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調査報告書1「川中島八兵衛」

荒木佑介+伊藤允彦

「川中島八兵衛さんを探しています」(現地調査)
川中島八兵衛。静岡県の一部地域のみで信仰されている人物である。大井川流域、下流北面に位置する島田市と藤枝市と焼津市。そこに彼の名を冠した石碑がいたるところにある。未確認情報を含めれば90以上。決して多いとは言えないが、それら全てが八兵衛の名を冠した石碑であり、今もこの地において信仰の対象となっているとしたら、どうだろうか。

そもそも川中島八兵衛とは何者なのか。
「お遍路姿でこの地にやって来た」
「漢方医学に精通していた」
「出身は和歌山」
しかしどれも確証がない。いつの時代の人間なのか、何者だったのかも分からない。彼の事績を辿ると300年近くになるという話もあり、また、最近まで生きていたと信じる人もいる。

ではなぜ八兵衛は信仰されるようになったのか。
「疫病で苦しむ人々を助けた」
「疫病除け、災害除けになろうという遺言を残して亡くなった」
行き倒れて死んだと伝える地域もあり、はやり神の一種をも思わせる。他の信仰と習合することも多く、祈願内容は災害除けだけにとどまらない。戦時中に戦没者が一人も出なかったことを、八兵衛さんのおかげとする地域もあるほどだ。

川中島八兵衛が何者なのかはよく分からない。ただ、この地域において今も信仰されていることは分かる。驚いたのは、いくつかの石碑はここ十年の間に新しく作り直されていることだ。その信仰の形態で共通するものは、八兵衛という個人名のみである。
果たして、八兵衛信仰とは一体どのようなものなのか。我々はその様子を少しでも見るため、藤枝駅に向かった。

※はやり神:旅人は祟り神になりやすく、逆によく祀ればその利益や絶大なものがあるという庶民信仰(藤枝市史別編民俗78頁)

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川中島八兵衛調査地図1(市街地)

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川中島八兵衛調査地図2(川筋、地形、道路)


No.01 藤枝市前島1丁目 養雲寺跡「紀伊國川中嶋小長谷八兵エ衛」*消失
No.02 藤枝市田沼 欠差組「紀伊國川中嶋小長谷八兵衛」
No.03 藤枝市田沼 田沼南公会堂「紀伊国川中島小長谷八兵衛」
No.04 藤枝市前島2丁目「西國川中嶋八兵衛」
No.05 藤枝市青葉町2丁目「紀伊國川中島小長谷八兵衛」
No.06 藤枝市青葉町4丁目 下青島川原組「紀伊國川中嶋小長谷八兵衛」
No.07 藤枝市青南町「紀伊國小長谷川中島八兵衛」
No.08 藤枝市高岡 兵太夫上「西國川中嶋八兵エ様」
No.09 藤枝市泉町 大弥橋「川中島八兵衛」
No.10 藤枝市大東町「西國川中ノ島庄屋八兵衛」
No.11 藤枝市大東町 下新田一会辻堂「川中島八兵衛」
No.12 藤枝市大新島 上「西国川中島八兵衛」
No.13 藤枝市大新島 下「西国八兵衛」
No.14 焼津市中新田 上集会所「紀伊國八郎兵衛」
No.15 焼津市中新田 北島「西國川中島八兵衛」
No.16 焼津市中新田 竜泉寺跡「紀伊國川中嶋八兵衛」
No.17 焼津市中新田 おはつぼた「西國川中島八郎兵衛」
No.18 焼津市中新田 南島「川中嶌小長谷八兵衛」
No.19 焼津市本中根「紀伊国河中島小長谷八兵衛之塚」
No.20 焼津市大島「川中島小長谷八兵衛」
No.21 焼津市三和 興源寺「紀伊國八郎兵衛」
No.22 焼津市一色 免無「紀伊ノ圀川中島八郎兵衛」
No.23 焼津市田尻 学校地蔵尊「紀伊國川中島八郎兵衛」
No.24 焼津市一色 一色浜「西國川中嶋八兵」*消失
No.25 焼津市田尻 浜「紀伊國川中嶋八兵衛」
No.26 焼津市田尻 泉竜寺「紀伊の國/[川]中島八郎兵衛」
No.27 焼津市田尻 木屋川「紀伊國川中島八郎兵衛」
No.28 焼津市石津 不岩院「紀伊國川中島八郎兵衛」
No.29 焼津市祢宜島「紀伊國川中島八兵衛」
No.30 藤枝市高柳 巾溝「西国川中島八兵衛」
No.31 藤枝市高柳 仁平「西国川中島八兵衛」


