最近の記事

追加報告書「猿供養寺と白い人」

荒木佑介+伊藤允彦 荒木 白い人は消えたんですよ。 伊藤 ?! 荒木 下り坂はカーブを描いていたため、手前にある小屋で一瞬死角が生まれました。伊藤さんも小屋の手前で車のスピードを緩めたから、気付いていると思ったのですが……小屋を通り過ぎようとした時、その白い人はどこにもいなかった。 伊藤 そうだ、あの時何かがいた気がしたんですよ。それでスピードを緩めた。 荒木 えっ。 伊藤 我々は何を見たんでしょうね。 荒木 サル……。 伊藤 それだ。圧縮された死者。サルとは何か。 荒木 

    • 調査報告書4「板子一枚、下は地獄」-瀬戸内海島嶼調査報告 | 家船特集

      荒木佑介+伊藤允彦+柳生忠平 漁師は夜漁が多く、仕事の場も「板子一枚、下は地獄」といわれた海の上である。時間的にも空間的にも、農民や町人とは生活様式が異なり、この浮き世で縋って生きる神々も違っていた。 『瀬戸内の被差別部落』沖浦和光、解放出版社、2003 「調査依頼」荒木 瀬戸内国際芸術祭2019の開催にあたり、参加作家であるKOURYOUさんから調査の依頼があった。依頼内容は多岐に渡り、打ち合わせの際に渡されたメモは以下のようなものだった。 荒木さん(家船のお父さん→

      • 調査報告書3「猿供養寺とマヨヒガ」

        荒木佑介+伊藤允彦 「名前のない人柱」(2003.5.3) 「じれったいわねえ。お坊様は自ら人柱になったんでしょ。そして村は災害から救われた。」 「そうなんだけど……。このお坊様には名前が無いのよ。」 「えっ!」 「村を救ってくれた命の恩人の名前を残さない人柱伝説って、楓は信用できる?」 しのぶの言っている意味が、楓にもようやく分かりかけてきた。 つまり “名前を残せない理由がこの人柱伝説にあるのではないか” というのである。 (『猿供養寺物語と人柱伝説』より) 人柱供養

        • 調査報告書2「平和公園と名古屋」

          荒木佑介+伊藤允彦 「復興と復旧」 伊藤 昔の人は国造りをどういう想像力で捉えていたのでしょうね。今ある大地が、一から作り出されることを想像したのか。それとも、災害による地形変動を目撃していたのか。 荒木 一から作り出される世界を想像するために、災害のイメージを用いたのかもしれないということですよね。想像力のもとになるような現実を目撃したというか。終わりと始まりは常に重なっているというか。それで思い出すのが戦災復興都市計画です。中でも、名古屋はかなり実行できた街なんですよね

        追加報告書「猿供養寺と白い人」

          調査報告書1「川中島八兵衛」

          荒木佑介+伊藤允彦 「川中島八兵衛さんを探しています」(現地調査) 川中島八兵衛。静岡県の一部地域のみで信仰されている人物である。大井川流域、下流北面に位置する島田市と藤枝市と焼津市。そこに彼の名を冠した石碑がいたるところにある。未確認情報を含めれば90以上。決して多いとは言えないが、それら全てが八兵衛の名を冠した石碑であり、今もこの地において信仰の対象となっているとしたら、どうだろうか。 そもそも川中島八兵衛とは何者なのか。 「お遍路姿でこの地にやって来た」 「漢方医学

