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追加報告書「猿供養寺と白い人」

荒木佑介+伊藤允彦

荒木 白い人は消えたんですよ。
伊藤 ?!
荒木 下り坂はカーブを描いていたため、手前にある小屋で一瞬死角が生まれました。伊藤さんも小屋の手前で車のスピードを緩めたから、気付いていると思ったのですが……小屋を通り過ぎようとした時、その白い人はどこにもいなかった。
伊藤 そうだ、あの時何かがいた気がしたんですよ。それでスピードを緩めた。
荒木 えっ。
伊藤 我々は何を見たんでしょうね。
荒木 サル……。
伊藤 それだ。圧縮された死者。サルとは何か。
荒木 死者でもあり、生者でもあり……。

調査報告書3「猿供養寺とマヨヒガ」(レビューとレポート第4号 2019.9)は、このような会話で終わっている。この会話は、調査から帰宅したのち、LINEで交わしたものをそのまま載せている。私が白い人を見たその時、運転席の伊藤氏に向けて「今誰かいましたよね」と言ったことを思い出す。気のせいかなという思いもあり、話を広げることはしなかった。光の加減なのか、白い人は少しぼんやりしているように見えた。(荒木)

鏡ヶ池から車に乗って移動、マリア観音へ向かう
鏡ヶ池から降る途中、人が目に入り車のスピードを緩める
人は、車道に飛び出すことはなかった。どこへ行ったかは見失う。
※調査当時のメモから抜粋(伊藤)

農道、あるいは林道のような中山間地にある幅員の狭い道路を車で走行するときは、「ここは車のための道ではない」という意識を持って運転している。
このような道では、農作業者、登山客、サイクリングツーリスト、シカ、イノシンなど、市街地の道では想定しないもの達が横切る。
あの時も、ほとんど条件反射に近かったと思う。確かに、何かが道を横切る気配がした。車のスピードを緩めたことは間違いない。
荒木氏は、白かったといった。色までは認識していなかった。そこには確かに何かがいた。しかしすぐに見失った。
思い返せば、それは白かったのかもしれない。見通しの悪いカーブ、小屋もあった。人がいることを想定したのは間違いない。視界の隅で何かが動いたのだ。
見通しが悪かったのに、気づいたのだ。きっとそれは目立つものだったのだろう。

そう白かったのだ。それは、間違いなく白い人だったのだ。(伊藤)


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鏡が池の看板 撮影=荒木佑介


「猿供養寺とマヨヒガ」が公開されてから二週間後、一通のメールが私の元に届く。差出人は眞田弘信。『猿供養寺物語と人柱伝説』の著者である。我々の調査報告書はこの文献をベースにしており、引用もしている。その著者から連絡が来たのである。(荒木)

「猿供養寺とマヨヒガ」読ませていただきました

眞田です。
「猿供養寺とマヨヒガ」読ませていただきました。
神社の正式名は「八幡社」といいます。
当時、神社に名前が無いと村の人達に言ったら、直ぐに、「人柱守護神」という銘板を鳥居に付けました。
現在、その地域の方々と「丈ケ山ファンクラブ」を結成し、活動をしています。
ホームページもありますので覗いてみて下さい。

眞田弘信(2019年9月25日)

私は伊藤氏に連絡した。「猿供養寺とマヨヒガ」は、伊藤氏のプレゼンから始まり、本文も伊藤氏の分析がメインとなっている。私はあくまで聞き手にすぎない。二人の間でどんな会話が交わされるのか。そんな期待を抱きつつ、眞田氏のメールを転送した。
伊藤氏はその日のうちに返信をし、その二日後、眞田氏から再度返信があった。その内容は我々の調査報告書に対する回答が含まれていたのだが、読み進むにつれ奇妙な話へと変わっている。白い人は誰だったのか。眞田氏はそれに対してはっきりと答えている。(荒木)


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『猿供養寺物語と人柱伝説』と『猿供養寺物語と乙(宝)寺』 撮影=荒木佑介


