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調査報告書4「板子一枚、下は地獄」-瀬戸内海島嶼調査報告 | 家船特集

荒木佑介+伊藤允彦+柳生忠平

漁師は夜漁が多く、仕事の場も「板子一枚、下は地獄」といわれた海の上である。時間的にも空間的にも、農民や町人とは生活様式が異なり、この浮き世で縋って生きる神々も違っていた。
『瀬戸内の被差別部落』沖浦和光、解放出版社、2003


「調査依頼」荒木
瀬戸内国際芸術祭2019の開催にあたり、参加作家であるKOURYOUさんから調査の依頼があった。依頼内容は多岐に渡り、打ち合わせの際に渡されたメモは以下のようなものだった。

荒木さん(家船のお父さん→他の島のコトを家ぞくに教えてくれる)

・地形マップ(ハザードマップ)
 があったらもらってきてほしいです。
 (女木にはコミュニティセンターにありました)
・調べた場所のマッピング
・民間信仰
・墓・古墳・神社(年代、いわれ、ご神体など)
・宗教(仏教が強いとか、他の宗教があるなど)
 島へんろある?
・海岸沿いの古い家の写真
 (海人の陸住み住居っぽかったら)
・他島とつながり
・特産品、食べもの(農家、焼き畑ある?)
・塩田ある?(塩、しょうゆなどつくってる?)
・海ぞくの事
☆雰囲気とか、気になった事なんでも教えて欲しいです!

KOURYOUさんはすでに東讃沖の島々をいくつか回って来たそうで、私には西讃沖を見て来て欲しいとのことだった。そして、粟島に伝わる横に長い神棚を調べて欲しいという依頼もあり、それならば、粟島をはじめとする西讃沖に多く残る両墓制(*1)を見に行きたいと、私の方からも希望を出してみた。
瀬戸内海は多島海であり、また、交通の便が決していいとは言えない。限られた日程で複数の島に渡るとなると、渡航可能な島はおのずと絞られてくる。そこから、本島、高見島、佐柳島、志々島、粟島の五島を選び出し、地形の専門家である伊藤允彦さんをいつものように誘い、丸亀駅で合流することにした。

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粟島の神棚(瀬戸内海歴史民俗資料館) 撮影=KOURYOU


伊藤さんとは事前に資料を共有し、ディスカッションを重ねていた。その上で私が取り上げたいと思った問題はこの二つである。

○粟島の神棚が横に長いのはなぜか。
○西讃沖に両墓制が多いのはなぜか。

美術制作に向けた調査の場合、調査そのものが問題をはらんでいることがある。今回のケースでは、女木島で家船を作るというKOURYOUさんの作品プランに向けて、神棚と両墓制を私が調査することになった。気がかりなのは、作品プランと調査の関係性である。
まず、家船は漂海民であり、階層は一般的な漁師と被差別民の中間に位置する。一方、粟島で横に長い神棚を所有していた人たちは廻船業であり、裕福な家になる。つまり、両者は同じ舟乗りといえども、業種も違ければ階層も違う。
次に両墓制だが、西讃沖で今も多く見られるのに対して、東に行くほど少なくなり、東讃沖の女木島では両墓制自体がない。『家船民俗資料緊急調査報告書』によると、家船の人達の移住先として女木島があり、彼らの墓に両墓制はないとあるので、少なくとも作品プランの中で齟齬はない。

ともあれ、現地入りしなければ話は始まらない。丸亀港から本島までフェリーで20分ほどである。駅から港までの距離も近いので、本島はアクセスしやすい。
丸亀港で『塩飽本島の歴史散歩と文化財めぐり』と題した地図を手に入れ、移動中にルートを決めることにした。本島港で自転車を借り、文化財が集中している東半分を時計回りで行けば、帰りのフェリーに間に合うだろう。

*1 両墓制:一人の死者に関して、死体を埋める埋め墓と、その霊をまつる詣り墓とをもつ墓制。(日本国語大辞典より)


「本島」荒木
本島は両墓制以外にも特徴的な墓がある。人名(にんみょう)墓と呼ばれているもので、形は位牌型なのだが縦にとても長く、その長さは3メートルを優に超える。横に長い神棚を調べる前に、縦に長い墓を見に来たわけだが、人名とは何か、塩飽勤番所跡のパンフレットを見てみよう。

