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調査報告書3「猿供養寺とマヨヒガ」

荒木佑介+伊藤允彦

「名前のない人柱」(2003.5.3)
「じれったいわねえ。お坊様は自ら人柱になったんでしょ。そして村は災害から救われた。」
「そうなんだけど……。このお坊様には名前が無いのよ。」
「えっ!」
「村を救ってくれた命の恩人の名前を残さない人柱伝説って、楓は信用できる?」
しのぶの言っている意味が、楓にもようやく分かりかけてきた。
つまり “名前を残せない理由がこの人柱伝説にあるのではないか” というのである。
(『猿供養寺物語と人柱伝説』より)

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人柱供養堂に祀られる人骨


「松之山」(2018.6.14)
伊藤 この前、新潟県旧松之山町を調査したのですが、非常に面白い場所でした。松之山は寺社仏閣や土木による路肩構造物・水路がほとんどありません。全てが土工です。石積みはなく、コンクリート構造物もいくつか見られましたが、朽ち果てて利用されていないものが多かったです。通常、地すべり地域には源頭部の土塊に神社が立つのですが、これもない。常に土地が移動することにより、ここには過去が無いのです。あらゆる方角に土が移動しているので、混乱しそうになりました。
荒木 いつ頃から人が住んでいるのでしょうか。
伊藤 恐ろしいことに縄文時代から住んでいるんですよね。地すべり地域って、水が豊富に出るので、飢餓が起きないんですよ。棚田をいくらでも作れるからです。おそらく、土砂災害による死者よりも、飢餓による死者をはるかに怖れていたのでしょう。
荒木 石碑もないのでしょうか。
伊藤 ほぼ見られなかったです。ただひとつだけ、人柱伝説とともに石碑がありました。多分、地すべりは彼らにとって日常だったのです。また、この伝説を土砂災害への警句にしたのは江戸から明治にかけての話らしいです。その前は同じ地域内で転々と集落を移動していたと思われます。近代化により、集落の移動が出来なくなったからこそ、日常を警句にしなければならず、故に石碑が生まれた。そう分析しています。
荒木 民話はどうでしょう。
伊藤 残念ながら今調査している範囲ですと、一般的な乞食と災害を結びつけたものと、人柱伝説しかないです。ただし、巨木信仰が結構あるんですよ。これは非常に合理的で、「巨木=動かない場所」なんですよ。土地が動けば木は大きくならないためです。シンプル過ぎて感動しました。また、「植生の多様性=災害多発地帯」なので、松之山は植生が豊かでした。だからこそ、普遍的な巨木に強い信仰が生まれる。


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松之山周辺の地すべり分布


「地すべり資料館」(2003.5.3)
「気がつかない? 名前が無いのよ」
「えっ!」
「神社に名前が無いの」
今までふたりで多くの神社を見て歩いたが、しのぶの言うとおり、名前の無い、正確には神社名が書いてない神社は初めてである。
人柱に名前が無い。
そして今、人柱供養堂のそばの神社に名前が無い。
(中略)
「お墓なのよ、これ。間違いないわ」
「どうして? 何でお墓なの?」
「うちの宗教は神道なの。うちのお墓とおんなじなのよ。鳥居があって真ん中にお墓があるの」
(『猿供養寺物語と人柱伝説』より)


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人柱供養堂のそばの神社


「猿」(2018.9.17)
荒木 『古生物学者、妖怪を掘る』にヤマタノオロチの分析がありました。ヤマタノオロチは日本武尊が用意した酒樽に首を突っ込み、酔いで動きが止まります。あれは火山から流れ出した溶岩が水辺に到達し、動きが止まることを表しているという分析です。災害の表象は数あれど、そこに動きを入れるとこうなるのかと。災害をリアルタイムで観測できるようになった今、神話の表現こそ身近に感じられるというのは、何とも不思議な気持ちになります。
伊藤 ヤマタノオロチの事例、私も興味深く思いました。特に蛇骨の話が面白く、堆積地の隆起による造山と斜面崩壊が重なることで、蛇(龍)の想像力が生まれたということは、地形と地名や伝説を追う以上の複雑さを感じました。
災害による地形変動の動体記録が神話で行われていたのであれば、現代においてそれに替わる想像力はあるのか。動体記録により、災害による破壊だけでなく、地形変動の終末を記録し、新たな土地開発に利用していたとも考えられます(地すべりの跡地が棚田として利用できるように)。そして、この想像力は、現代では土木構造物により断絶されています。擁壁によって土砂をせき止めることにより、流れてきた土砂から得られるものを失っている。
荒木 神話でも動体記録は次世代の話に繋がってますね。
伊藤 『古生物学者、妖怪を掘る』の視点でいうと、新潟の地すべりの伝説ってちょっと変なんですよ。猿が出てくる。そして人柱と乞食も出てくる。他の地方は山の神とか蛇なのに。新潟で言う猿は何なのか、当たりはついているけど、きちんと調査しないと明言できない。好意的に解釈すると、新潟県は常に地すべり被害を受けていて、地すべり対策技術が異常発達していたので、古くから水抜き工や、杭止め工を施工していたことが伝説から読み取れるのですが(他の地域だと近付かない方法や逃げ方が示されているのに、この地域だけ封印できる伝説が多い)。なので、人柱は工事の死者の暗示と考えることができます。そして、土木以前は言葉そのままの意味の人柱であった。
荒木 それが猿。
伊藤 乞食とか直球で表現してるケースもありますし。