『猿供養寺とマヨヒガ』お読みいただきありがとうございました
眞田弘信様
CC.荒木さん

突然のメール失礼します。荒木さんと『猿供養寺とマヨヒガ』を共同執筆いたしました、伊藤允彦と申します。「地すべりと迷い家」及び「地すべりと巨木信仰」を担当いたしました。なお、メールアドレスは荒木さんから教えていただきました。
普段は、静岡県庁の林業専門職をしておりますが、ライフワークとして災害と慰霊について、荒木さんと全国を巡り調査しております。この度は、『猿供養寺とマヨヒガ』をお読みいただきありがとうございます。
今回の論考は、地すべり資料館にて『猿供養寺物語と人柱伝説』と出会ったからこそ書けたといっても過言ではなく、眞田弘信様にお読み頂き、嬉しく思っております。
また、『丈ヶ山ファンクラブ』について御紹介いただきありがとうございます。「ふたりのサル変死事件」について、大変興味深く読ませていただきました。
四つの古典書に記載された猿の死んだ様子が一致していること、猿供養寺集落に伝わる”越後の猿のお話”との相違点から、現場検証さながら”サル”の死因を同定していく様子はスリリングであるとともに、古典書や伝承に残された記述から思考を巡らせていくことの重要性を教えていただけました。
今後も調査を続け、可能であればテキストにまとめていく予定ですので、また機会があればご覧いただければと思うとともに、『猿供養寺とマヨヒガ』の御感想もお聞かせいたければと思います。
この度は、ご連絡いただき、誠にありがとうございました。

伊藤允彦(2019年9月25日)
RE:『猿供養寺とマヨヒガ』お読みいただきありがとうございました
伊藤允彦様

メール、有難うございます。

私も、新潟県庁土木技術職でした。
14年前にリタイアし、今は、好きなことをやって過ごしています。
「災害と慰霊」がライフワークですか。
素晴らしいですね。

「災害と慰霊」にということなので、少し、猿供養寺集落の「人柱伝説」についてお話します。
新井砂防事務所に勤務した年の前年に、板倉町史が発刊されました。
4月の着任早々、板倉町長が、町史3巻を持って私の所に来ました。
その町史の巻頭言には「人柱伝説」「ふたりのサル」「恵信尼」が紹介されていました。
これが、「人柱伝説」に出会ったきっかけです。
町史の中で説明されている「人柱伝説」の他、ネットで紹介されている「人柱伝説」などを調べていくと、ストーリーの展開がおかしいことに気づきました。

〇目と耳が悪いお坊様が、暗闇で大蛇を見、ひそひそ話を聞いた。
〇大蛇は「これから”オオノケ”を起こそう」と言っていたのに、猿供養寺集落は大地すべりがすでに起きていた。
〇何よりも、村を助けたのに、お坊様の名前が伝わっていない。
〇人柱になるために入ったザル甕が逆さま(上から被さる)である。

そこで、猿供養寺の区長さんに会いに行き、このことを伝えました。
私の質問は、「言い伝えは、矛盾だらけだ」という言い方ではなく、「このストーリーの矛盾には何か裏の真実が隠されているに違いない。何か思い当たることは有りませんか?」という言い方です。

区長さんに名前のない神社のことも伝えました。
すると、区長さんは、数日後、神社の鳥居に神社名を掲げました。
私の常識の中では、神社の管理者は神主さんであると思っていたのですが、ここでは、住民が勝手に神社名を変えて「人柱守護神」としてしまったのです。

これには正直驚きました。
「こんな事本当に有りなの?」という訳です。

昭和12年に、偶然にザル甕に入った人骨が発見されます。
村の人々は、人柱伝説が真実であったことがわかり、立派な供養堂を建立します。
村人にとって、人柱となったお坊様は、自分たちの守り神なのです。
恐れや畏怖など全くない、親しみの象徴なのです。
ネットでは、県内トップクラスの心霊スポットなどと紹介されていますが、村の人々の見方は全く違うのです。

さて、この「人柱伝説」の矛盾の謎は解けぬまま、4か月ほど経過します。
考えても考えても全く分かりませんでした。
特にお坊様に名前のない理由です。
「毎年、人柱をやったから多くて名前など残せない」「名前を聞く余裕などなく無理やり人柱にした」
これではいくら何でも、村の人々に失礼です。
当時は単身赴任ですから、アパートに帰ると、寝付くまでの間、解けぬ謎に毎日悶々としていました。

さてここから、信じられないお話になります。
8月になって、親戚の仲間で石川県の霊峰「白山」に登りました。
頂上の室堂で一泊しましたが、8月なので大混雑。
狭いうえに、周囲のいびきと寝言がうるさくて眠ることが出来ませんでした。
仕方なく、いつものように考えても考えても解けない「人柱伝説」の謎解きをやっていたのです。
多分、3時か4時ごろまで眠れなかったと思います。
そして、夢を見たのです。
お坊様が、夢に現れ、「私は、サルじゃ。サルという名だから、名乗らなかったのじゃ」と。
本当の所、実は夢かどうかすら、今考えると、どうも良く分からないのですが、兎に角、謎解きの答えは見つかりました。
お坊様が答えを言ってくれたのです。

このお坊様の答えの様子は、第一巻「猿供養寺物語と人柱伝説」の最後に書きました。
本当に、不思議な体験をしました。
「白山」だから、お坊様は夢に現れたのでしょうかねえ。