瀬戸内海の潮流が複雑に渦巻いて流れる「潮湧く」風情から名づけられた塩飽諸島。織田信長・豊臣秀吉を経て徳川幕府までの朱印状を得て、海上輸送の功労として、大小28の島々が散らばるこの海域・塩飽1250石を、650人が統治することとなった。
この船方650人は「人名」と呼ばれ、その中から選ばれた「年寄」が島の政治を司っていた。塩飽の要・本島にある塩飽勤番所は、寛政10年(1798)の創建で、年寄たちが交代で政務を執った海の政所である。
(塩飽勤番所顕彰保存会による)

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年寄吉田彦右衛門の墓 撮影=荒木佑介


塩飽の自治とその長の存在を思えば、権勢の大きさが墓の大きさに現れても不思議ではない。ただ、人名墓の多くは、生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るために作る、逆修塔である。塩飽の長たる年寄は、天高くそびえ立つ逆修塔を作ったということになるが、このことは何を意味するのだろうか。そして、現代にも通じる価値観がこの逆修塔にあるとしたら何だろう。
家船、神棚、両墓制、逆修塔。これらを舟乗りの死生観というテーマで括ることは可能だろうか。

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笠島・甲生地区の埋め墓 撮影=荒木佑介


自転車を走らせ東に向かう。新在家海岸を臨むあたりに笠島・甲生地区の埋め墓がある。足を踏み入れた瞬間、起伏の複雑さにまず驚いた。遠目からでは分からなかったが、緩やかな起伏が連続し、あたかも地面が波打っているかのようである。
土葬と一口に言っても、埋葬法には地域差があるため、時間の経過で土が沈み起伏が生じるとは必ずしも言い切れない。そもそも、土葬する場所は整地するような場所ではないと言った方が実態に近いように思う。海岸沿いの集落の場合、海近くに埋め墓が設けられていることがあり、遺骨が流されてしまうこともあるそうだ。

丸亀に戻り、スケジュールを見直していた。というのも調査の数日前、粟島の神棚の件で、瀬戸内海歴史民俗資料館に連絡したところ、詫間町民俗資料館にも神棚があることを知ったからだ。二日目以降のフェリーの発着時間を確認すると、明日の高見島を資料館に変更すればロスが少ない。高見島に行けないことは悔やまれるが、伊藤さんに了承を得て、二日目は詫間町民俗資料館に行き、そのあと佐柳島に向かうことにした。


「詫間町民俗資料館」荒木
詫間駅からまっすぐのびる道をひたすら歩くと、左手に詫間町民俗資料館が現れる。館内は展示物が所狭しと並べられており、塩田に関する展示が豊富であることが分かる。しかし、神棚が見つからない。くまなく館内を歩き回っていると、伊藤さんが誰かと話しているのが見えた。どうやらここの館長だそうで、粟島の神棚は倉庫にあるとのこと。お願いして見せてもらうことになった。倉庫はここから少し離れているので車を出しましょうと、館長に促されるまま車に乗った。
倉庫のシャッターが開いた時、ボンネットバスの消防車が目に飛び込んできて、度肝を抜かれた。館長いわく、人手が足りず資料の整理が追いつかないそうだ。しかしどこに何があるのかは把握しているらしく、神棚の場所まですぐに案内してくれた。神棚は倉庫の二階奥、天井近くに置いてあった。

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粟島の神棚(詫間町民俗資料館) 撮影=荒木佑介


神殿数は九社あった。瀬戸内海歴史民俗資料館で展示されていた神棚が十三社なので、それと比べると神殿数は少ないが、それでも大きく、横に長い。神殿中央に掲げられた扁額には天照皇大神宮、春日大明神、八幡大菩薩の三柱の名が刻まれている。他にはどのような神々が祀られていたのだろうか。参考として、十三社の神棚に納められていた信仰具を見てみよう。