          調査報告書1「川中島八兵衛」

          本所深川

          中沢>戦争終わって、終わってって負けてですね、はっきり言えば。マッカーサーが、民主主義というのをくれましてね。民主主義というのは、悪いことじゃないんだろうけど、ちょっとおかしいんじゃないかな、と思うこともあるんですよね。 中沢>政治の意見の違う人は、当然あるだろうけれどもね。でも、個人的にも憎たらしい人、そういうこと言ったら、怒られるだろうけれど、いることはいますね。 中沢>だってこのへんこわかったでしょ。私は本所なんです。石原町。 浅沼>近いんですね。 中沢>近いですよ。一緒です。焼けた時はね。このへんだったら清澄庭園に逃げて。 浅沼>いや、あんなところ逃げることもどうすることもできません。あの風のひどい晩ですからねえ。 中沢>あそこでだいぶ助かった方がいらっしゃって。 浅沼>あの中で池に入ってね。 中沢>広くてね。 浅沼>焼け跡ですね。 中沢>本所深川っていったら、大変だったんですからね。よく助かったですね。いやもう、結構なことだけどさ。 中沢>もうね、総武線が、あの電車ね。嫌な気持ちだったほんとに。電車が見えるんですからね。こう、わーっと、焼けちゃってね。 浅沼>錦糸町の駅が残ったようですね、あの時。 中沢>僕は両国の方にいて。 浅沼>あそこ残りましたね。 中沢>残りました。残りましたっていうよりはね、あの頃は駅の側を、強制疎開でぶっ壊してね。 浅沼>なかったんですね、駅が。 中沢>なかったんです。 田河>羅南というところですよ。東京の第一師団から行くんです。大正八年の兵隊ですからね。柳家金語楼なんてえのも、あたしと同じ連隊でね。 田河>満州で原稿書いちゃあ、送っていたんですが、行くと二、三ヶ月、ぐるぐる回ってね。満州事変、支那事変っていう頃でね。開拓者の方へ慰問もしていられないから「あんたが顔出してやれば、ファンが沢山いるから、喜ぶから」 田河>「あんたがのらくろを描くと、少年倶楽部がよく売れる。今紙が大事なんで、必要以上に雑誌が売れるということは、国策上うまくないから。あんたのファンが買うんだから、あんたにやめさせりゃあ、あれほど雑誌が売れないで済む」というようなことを言われましてね。まあ、やめろと言われて。「だけど内容を見てください。あたしはね、こうして五族協和の国策漫画描いてるんだから」って言ったら、「いやあ、あんた商業主義に協力してんだよ」なんて言われてねえ。あたしの言い分も通らなかったですよ。 田河>だいたい満州は、農業移民が多かったですよね。これにすると、帰って来られないんです。地下資源開発なら山師ですからね。はずれりゃあ、帰ってきたっていいんだから。金だか石炭だか、わからないけれど、なんかにぶつかるだろうってんで、地面掘らせてね。 中沢>先生は昔、落語作家だった。落語好きじゃなかったそうですけれど。 田河>好きで落語を研究したとかいうことじゃなくってねえ。生まれが明治でしょ。つまり、時代が明治。場所が深川なんですよ。 中沢>本所ってのは、何なんですか。 田河>本所で生まれて。 中沢>本所で生まれて深川で育って。 田河>深川で育って。隅田川の向こうの調子なんですよ。明治の頃の。今は分化で混同しちゃってるけど。明治の頃の、隅田川の向こうの、本所深川っていうのはね、今、私がしゃべってるような、こんな調子のところなんです。 中沢>そうですよね。あたしは石原町なんです。生まれたのが。 田河>被服廠の。 中沢>そうですね。震災の時は、一つくらいの赤ん坊でね。おふくろの背中で助かったんですけどね。 田河>十一年。 中沢>十一年です。 田河>十一年ならね、のらくろ会に入る資格がありますよ。 田河>弥勒寺橋って、橋があったでしょ。 中沢>どのへんですか。 田河>亀沢町から深川の方に向かって、最初の橋ですよ。その近く、林町なんです。今は立川町って言ってますがね。竪川筋にあるんでね。林町で生まれて。おふくろが早く死んだもんだから、親父が後妻をもらうのに、先妻の赤ん坊が邪魔なもんだから、深川にいるおじに、あたしをあずけちゃって。おじはこどもがなくって、大屋で隠居なんですよね。うちの母親まで隠居で。 中沢>横町の落語じゃないですか。深川のどのへんですか。 田河>八幡様の近所です。所が深川で。時代が明治で。だから落語なんかね、別に研究したり調べたりってこといらないで。近所が熊公八公ですからね。だから字で、原稿用紙の上へ言葉を並べりゃあ、落語になっちゃう。

          本所深川

          本所深川

          3 Barracks

          Hardy Barracks Meetinghouse The New Sanno

          真説・桃太郎

          14-1 14-2 14-3 14-4 14-5 14-6 14-7 14-8 14-9 14-10 14+1 14+2 14+3 14+4 14+5 14+6 14+7 14+8 14+9 14+10 洞窟教室 真説・桃太郎

          真説・桃太郎

          しゅれいのくに

          1 2 3 4 5 6 7 8 守礼門 *中山世譜 巻七 附 嘉靖年間。王命輔臣。加建國門。榜曰待賢後改榜字。曰首里。 (嘉靖七年八年。両遣使請封。疑是此時建之歟) *琉球國由来記 榜門(綾門又云表坊) 當國中山門、修造之事。尚巴志王之自御宇、初而通亨于中華謚禰、欽差内監柴山、副使阮、勅封國王 尚巴志。志好箇時節、中山之匾額持来、繇玆門樓、剏建者也。待賢門(俗曰首里門是也。見年来記)造営之事。尚清王之御宇、剏建之。洪武二十五年 壬申、太祖皇帝、遣賜閩人三十

          しゅれいのくに