「川中島八兵衛ストリートビュー」

No.01〜No.22
https://www.mapillary.com/map/im/20AJRQNZgES3Zbv_QznXkA
No.23〜No.31
https://www.mapillary.com/map/im/BqI14BM0oMgrycLzisDEWg



2019年6月8日。
この日一日かけて我々が調査した八兵衛さんの石碑は、31ヶ所。
八兵衛さんはどのような場所で祀られているのだろうか。その様子が分かるものをいくつか取り上げてみたい。


調査ルートその1(藤枝市)

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No.02 藤枝市田沼 欠差組「紀伊國川中嶋小長谷八兵衛」_1
(中央の祠に八兵衛さんがいる。)

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No.02 藤枝市田沼 欠差組「紀伊國川中嶋小長谷八兵衛」_2
(左端が八兵衛さん。中央と右端は庚申塔。)

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No.02 藤枝市田沼 欠差組「紀伊國川中嶋小長谷八兵衛」_3(明治三十年旧九月建之)

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No.02 藤枝市田沼 欠差組「紀伊國川中嶋小長谷八兵衛」_4(田沼中会館 老人憩の家)
(藤枝駅周辺の八兵衛さんは、老人憩の家、自治会館等、コミュニティ施設の敷地内にあることが多い。入口脇、あるいはその近くにお堂が設けられ、庚申塔やお地蔵さんと一緒に祀られている。コミュニティ三点セットのようである。)

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No.07 藤枝市青南町「紀伊國小長谷川中島八兵衛」_1
(お堂の塗装は近年塗り直されているように見えた。)

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No.07 藤枝市青南町「紀伊國小長谷川中島八兵衛」_2(明治十一寅七月 講中、昭和六十三年七月 再建)
(石碑は新しく作り直されていた。個人名が記されているため、石碑というより墓石に見える。)

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No.08 藤枝市高岡 兵太夫上「西國川中嶋八兵エ様」_1
(八兵衛さんのための広場もあった。)

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No.08 藤枝市高岡 兵太夫上「西國川中嶋八兵エ様」_2
(右が八兵衛さん。左は庚申塔。)

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No.08 藤枝市高岡 兵太夫上「西國川中嶋八兵エ様」_3
川中島の八兵衛さん
今から三〇〇年程前の元禄年間に紀の国日高郡川中島(現在の和歌山県御坊市藤田町吉田)に生まれ、若い時から仏心を起こし、諸国を回って疫病に苦しむ人々を助けた。
川の水が生活に使われていた当時は、河川に沿って流行した伝染病を人々は大変怖れていた。
焼津市大島の小長谷家に婿養子となり、亡くなる時の遺言で「自分が死んだ後もなお疫病よけになってやろう」と誓願を起こし亡くなったという。
大井川水系、特に栃山川沿いの島田・焼津の河川のほとりの七十二か所の地で祀られている。
ここ高岡では毎年八月十六日に供養が行われている。

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No.08 藤枝市高岡 兵太夫上「西國川中嶋八兵エ様」_4
土地占用許可標識
1. 許可年月日 平成25年7月12日 島土維第40-14号
2. 占用目的 「川中島八兵衛さん」の供養祭等に使用する広場として
3. 占用期間 平成25年7月12日から平成35年3月31日まで」

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No.10 藤枝市大東町「西國川中ノ島庄屋八兵衛」_1
(水田の中央にある一族の墓地。左脇に集合している墓石近くに八兵衛さんがいる。)

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No.10 藤枝市大東町「西國川中ノ島庄屋八兵衛」_2

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No.11 藤枝市大東町 下新田一会辻堂「川中島八兵衛」_1