徳重キクノ資料
1 神棚(屋根は中央を高くした屋根違いの十三社様式、神殿も13。)
2 「天照皇大神、八幡大神、春日大神」軸
3 御祓箱「多賀神社 青龍山般若院 壽命延御守」
4 護摩札「安政三年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
5 護摩札「安政五年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
6 護摩札「金峯山櫻本坊奉修 大峯山上護摩供養祈□」木札
7 御祓箱「正一位兼道大明神」
8 御祓箱 (紙札等入)
9 玉串(出雲教大神玉串)
10 護摩札「出雲教大神海上安全守護」木札
11 御師小箱「太神官御師南倉」
12 紙札「住吉大神宮」
13 紙札「住吉大神宮神楽」
14 紙札「住吉大神宮御璽」
15 紙札「住吉大神宮御祈祷御守」
16 紙札「水天宮御守」
17 紙札「厳島神社御守護」
18 小祠「金毘羅宮御守」
19 小厨子(角箱に御幣・鏡・五銭)
20 「八天杓□□始御前祓」入箱「八天杓□□始御前祓」
21 小祠
22 小祠
23 恵比須(陶製)
24 大黒(陶製)
25 厨子(妙見山本尊厨子)
26 妙見山曼荼羅(板に貼り付けられた紙曼荼羅「摂州能勢郡野□妙見山 □衆生故無量神力 南無妙法蓮華経」)
27 御祓箱(御師祈祷封箱「揚舩御祈祷」)
28 御祓箱(祈祷封箱「伊勢永代五千度御祓」)
『収蔵資料目録7』香川県立ミュージアム

廻船問屋が信仰する神が十三という数におさまるようなものではないことが分かる。解説には「豪華さを競った結果なのか、廻船という性格から各地の御神体を納めるために大きくなったと理解すべきか」とあり、粟島が廻船業で栄えていたことを想像させる。
粟島の神棚は、廻船問屋の信仰の多様さを示すものと言えるが、同じ舟乗りである漁民の信仰はどうだろう。

このように自然の脅威と恵みのなかに生きてきた海の人びとにとって、技を磨くとともに大切にされたことは神がみへの祈りであった。それは金毘羅信仰などに代表される海の信仰にあらわれている。海の彼方からやってきたエベスサン(恵比須様)が大漁をもたらし、網にも大漁の神オオダマサン(大玉様・網霊様)が宿ると信じられた。海底のリューゴンサン(竜神様)が海の安全をもたらし、船にはフナダマサン(船玉様・船霊様)がいて危険を知らせてくれるとされた。
『瀬戸内海歴史民俗資料館 総合案内』瀬戸内海歴史民俗資料館、1986

漁民の場合、道具にも神が宿っており、やはり信仰の多様さが伺える。舟乗りには禁忌も多く、海上での死者の取り扱いに関するものは特に厳密に決められている。これらは海上信仰と呼ばれ、その多くは海での安全や豊漁を願うためのものである。
その一方で、近世にキリスト教、明治以降に天理教をはじめとする新宗教も入り込み、瀬戸内海は様々な信仰が混在する場所となっている。古くから交通の要所として栄え、何かが移動することで成り立ってきた場所であるが、神も例外ではないのかもしれない。

詫間町民俗資料館をあとにした我々は詫間駅に戻り、多度津駅へと向かった。多度津港から次の目的地である佐柳島へ行くためである。

次章から視点を切り換え、伊藤さんが見た佐柳島の様子をのぞいてみよう。


「佐柳島」伊藤
佐柳島の長崎港に降り立ち、先ず目についたものは、様々な猫のキャラクターが描かれた浮き玉と「ようこそ!!ねこの島 さなぎ へ」と書かれた看板だ。浮玉は、魚網の目印や浮きとして使われる漁具であるが、島の至る所で装飾具として使われていた。

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佐柳島長崎港にある浮き玉を用いたウェルカムボート 撮影=伊藤允彦


島の北端にある長崎地区の埋め墓に向かうため、海岸沿いの道を進んでいく。本島を調査するに当たっては、港のすぐそばにレンタサイクルがあったため自転車で周ったが、佐柳島のレンタサイクルは長崎港と本浦港の中間地点にあるネコノシマホテルにしか無いため、徒歩で周った。
道中、海岸沿いに位置する鳥居と祠を目にする。この様な真新しい鳥居を構える祠はもう一つ見かけたがどちらも明治30年の旧版地形図には記載されておらず、また、海岸造成地付近に位置しているため、比較的新しい祠であると思われる。