お話は長くなっていますが、もうしばらくお付き合いください。

荒木 白い人は消えたんですよ。
レポート中の荒木さん達が出会ったという(感じたのかも?)「白い人」についてです。
何故白なのか?
「人柱供養堂」の中の左壁に、ザル甕に入ったお坊様の絵が有るのに気付きませんでしたか?。
地元の方が描いた絵ですが、お坊様の着衣は黒なのです。
2年目、地すべり資料館の改造を行いました。
「人柱伝説」の等身大のジオラマを作ったのです。
私が、お坊様の担当でした。
お坊様が土の中に入る時、着衣の色は何色なのか?皆で議論しました。
結論は「黒ではない。間違いなく、着衣は白である」
そこで、お坊様に白い着衣を着せてみました。
その白い着衣のお坊様を見て、全員、余りにも異様に生々しすぎて言葉が出ません。
つまり、正視できないのです。
結局、黒の着衣にしてしまいました。
供養堂の中の黒い着衣のお坊様を描いた人にも聞きました。
「どうして、黒にしたのですか?」
「私も、絶対に白だと思っていますが、どうしても白で描けませんでした」
お二人が出会ったという「白い人」
間違いなく、猿供養寺の人柱のお坊様に違いありません。
お二人の慰霊に対する素直な敬意があのお坊様を出現させたのだと思います。

眞田弘信(2019年9月27日)

お坊様は人柱になる際、白い着衣だったであろうと結論付けたものの、その様は正視できるようなものではなかった。結果、ジオラマも絵も、黒の着衣になってしまった。表現しようにもできない。表現してはならないとまで思ったかどうかは定かではないが、頭の中で「白」だと思っていたにも関わらず、皆が示し合わせたように「黒」になってしまったという。(荒木)


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人柱供養堂 撮影=荒木佑介


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人柱供養堂に飾られているお坊さまの絵 撮影=荒木佑介


それから二年。この話を追加報告書という形で公開することはできないかと思い、眞田氏に連絡してみた。(荒木)

眞田弘信様

調査報告書3「猿供養寺とマヨヒガ」の執筆者の一人であります、荒木佑介と申します。
眞田様にお読み頂けたこと、大変嬉しく思っております。
共同執筆者の一人である、伊藤允彦氏とのメールのやり取りは、私も読ませていただきました。

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調査報告書3「猿供養寺とマヨヒガ」(レビューとレポート第4号 2019.9)
荒木佑介+伊藤允彦
https://note.com/araki_yusuke/n/n201c64ded4fb
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本来であれば、眞田様からメールを受け取った私が、まず返信すべきだったと思います。
とても遅い返信になってしまい、大変申し訳ございません。

「猿供養寺とマヨヒガ」は、地すべりの専門家である伊藤氏のプレゼンから始まり、本文においても伊藤氏の尽力のもと、形になったものです。
共同執筆とはいえ、私は聞き手のようなものです。
そのため、眞田様からメールを頂いた時、真っ先に伊藤氏に知らせました。

そして今回、メールを差し上げたのには理由があります。
「猿供養寺とマヨヒガ」を掲載した「レビューとレポート」の主催者から原稿の依頼があり、何を書こうか悩んでいたところ、眞田様と伊藤氏のやり取りを思い出したわけです。

我々は猿供養寺にて「白い人」を見かけました。
「猿供養寺とマヨヒガ」の本文では最後に触れており、謎めいた終わり方を意図的に演出しています。
これに対する眞田様の返信は、驚愕と言いますか、恐怖と言いますか、私と伊藤氏は冗談抜きで震えあがりました。

結論を申しますと、眞田様から頂いたメールを下地に「猿供養寺とマヨヒガ」の追加報告書を書きたい、そのように思いました。
そのためにはまず、眞田様のお許しを頂きたいと思った次第です。
もしお許しを頂けたら、眞田様に目を通して頂いた上での掲載になると思います。

何卒よろしくお願い致します。
返信頂けると幸いです。

荒木佑介(2021年7月2日)
荒木佑介様

メールをいただき有難うございます。私が以前、伊藤様にメールした内容をすっかり忘れていましたので、改めて読み直しました。あの白山での実体験は実際に私が経験したもので今でも頭の中にはっきりと残っています。

ところで、あなた方が見たという「白い人」についての新しい情報を含めてメールします。

私が、地すべり地帯に住む猿供養寺を含む寺野郷の人々と関わり合いを始めて以来これまでの間、不思議な実体験が次々と起きています。それらは、「たけのやまファンクラブのホームページ」に記載しています。とは言っても、関心が無ければ、見逃してしまうほどのものですが・・・・。