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No.11 藤枝市大東町 下新田一会辻堂「川中島八兵衛」_2
川中島八兵衛について
和歌山県御坊市日高川のほとりで生れた吉田八兵衛さんはお遍路さんとして諸国に漢方医学を説いて行脚し病で苦しんでいる人達を助けたという。元禄十年(一六九七)頃、この地に来て大富村の小長谷家の婿養子となり、近郷、近在の人が赤痢やチフス等で苦しんでいるのを医術の心得により救い、世間の人達に信頼された。遺言によると自分が死んだ後も部落に悪い病気等が流行しないよう、そして川の災害等も見守ると言って亡くなったという。その為、この治療を受けたそれぞれの地元の人々が信仰対象として川の氾濫による赤痢、チフス等の疫病の発生を防いだり、川上に向って濁流をにらみ、流れを和げるために大井川、瀬戸川、木谷川、栃山川、大津谷川沿いやその支線の川岸に八兵衛さんの碑を建立し祀ってきました。又、亡くなった後も願い事が良く効いてくれたので昔から大切にされ、今でも八兵衛信仰は盛んで、大井川町上小杉などでは裏面にあるご詠歌も歌われている。八兵衛さん生誕の家、和歌山県御坊市藤田長吉田 一五五 現当主 吉田八五郎様(平成元年現在) 婿養子先 大富村の小長谷家といわれているが、どの小長谷家であるか現在は不詳である。

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No.13 藤枝市大新島 下「西国八兵衛」_1
(弘法大師と並ぶ八兵衛さん。)

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No.13 藤枝市大新島 下「西国八兵衛」_2


調査ルートその2(焼津市)

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No.15 焼津市中新田 北島「西國川中島八兵衛」
(工場脇で庚申塔と並ぶ八兵衛さん。)

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No.16 焼津市中新田 竜泉寺跡「紀伊國川中嶋八兵衛」_1
(共同墓地の入口付近にいる八兵衛さん。)

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No.16 焼津市中新田 竜泉寺跡「紀伊國川中嶋八兵衛」_2

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No.17 焼津市中新田 おはつぼた「西國川中島八郎兵衛」_1(ボタ)
ボタは屋敷の周辺にもあり、田の中、畑の中、川のそばにもある。そして、このボタは居住区として、あるいは生産の場として、また信仰の場、災害を防ぐ場として語られている。(ヤシャンボー-焼津市南部地区民族誌-45頁)

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No.17 焼津市中新田 おはつぼた「西國川中島八郎兵衛」_2(ボタ)

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No.19 焼津市本中根「紀伊国河中島小長谷八兵衛之塚」
(国道脇の八兵衛さん。)

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No.20 焼津市大島「川中島小長谷八兵衛」
(川沿いの八兵衛さん。)

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No.22 焼津市一色 免無「紀伊ノ圀川中島八郎兵衛」
(道路分岐手前にいる八兵衛さん。)

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No.26 焼津市田尻 泉竜寺「紀伊の國/[川]中島八郎兵衛」
(お寺の墓地にいる八兵衛さん。)

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No.27 焼津市田尻 木屋川「紀伊國川中島八郎兵衛」
(橋のたもとにいる八兵衛さん。)


調査ルートその3(藤枝市)

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No.31 藤枝市高柳 仁平「西国川中島八兵衛」_1
(住宅街にいる八兵衛さん。)

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No.31 藤枝市高柳 仁平「西国川中島八兵衛」_2(平成十一年八月建之)


「川中島八兵衛さんを知っていますか?」(文献調査)
伊藤 川中島八兵衛、疫病や水害だけじゃなくて、鉄道の轢死者の怨霊を鎮めるためだったり、戦没者の慰霊、戦争からの帰還祈願もあったり、なんでもあり感がすごいのですが、『ヤシャンボー』に面白い考察が載ってまして。
焼津にはボタという忌地があるのですが、その中の信仰型のボタは、旅人や川流れの遺体を埋葬した後祟りがあると恐れられ、祀っているうちに頼みごとをしてみたら、効果があった。そこから、信仰の対象になったのでは、という考察があります。実際、文献の中には、旅人や川流れの遺体を埋葬する時に、墓に「川中島八兵衛」と書いたとの記述もあります。
あと、絵本化もされておらず、川中島八兵衛のビジュアル化は皆無でした。土着の信仰なので、仏教のように絵画を必要としなかったのかもしれません。
また、『青島の野仏』には、川中島八兵衛とセットになっている地蔵とか観音とかの一覧があるので、これもまた興味深いです。
文献調査してみて分かったのですが、川除地蔵を始め、全国的に信仰のあるものから、ローカルなものまで、水除けや疫鎮の神仏は調査地域内に、川中島八兵衛以外にもかなりある。その中で最も分かりやすく、かつ未だに信仰されているのは、川中島八兵衛だということも、面白いと感じました。