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長崎地区への道中、海岸沿いにあった鳥居と祠 撮影=伊藤允彦


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海岸側から見た鳥居と祠 撮影=伊藤允彦


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道路側から見た鳥居と祠 撮影=伊藤允彦


「ねこの島」と称しているだけあって、島を歩いているとよく猫に出会う。我々以外に島に降り立った観光客が6人ほどいたが、いずれも一眼レフのカメラと猫じゃらしの様なものを持っていた。調べてみると、佐柳島の堤防の間を飛ぶネコの写真がバズり有名になった様である。

海岸沿いの車道を歩き続けると、堤防上の道へとシームレスに繋がる。この辺りから住宅用地よりも道路の方が地盤高が高くなる。
所々、堤防から集落への接続道が伸びている。この歩道は堤防と直交しており、集落を抜けた先にある山間部まで伸びている様に見えた。

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堤防から集落への接続道 撮影=伊藤允彦


堤防沿いを歩き続けた先に果たして、長崎地区の墓地があった。墓地の起点付近には、我々が普段良く見かけるような墓が密集していたが、このエリアを抜けた先に、佐柳島調査の目的地の一つである「長崎地区の埋め墓」があった。

荒木さんが、本島の調査報告において、笠島・甲生地区の埋め墓起伏の複雑さにまず驚いたことを述べているが、長崎地区の埋め墓も複雑な地形を有しており、墓地に足を踏み入れた時、個々の墓に至るための道を認識することが出来なかった。墓と墓の間にある距離、その余白を道とみなし歩かなければ、個々の墓を参ることが出来ない。墓地の区域には、佐柳島に海から流れ着いたか、山間部から流れて来る間に水に削られ、丸みを帯びた石が積み上がっており、微細な高低差をつくり上げている。これらの丸石が墓地区域にある理由を明かすには、地形及び墓地の成り立ち両方の意味において、この場所に積み重ねられてきたものを紐解くしかなく、ここで述べることは出来ないが、少なくとも墓地を歩く身体的感覚において、そこに自然や人による改変が積み重ねられたことを感じとることが出来る。

ただし、一つ地元の方から興味深い話を聞いた。佐柳島で埋め墓の風習があった時、地区の方が亡くなった際には、海岸に赴き石を拾いこれを積みあげ埋め墓をつくり、埋葬したのだと言う。また土葬であるが故に、ある程度の月日が立つと墓の地盤が沈むため、再び積み上げたと、当時の記憶を辿りながら語ってくれた。埋め墓という営みが行われた月日が丸石を積層し、起伏として私たちの目の前に今広がっているのである。

極めて個人的な話を挟むことになり恐縮なのだが、私の家の墓は公営墓地にある。この墓地は昭和58年に整備された市営墓地で、宗教は不問、墓のサイズから普通墓所、芝生墓所、壁面墓所の33の区画に分かれている。「区画」という言葉で表した通り、この墓地は墓と墓の間に直線的な歩道が整備されている。自治体が整備する公営墓地は他の土木工事と同様に、測量・設計・施工のプロセスを経て整備される。設計には計画が必要である。私自身の土木工事を設計した経験から推測するに、公営墓地は、用地の地形・地質的条件と墓地の需要予測に基づいた墓の計画収容量を定めて整備していると思われる。

佐柳島の埋め墓で見た風景と対比し、少しうがった表現をすると、公営墓地は今そこにいる死者の弔いのために立ち現れるものではなく、計画された定量的な死者から算出されたものとも言える。

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長崎地区の墓地 起点付近 撮影=伊藤允彦


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佐柳島長崎地区の埋め墓 撮影=伊藤允彦


長崎地区の埋め墓を後にし、佐柳島の南端にある本浦地区の埋め墓を目指し元来た道を戻る。途中、堤防から集落への接続道を島の山間部の方角へ向かって進むことにした。漁村等で見られるこのような道は、津波等の海から来る災害があった時、逃げることを可能とするため、高台に接続していることが多い。佐柳島においても同様の道路計画がされているのか確認したかったのだが、想定した通り、この道は高台に繋がっていた。