地元の板倉歴史研究会の会長さんから、「たけのやまの山頂が光る。私は見た。村の人も何人も見た」と聞きました。たけのやま登山を終え、15時頃、たけのやまの最も美しく全体像が見える場所を探してカメラを構えた時、山頂に光が射しているのをファインダーの中に見ました。当日は雲が厚く、たまたま、雲の間から太陽の光が漏れ、たけのやまの山頂の一点のみを照らしたのだと思いますが偶然過ぎます。この写真はホームページ(パソコン)の最上段に載せました。

村の人々には「たけのやまは京都の比叡山に似ている」という言い伝えが有ります。ある時、三百名山ひと筆書きの田中陽希さんが比叡山に登る様子がテレビで放映されました。何気なく見ていたのですが、彼は徒歩で登山口に向かいます。市内の川に沿って比叡山に向かうのですがその時の比叡山の姿が何と私が撮ったたけのやまの写真にそっくりだったのです。早速、画像検索してみました。直ぐに見つかりました。京都市内から最も美しく見える比叡山の姿と私が発見した美しく見えるたけのやまの姿形が一致したのです。これは「寺野郷土誌稿を読む」に掲載しました。

この「寺野郷土誌稿」にはたけのやまの神話が載っています。たけのやまの山頂に白丈の神が顕れたというのです。たけのやまの『丈』はこのことに由来すると有ります。建御名方命は「白丈の神はわが父大国主命なり」と言います。そこで疑問が起きます。「白丈」の白は何? 白い衣を着た神か? 神そのものが白色なのか? 私は、山頂が白く光り輝いた時神が顕れたと解釈しました。このことについては「たけのやまの神話を語り合います」に掲載しています。

さて、あなた方が見たという「白い人」の白は・・・・何?

メールのご返事が遅れてしまいました。

全面的に同意いたします。是非とも、良い報告書になることを期待しています。

眞田弘信(2021年7月2日)

白い人を見たのは、鏡ヶ池を訪れた帰りだった。その人が着ていた服は光を強く反射しており、私はそれをシンプルに、白い人と言い換えたものだったのだが……。(荒木)

そら寒い体験をした。調査地で、文献を購入する。それはこれまでも繰り返してきたことだが、このような体験をすることは今後無いことを願いたい。
眞田弘信氏の執筆した『猿供養寺物語と人柱伝説』は、参考文献の一つになるはずだった。私たちの論考を補完する参考資料、それ以上のものになるはずはない。
しかし、読んでみるとどうだろう。登場人物が辿る行程はおろか、乗っている車の車種も一致するではないか。「名前の無い神社」に名前があることにさえ、意味を見出してしまう。時系列の違いや記憶の錯誤ではない、物語の分岐を感じる。『猿供養寺物語と人柱伝説』で旅をした彼女たちと私たちに違いはあるのだろうか。物語との偶然の一致で済む話なのだろうか。
あの時、ただそこにあるものだけを見ていたら、偶然の一致として笑い話になったのだろう。しかし、私たちは見てしまったのだ。あの白い人を。このことを眞田氏に伝えたらどうなるのだろうか。笑い話として流されることは無いだろう。きっと、私たちは別の物語に連れていかれるのだ。再び、猿供養寺を訪れ、そして眞田氏にお会いするまでは、きっと私たちの調査は終わらない。
※調査当時のメモから抜粋(伊藤)


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鏡が池 撮影=荒木佑介


文・構成・写真=荒木佑介
文・構成=伊藤允彦
文・協力=眞田弘信


参考文献
『猿供養寺物語と人柱伝説』眞田弘信、2004年
『猿供養寺物語と乙(宝)寺』眞田弘信、2005年
『丈ケ山ファンクラブ』https://sanahiro2.wixsite.com/takenoyama


トップ画像撮影=荒木佑介


荒木佑介
1979年リビア生まれ。アーティスト、サーベイヤー。瀬戸内国際芸術祭2019 (※KOURYOUチーム、リサーチリーダー)、削除された図式/ THE SIX MAGNETS(ART TRACE GALLERY 、2020)、EBUNE(福岡、佐賀、淡路島、2020〜2021)、レビューとレポート(伊藤允彦との共同調査)、ゲンロンβに寄稿。


伊藤允彦
1987年静岡県生まれ。2011年静岡大学大学院農学研究科修了。荒木佑介との共同調査として、「調査報告書1『川中島八兵衛』」(レビューとレポート第2号 2019年7月)、「調査報告書2『平和公園と名古屋』」(レビューとレポート第3号 2019年8月)、「調査報告書3『猿供養寺とマヨヒガ』」(レビューとレポート第4号 2019年9月)。EBUNE「淡路島漂着」(2021年10月)。


レビューとレポート第29号(2021年10月)

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