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荒木 ちなみに、八兵衛の事績を辿ると300年生きていたことになるという話の出所はどちらになるか分かりますか?
伊藤 すいません、その話は川中島八兵衛の碑が安政から明治にかけて墓として作り続けられていることからくる、地元の人の勘違いだったみたいです。一番古いのが、そもそも我々が調査した中にあるNo.8で、1859年ですし。
荒木 なるほど。それもまた面白いですね。
伊藤 確かに。結構最近まで生きていた人と思っている人もいるみたいです。
荒木 伝承のパターンを踏みつつも、変な動き方をしてるところが、八兵衛伝説の魅力かなと。
伊藤 鉄道の轢死者の怨霊とともに供養としてある川中島八兵衛もいて、ここらへんも最近の人という誤解の原因な気が。
荒木 これはいいですね。現代美術のアイディアになりそう。
伊藤 地蔵みたいな確固たるフォーマットがないもんで、バグみたいな挙動しているのが面白いです。
『大井川下江宿区史』に載っている、戦時中に戦没者がいなかったのは、川中島八兵衛のお陰って逸話なんて、完全にバグ挙動ですよ。この文献に載っているように、お札があることもアツい。流れついた者から生まれた信仰のお札を、地元の人が創造する。
『ヤシャンボー』のはやり墓、はやり神になるプロセスを見て思ったのですが、外から来る者=観光客に対する扱いが、諸星大二郎の『闇の客人』や地域アートと明らかに異なるのですよね。最初から、悪いものとして扱っている。それが故に、悪い者が反転して益をもたらすものになっている。水田管理という農業的なコミュニティと、常に河川によって外から災いとその後に利益がもたらされているが故に、外から来る者の本質をちゃんととらえている気がします。バグってますけど。

川中島八兵衛のポイントは2つあると思っていて。
①川中島八兵衛が何者であったかを示すカバーストーリーは存在するが、石碑の周辺にそのテキストはほとんどなく、川中島八兵衛というキャラクターが先行していること。
②もともとは災いをもたらす者であった。
の2点です。

災いをもたらすものが反転しているからこそ、最初から良き神ではないからこそ恐れをもって信仰されている。キャラクターが先行しているからこそ、何のための信仰かに余白があり、鉄道の轢死者の慰霊のような、バグのような挙動で近代的な恐れにも対応している。
荒木 いや、これは大変なことになってきた。
伊藤 妖怪や、神ではなく、肉体を持った人であることも信仰し続けられているポイントかなと。
人であるからこそ、表象は墓になる。墓を常に建て、更新し続けている、慰霊に失敗しているようで、成功している?

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伊藤 川中島八兵衛は、今後大きな災害があったら、絶対に再び起動する予感がありますしね。
荒木 震災の被害を神回避する可能性もありますよね。
伊藤 八兵衛パワーだ。



文・写真=荒木佑介
マップ・リスト作成=伊藤允彦



参考文献

杉本春雄『静岡県史 資料編24 民俗二』1995
宮本勉『新版 駿河の伝説』1994
静岡県志太郡役所『静岡県志太郡誌』1986
青島南公民館『平成14年度第12回南風まつり展示 青島の野仏』2003
藤枝市『藤枝市史 別編 民俗』2002
谷澤靖策『高洲史跡めぐり』2006
杉本春雄『ふるさと高柳』2009
焼津市『やいづ昔話』1982
焼津図書館『広報やいづ』1986
焼津市南部土地区画整理組合『ヤシャンボー -焼津市南部地区民族誌-』1993
焼津市歴史民俗資料館『やいづの昔ばなし』2011
焼津市立港小学校『木屋川のほとり』
河村辰己『川中島八兵衛見聞の記』1991
大塚淑夫『東海道 島田宿の歴史』2016
杉谷敏雄『大井川町 下江留区史』2000
『志太の石碑・石仏めぐり 川中島八兵衛』
http://shidameguri.michikusa.jp/hatibee/
『川中島八兵衛さんを探しています』
https://hachibee-san.wixsite.com/mysite


「レビューとレポート」第2号(2019年7月)

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