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高台手前の接続道 撮影=伊藤允彦


その後、同じく高台にある愛宕神社に立ち寄りながら、長崎本浦線をひたすら歩き続けた。佐柳島は長崎地区と本浦地区という2つの集落で構成されており、集落内は歩道が網目状に広がっており、道路縁は石積み等の手仕事により複雑さを有しているが、集落と集落を繋ぐ長崎本浦線は人の営みより先ず車を通すための計画幅員の影響が目に付く。

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愛宕神社 撮影=伊藤允彦


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長崎本浦線(余談だが、祠を撮影しているように見える観光客は猫を撮影している。) 撮影=伊藤允彦


海外沿いに長崎本浦線を進んでいくと、ゲストハウスがあった。このゲストハウス「ネコノシマホテル」は、1954年に開校し1995年に閉校した旧佐柳小学校の校舎をリノベーションしたものだ。佐柳島唯一の小学校であったため、長崎地区と本浦地区の中間点に設置していたのであろうか。
長崎港で見かけたウェルカムボードを始め、長崎地区の集落にあった様々な構造物は、漁具や廃材を組み合わせて作られた物が多かったが、ネコノシマホテルは石積みの構造や外装に島外の意匠を感じた。小学校という、島の生活に密着していた建物を再構築して作られたゲストハウスではあるが、島の中でこの場所だけが、島外の物で構成されている様な印象を受けた。

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ネコノシマホテルの外観 撮影=伊藤允彦


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ネコノシマホテルの看板 撮影=伊藤允彦


本浦地区では、長崎本浦線に直交する一つの歩道が気になった。長崎本浦線を挟んで集落側に目を向けると住民が施工したと思われるスロープがあり、住宅まで伸びる歩道のように見える。しかし、海岸側へ目を向けると歩道のように見えたものが海に接続しており、山間部から生じる水を流すための開渠水路であることが分かる。水路でもあり道路でもあるという土地の利用形態に注目したい。

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本浦地区の集落内歩道 撮影=伊藤允彦


ここで話を再び公営墓地に戻す。私の仕事柄、市町村職員と会話することが多いのだが、彼ら・彼女らと墓地行政の話をしている時、公営墓地について、自治体が墓地を整備または管理していることを明言せず、あくまで土地を整備、管理しているのだと言われることがある。確かに、政教分離行政の背景からこの様な振る舞いになることは理解できる。しかしここで『墓地、埋葬等に関する法律(昭和23年5月31日法律第48号)』の第1条を見てみると、下記の通り記載されている。

「第1条 この法律は、墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われることを目的とする。」

『墓地、埋葬等に関する法律』の第1条において、「国民の宗教的感情に適合し」と明確に記載されているのだ。では何故、この「国民の宗教的感情」を想起させる「墓地」と言う表現を避けるのか。その背景にあるものは、公営墓地の整備の在り方から想像することが出来る。

先に述べたように、公営墓地が測量・設計・施工のプロセスを経て整備されるのであれば、その成果品は計画の通り、墓地以外の何物でもない。
しかし、土木工事の成果品であるが故にその性能は予め仕様として定められたもの以上の物にはなり得ず、利用者による改変も想定されていない。実際、私が公営墓地にある自分の家の墓参りをした時、墓という成果品に介入できる事といえば、掃除により施工当時の品質を維持する事と、花をお供えするという、設計上利用者の改変の余地を設けられた行為を行うだけである。それは、佐柳島の埋め墓で見られるような、住民の風習により積み上げられた果てに現れたものではない。墓地は設計された通りの墓地でしかなく、それを墓地と称する由縁は機能にしかない。人々の営みと土地の姿に分断があり、だからこそ機能だけ見て土地であると表現することもできる。
一方、佐柳島でこれまで見てきたものを振り返ると、浮き玉は、漁業の道具である以前に素材であり、集落の装飾品に転用されている。水路も、水路である以前にそれは、住宅と住宅の間にある余白であり、歩道に転用できるマテリアルとして扱われている。