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八幡社 人柱守護神
(「神社に名前が無い」とあるが、我々が訪れた時は扁額が掲げられていた。)


「マヨヒガ」
六三 小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿いて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚しと人に叱られんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。
○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。
○ケセネは米稗その他の穀物をいう。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。

六四
 金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる某かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく空しく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。
○上閉伊郡金沢村。
(『遠野物語』より)


「地すべりと迷い家」(伊藤)
我々が調査した新潟県十日町市の松之山地区は、新潟県下有数の地すべり多発地域として知られている。松之山地区の約44%が地すべり地域とされており、昭和37年4月から発生し、その被災面積が旧松之山町の全面積の1割に及ぶ850haに達した「松之山大地すべり」など、大規模な災害も経験している。
そもそも地すべりとは、斜面崩壊のうち、地下の粘性土と地下水により緩傾斜地で発生する、移動規模数ha以上、崩れる深さ数m〜十数mのものを指す。(註1)豪雨のような短期的な自然現象が起因となり発生する他の斜面崩壊と異なり、地下水という長期間に渡って影響を与えるものが起因となるため、地すべり地域は、1日に数cmという小さな規模であるが今も動き続けている箇所も多い。
大規模の災害が過去に発生し、かつ1日に数cmといえど、地面が動いている土地であると聞くと「何故そのような場所で人が住んでいるのか」という疑問が浮かぶだろう。この疑問を持つのももっともである。我々が普段ニュースで目にする地すべりの被害は、土砂により道路や家屋が無残にも破壊された姿だ。最近だと令和元年8月24日の深夜に福島県いわき市の市街地にある幹線道路付近で発生した斜面崩壊により、幹線道路が土砂で埋まり、信号がなぎ倒された映像や写真を思い浮かべる読者も多いだろう。
しかし、地すべりが災害として、人々の生命を脅かすものとして捉えられるようになったのは、戦後に「地すべり防止法」が作られてからである。前述のように、地すべり地域は地下に粘性土と地下水を持つ。また、地すべりは土砂の移動を伴う現象であるため、土を攪拌=耕す。つまり、地すべり地域は、水もちがよく、豊富に肥料を蓄える良質な土壌と地下水を持つ、豊かな農耕地であるのだ。実際、全国の地すべり地域の耕地率は50%を超えると言われている。(註2)特に米の栽培に適しており、平野の米より品質も良かったため、棚田という形で地すべり地域は農地に転用され、人々は地すべり地域に住み続けた。

今回、松之山地区という国内有数の地すべり地域で調査を行ったため、常に地すべりのことは考えていたのだが、その中でも十日町の鏡ヶ池公園を調査したとき、地すべりと、ある伝承の関係について強く意識した。
当初、鏡ヶ池公園では、地すべりと巨木信仰の関係について調査する予定であったが、目的の巨木(亀杉)はすでに失われていた。仕方なく他に巨木を探すため、公園から山地を登っていくと、突如、地すべり地域に造成された農地にたどり着いた。そこには道中で見られたような針葉樹は無く、開けた空間が広がっていた。
ここで思い起こしたのは、「迷い家」や「隠れ里」として知られている伝承である。厳密に言えば、「迷い家」と「隠れ里」は別の伝承であるのだが、その特徴を以下のとおり整理し、同一のものとして扱う。

①人里離れた山中の深くにある
②訪れた者に富をもたらす
③再び訪れることが困難である

そもそも「迷い家」は、柳田國男が『遠野物語』で紹介したことにより広く知られることとなった。柳田によると、国内各地に「隠れ里」の伝承があるが、西日本から東北へ行くにしたがい、「隠れ里」の所在は具体的になり、地名が見出されるようになるという。(註3)また、竹内利美は『ユートピアとしての隠れ里』にて、全国にある「隠れ里」伝承に登場する屋敷が庶民的な発想の建築物であると指摘している。(註4)これらを先ほど整理した特徴と合わせると以下のようになる。

①人里離れた山中の深くにある
②訪れた者に富をもたらす
③再び訪れることが困難である
④屋敷の建築様式は庶民的なものである
⑤地域によっては「隠れ里」がある具体的な地名を挙げられる

