疎かにはしなかった。そこへ中野昭慶による特撮スペクタクル要素をマシマシにして、映画としての見せ場をしっかり用意したからこそああも面白くなったのだ。

 小松左京氏は「全カット絵コンテを描いてビデオで撮影してイメージまで作り、パソコンでスケジュール管理」するつもりでいた。自分の中にあるアイデア通り、筋書き通りに映像化すれば絶対に面白くなるという自信を持っていたのだろう。しかしそれが実現したとて、本当に面白い映画が完成していたかどうかは分からない。所詮は「もしも」の考えに過ぎないのである。

 ここで必要だったのは「2時間の映画として作る場合、どこをどうやって落とし込むべきか」という作業だった。実際に出来上がった作品が「やりたいことを繋ぎ合わせただけの映画」でしかなかったのであれば、なおそう思えてならない。
 その作業の中で様々な齟齬や考えの不一致が起きた結果、かくも残念と呼ばれる作品になったのだろう。文芸作品を志望していた監督のもとにSFの話が持ち込まれ、そこに総監督の小松氏がアレコレと言ってきたからには、こうなるのも当然だったか。

 ならば監督の橋本幸治氏は責任がないのかというと「ある」のだ

 手塚監督曰く、橋本氏に関しては「真面目で静か、実直な演出をする方」でもあったという。ただその「実直な演出」というのが『ジュピター』には合わなかった。手塚監督の話によると、橋本氏は「ラブストーリーを描きたかった」そうで、SFというのは本人にとって畑違いだったのである。もちろん映画として面白いものにしたいという思いはあったはずだが、もともとが宇宙を舞台にした壮大なスペクタクル作品だったのを「愛を描きたい」という方向性にまとめたのは違っていたとしか言えない。

 つまり、橋本監督なりの考えと、総監督である小松左京の意向がどうにもズレてしまった結果があの作品だと思えてならないのだ。公開当時に
「製作指揮・小松左京による日本SF映画がついに公開!」
とばかりに期待を膨らませて劇場に行き、そのズレ具合に落胆した人の気持ちは如何ばかりか

 とはいえ「真面目で静か、実直な演出」だという橋本監督のセンスにはこれまた疑問が残る。やはり手塚監督によると、橋本氏は『緯度0大作戦(1969)』の本編助監督を務めた経歴があり、スタッフルームでその話をされた際は「強化服の手袋から火炎やビームを出す、というアイデアを出したのは自分だ」と語っていたそうだ。手塚監督はそれを知って心の中で
「お前か!」
と。何でもアリの困ったアイデアを自慢されてもどう反応したらいいやら、という気分だったとか。なお無重力ラブシーンは当時から笑いもので「小松さんは色っぽい場面が好きだから」

 つまりあの場面は橋本監督のセンスと小松左京の趣味だったのである。そりゃどこかズレた映画にもなるわけだ。川北紘一監督による特撮が、厳しい点もあるけれどどうにか頑張っていると思えるだけに、何とも惜しい、というかもう少しマトモに出来なかったのか、とつくづく思うのである。
 先に紹介した同人誌の筆者は、結論でこう述べている。スペクタクル性を求めた観客側の期待に応えられなかった点や、ラブシーンの不要さを指摘しつつも

「ストーリーや特撮そのものにあまり悪い印象は抱いていないことが自分にも分かる。となると本作は本編監督が代わればもっと違う映画に化けるのではないだろうか。技術が進んだ今こそリメイクが観たい。
 『日本沈没』ばかりリメイクされるのももう皆さん飽きたと思うので、今こそ『さよならジュピター』復活の時と言える。」

 さてどうだろうか。元のシナリオを忠実にアニメ化、なら案外いけそうな気もするが。ただし、ジュピター教団は出していいけど照れるような場面は止めてくれ。あと無重力ラブシーンは無しで。

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