先ず、マテリアルがあり、その上に人の営みがある。それがどの様に名付けられ、設計されたものであるかに関わらず、生活の中で転用され積み上げられていく。

佐柳島の埋め墓は、公営墓地の様に設計された墓地という空間があったのではなく、死者の弔いという「宗教的感情」の積み重ねが墓地という空間を生み出したとも言えるのではないだろうか。
ここで私の報告を終える。視点を再び荒木さんに移し、志々島及び粟島の調査結果を見てみよう。

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本浦地区の埋め墓 撮影=伊藤允彦


「志々島」荒木
この日は雨で、時折雪がちらついていた。丸亀駅から詫間駅へと移動し、そこから2キロほど歩くと宮ノ下港に着く。乗客は我々二人のみ。船足は早く、20分ほどで志々島に到着した。志々島の埋め墓は、島に上陸する手前の海からも見ることができる。形が家型であることと、民家との距離が近いこともあってか、奇妙なスケール感を海岸沿いに生み出している。

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志々島の埋め墓 撮影=荒木佑介


なぜこのような景観の墓地が生まれたのか。いわゆる両墓制を研究する上で、志々島の埋め墓は欠かすことのできない存在であるが、ここでしか見られない現象がある一方で、葬送に関する風習や信仰に特別なものは見当たらない。

両墓制についてあらためて説明を加えると、両墓制とは、一個人に対して墓が二つある形態を指し、西日本を中心に多く見られた。遺体を埋葬する場所と、詣る場所がそれぞれ分かれており、土葬を行なっていた頃の習俗である。その発生は江戸時代と考えられ、仏教由来の石塔が、土葬を行なっていた場所とは別に設けられたことによると言われている。柳田國男が取り上げて以来、民俗学の一大テーマとなり、今も議論が続けられているが、火葬が普及したことで両墓制は激減し、研究対象自体が消えようとしている。
仏教由来の石塔は、今現在我々が目にする墓石へと受け継がれているが、遺体をどのように埋葬し、その後、どのように詣るかは時代によって変化し、地域差もあるため、なぜ両墓制という習俗が生まれたのかを説明するのは極めて困難である。中でも、埋め墓の上に目印として作られる構造物は墓上装置と呼ばれ、石を置くだけの地域もあれば、志々島のように家型の地域もあり、集落単位でその様子は大きく異なる。

志々島の墓上装置は新しい死者を埋葬したのち、いくつかの段階を経て形を変えていき、最後は写真のような家型に落ち着く。長期保存に耐えられるよう塗装を施し、壊れれば作り直していた。基本、埋め墓の墓上装置は、埋葬後にしつらえたものが老朽化すれば廃棄となるのだが、志々島ではこれを残そうとする。その点において志々島の埋め墓は、他の地域と比べて特殊である。そして、葬送に関する風習や信仰を見ると、死者に対して一定の距離を置くようなものとなっている。

死後、他の者に生まれ替わるという事はいわぬ。また神様になるなどは、考えて居らぬ、神と死人を並べて考えるだけでも、神がきらうと考えているらしい。
葬式の時、特別に泣く風習はない。
墓に対する俗信もきかぬ。
『瀬戸内海 志々島の話』上田勝見・阿部日吉、讃文社印書館、1984

詣り墓の方はと言えば、昔に忘れ去られ、荒れ放題となっている。

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志々島の詣り墓 撮影=荒木佑介


墓地にはその土地の歴史と現状、いわばストックとフローが混在していると考えられないだろうか。たとえば、志々島の場合、遺体を今ある埋め墓の場所に古くから埋葬していたとすると、囲いが生じ、屋根が生じ、ついには家型となった。周辺地域の墓上装置を見ると、囲いだけの地域もあれば、屋根だけの地域もあり、志々島はその複合型と考えられる。近世に入ると、石塔の詣り墓が普及するが、石塔が定着した地域もあれば、廃れてしまった地域もあり、志々島はその後者にあたる。そうなると志々島は、かつて両墓制であった場所と言えなくもない。ただ、石塔ではなく墓上装置を選択したために、他の地域では見られない光景が出現することになった。両墓制という言葉自体、概念付与が先行したものであるため、そこに拘泥する必要はないのだが、志々島では石塔がフローとなり、墓上装置がストックされたと言うことはできるかもしれない。