ここで、我々は一つの発想に至った。もしかしたら「迷い家」、「隠れ里」は地すべり地域を指したものではないだろうか。
まず、「①人里離れた山中の深くにある」については、そもそも地すべりは山地の斜面において発生する自然現象であるため、条件を満たす。「②訪れた者に富をもたらす」については、前述したとおり、地すべり地域は豊かな農耕地である。隠れ里で得られる富も、豊かな水源や穀物を指すものが多く、合致している。「③再び訪れることが困難である」についてだが、地すべりの発生した箇所は斜面が崩壊しているため、樹木や草本などの植生は一度リセットされる。その後、荒地でも生息できる低木等が侵入し、植生はダイナミックに変化していく。よって、地すべりが発生した箇所は、周辺の山地と比較し目印となるものが移り変わっていくため、「③再び訪れることが困難である」という特徴も満たす。また、地すべり地域で暮らすということは、水や農作物の恩恵にあずかることができるが、反面、家屋等、居住を支える建築物は破壊される恐れがある。故に地すべり地域の建物は簡素なものが多くなり、「④屋敷の建築様式は庶民的なものである」となるだろう。そして、これほどまでに地すべり地域と「迷い家」、「隠れ里」の特徴が一致するからこそ、「⑤地域によっては「隠れ里」がある具体的な地名を挙げられる」のではないか。
「迷い家」、「隠れ里」を矮小化したユートピアと捉えることもできる。しかし、地形的な観点から見れば、それは常に動く大地の上に生活することを選択した我々の先代達が見出した、この日本列島で生活するための実践的な場であったのではないだろうか。


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鏡ヶ池


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地すべり地域に造成された農地


「地すべりと巨木信仰」(伊藤)
文化庁が発行している平成30年度宗教統計調査によると、新潟県の寺院数は全国8位であるが、今回調査した松之山地区周辺では、不思議と寺を見かけることが少なかった。寺が少ない理由は、地すべりと紐づけることができる。眞田弘信の『猿供養寺物語と乙(宝)寺』では、地すべりの発生等により寺が河川を経由し海まで流され、仏舎利や仏像、経典が失われることを防ぐため、これらを避難・移転した可能性が示されている。
確かに、信仰の根拠となるものを保存しなければならない場合、地すべり地域のような大地が動き、建物が破壊される可能性がある土地では、保存の観点からしても移転することが妥当であると言える。では、移動する土地ではどのような信仰が可能であるのか。
今回の調査地周辺には、町の天然記念物に指定されるような樹齢数百年を超える巨木がいくつか見られた。そして、その周辺にはほぼ確実に、墓地や神社、庚申塔などがあった。
例えば、樹齢300年を超える「庚申夫婦杉」の周辺には、その名が示すとおり庚申塔が建立されており、大地の芸術祭をきっかけに木造校舎を改修してつくられた体験交流施設、三省ハウスの付近にある白山神社にも、「小谷の大ケヤキ」という樹齢600年のケヤキがある。白山神社はまさに地すべりと地すべりの間、移動が前提となる土地の中でも長期間に渡り動いていない場所に位置している。
このような動かない場所を特定することは容易だ。地すべりは比較的浅い表層部が土塊となり移動するため、そこに生える樹木は完全に倒れず、傾くことが多い。樹木は、傾いた状態から光を求め成長するため、幹や根の付近で曲がりを起こす。(根曲がり・幹曲がりと呼ばれる現象であり、積雪地域では、雪の重さによって発生するので、根曲がり・幹曲がりが発生しているからといって、必ずしも地すべり地域ではない点に留意したい。)また、地すべりにより大地が移動しているのであれば、当然樹木は大きく成長することが難しい。つまり、樹齢数百年を超え、幹が真っ直ぐな樹木は、その土地が移動していないことの証となるのだ。
動かない場所であるからこそ、コミュニティを維持するための講や慰霊の場所である墓地が集約される。移動する土地に住むが故の合理的な判断と言えるだろう。


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庚申夫婦杉


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小谷白山神社


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小谷の大ケヤキ


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根曲がり・幹曲がりをおこした樹木


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神社の脇にある墓地


「サル」(2018.10.17)
荒木 白い人は消えたんですよ。
伊藤 ?!
荒木 下り坂はカーブを描いていたため、手前にある小屋で一瞬死角が生まれました。伊藤さんも小屋の手前で車のスピードを緩めたから、気付いていると思ったのですが……小屋を通り過ぎようとした時、その白い人はどこにもいなかった。
伊藤 そうだ、あの時何かがいた気がしたんですよ。それでスピードを緩めた。
荒木 えっ。
伊藤 我々は何を見たんでしょうね。
荒木 サル……。
伊藤 それだ。圧縮された死者。サルとは何か。
荒木 死者でもあり、生者でもあり……。


構成・写真=荒木佑介
文・マップ作成=伊藤允彦


参考文献
註1 『技術者に必要な斜面崩壊の知識』飯田智之、2012年
註2 『松之山町史』松之山町史編さん委員会、1991年
註3  『柳田国男傑作選 神隠し・隠れ里』柳田国男、2014年
註4 「ユートピアとしてのかくれ里」竹内利美、1969年

『遠野物語』柳田國男、1910年
『道ばたの神々』木暮幸雄、1981年
『災害絵図研究試論』北原糸子、1999年
『猿供養寺物語と人柱伝説』眞田弘信、2004年
『猿供養寺物語と乙(宝)寺』眞田弘信、2005年
『ユートピアとウマレキヨマリ』宮田登、2006年
『古生物学者、妖怪を掘る―鵺の正体、鬼の真実』荻野慎諧、2018年


「レビューとレポート」第4号(2019年9月)

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