近年に入り、火葬が普及することで、土葬である埋め墓は数を減らした。また、土葬は労働力を必要とするため、高齢化や過疎化も埋め墓減少の一因となった。石塔は下に納骨堂を設けることができるため、土地の少ない国内事情において、人口増加、あるいは戦争や災害による大量死に対応しやすい。
埼玉県新座市にかつて広大な埋め墓があったが、今現在そこは巨大な物流センターになっている。訪れた際、かつての埋め墓と物流センターの区画がほぼ重なることに気付き、ここでは埋め墓がフローとして扱われたとはいえ、物流センターにそのまま置き換えられてしまったことが、あまりにもできすぎた話に思えて、しばし呆然としてしまったことがある。
都市部の墓地が、区画整理という土地の影響を受けていることは、調査報告書2「平和公園と名古屋」で述べた。その一方で、西讃沖の両墓制は、人の影響を強く受けている印象を抱いた。高齢化や過疎化は埋め墓減少の一因であるが、西讃沖ではそれにより島そのものが取り残され、新座のように土地利用されることもなく、埋め墓が残される一因として働いている。そして今、観光地化によって保存しようとする動きがそこに加わわろうとしているのではないだろうか。


「粟島」荒木
志々島をあとにした我々は、最後の目的地、粟島へと向かった。粟島へは志々島からフェリーで直接行ける。滞在時間が1時間45分と短いため、できることは限られているが、横に長い神棚が生まれた場所の雰囲気だけでもつかんでみようと思った。

限られた時間の中で見るべきポイントといえば、神社、寺、墓地、民家等があるが、粟島神社の境内に人がいたので聞き込みをすることにした。おじいさん二人と青年一人に、横に長い神棚の写真を見せたところ、大きい神棚は古い家にあると思うが、写真のようなものは見たことがないとのこと。天候が悪く、季節も冬ということもあり、人に出くわすこと自体が難しく、聞き込みは捗らなかった。が、粟島神社がある高台から町を見下ろした時、これまで巡って来た島と雰囲気が違うことに気が付いた。大きい家が多いのである。思えば、神棚の解説でひとつ気になる箇所があった。「豪華さを競った結果なのか」がそれであるが、見下ろしていた町の中へ入ると、立派な土塀に囲まれた大きな屋敷があり、さながら武家屋敷のようであった。島が繁栄していた頃の痕跡は此処彼処に見られ、それらは豪華さを競わせていた時代を思わせるには充分であった。

板子一枚、下は地獄。舟乗りの仕事は常に危険と隣り合わせであるという意味だが、この言葉からは舟乗りの死生観が垣間見える。生活の大半を海上で過ごす舟乗りともなれば、神は、足元にも、天にも、舟が向かう先にもいて欲しいと願うだろう。死後の安息を願うより、生きているうちの安全と繁栄を願うとしたら、すがるべきは仏よりも神になる。
粟島の神棚はなぜ横に長いのか。はっきりとした理由は分からないが、馬城八幡神社の一の鳥居から臨む陸地が、横に長く連なって見えたのが印象的だった。

多くの謎と宿題を抱えて翌日、帰りの飛行機を待っていたところ、整備不良でフライトがキャンセルになり、足止めを食らうハメになってしまった。飛行機も舟のようなものだよなと思い、その日は高松市内に宿泊し、追加調査を行うことにしたのはまた別の話である。

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馬城八幡神社(一の鳥居は海に向かって建てられていた) 撮影=荒木佑介


「調査」伊藤
私は、調査の時必ず360度カメラを持ち込む。これは、Mapillaryというサービスを利用し、調査の行程のストリートビューを作成するためだ。

今回の調査報告書をまとめるにあたり、荒木さんから紀行文形式にするという提案があった。しかし、いざ取り組んでみると、調査から約1年近く経過しているため、現地で思ったこととその前後で思ったことが混在し、時間軸の操作は困難を極めた。

私も大学時代からフィールドワークを行っている身であるため、フィールドノーツの付け方には多少の心得がある。どれだけ時間が経過しても、また別の誰かが見ても調査結果のエビデンスとなるよう、そこで起きたこと、考えたことを野帳に記している。

しかし、今回の調査報告書の「佐柳島」を作成するに当たっては、野帳に記載したことを切り捨て、ストリートビューを辿りながら再調査し、報告としてまとめた。

ストリートビューを構成している写真は、調査中、8秒間に1回のペースで自動的に撮影され続けたものだ。我々が興味を持った場所ではその歩みが遅くなるため、撮影枚数も多くなる。一方で、360度写真であるが故に、我々の意図とは離れたものも写り込んでいる。調査という行為により切り取られた風景の中を再び歩く。調査により生成された空間の上に私の報告は成り立っている。

我々の調査報告書はここで幕を閉じる。エピローグとして、小豆島に住む妖怪画家である柳生忠平氏による今回の調査対象の一つである神棚や、小豆島にかつてあった資料館、神や妖怪に関するテキストを掲載する。

スクリーンショット 2020-02-29 20.03.36

Mapillaryを利用した再調査 撮影=伊藤允彦


Mapillaryによる各調査のストリートビュー
H31.2.9_本島
https://www.mapillary.com/map/im/02NkVL23i5SYHdfB9ZD5mQ
https://www.mapillary.com/map/im/EhN4KaLQsPR5ejIicXMQEQ
https://www.mapillary.com/map/im/AqLNqYFOsxeB_ZEd4qkltQ

H31.2.10_佐栁島
https://www.mapillary.com/map/im/dcOWzDc2zeBFerYLhGO5ug

H31.2.11_志々島
https://www.mapillary.com/map/im/sUYGen6ff3BqhekEgu5jgQ

H31.2.11_粟島
https://www.mapillary.com/map/im/C8CGV78zWBCVqy42_ohYkg


「赤坂民俗資料館跡地」柳生
小豆島にはかつて『赤坂民俗資料館』という場所がありました。そこには3,000点を超える、小豆島で実際に使われていた古民具が所狭しと並んでいました。20年以上かけて集められたそれらは、小豆島の文化を伝える重要な役割を果たし、静かにたたずんでいました。
大瓶、大工道具、石切の道具、素麺を作るための道具、大きな醤油樽、3メートルを超える船の舵。木船、お風呂、床屋の内装、行灯、人形、櫛…それらの道具を見ていると、小豆島がいかに裕福だったかがうかがえます。産業の島、そして徳川幕府の天領地でもあったこの島は、瀬戸の多島のなかでも特殊な場所として船乗り、あるいは水軍と呼ばれる海賊たちにゆかりがあったのでしょう。日本の東西の文化や風習、伝統やおとぎ話も物流とともに伝えられて来たのか、この島には日本各地の風習やおとぎ話とよく似たものがたくさんあります。一時期より減ったものの、いまでも関西方面、高松、岡山方面などの航路は残っています。

私は妖怪、化け物、もののけ、魑魅魍魎…そういった目には見えないがそこら中に存在している『モノ』を描く妖怪画家を生業としていますが、この場所に来ると古道具たちがツクモガミとなって出てくるのではないかととてもワクワクしてしまいます。ここではそのような魂の宿っている『モノ』たちに見られているような感覚になるのです。

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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


「神棚と信仰心」柳生
中でも今回主な調査対象となった神棚は、人々がお灯明をあげ二礼二拍手一礼をその前で毎日欠かさず行い、ほぼ捨てられる事なく家の中のしかるべき場所の少し高い位置で鎮座し、我々の生活を見守ってきました。商売人や漁師、職人(素麺、醤油、石工etc…)も多く、様々な産業が発達して来た島なので、商売繁盛、大漁祈願、交通(航海)安全などなどこの島には、信心深い人が多かったようです。
年に一度、古いお札を返納し、新たに祈願されたお札を持ち帰り神棚へ祀る、こういった営みが島の発展に大きく関与して来たのは間違いありません。神棚は尊い物ですが、もとは人の手によって造られた道具の一種ではないかと考えています。神々、或いはその分身にいていただく家のようなものでありますから、人の手によって綺麗にされていたのでしょう。この場所に置かれてある神棚はどれも朽ちる事なく、いまでもその形をちゃんと残しているのです。
人の思いがそこに宿り、子孫へと受け継がれていく…ここにあるものは大半が使われなくなったものですが、神や仏に関するものは家の建て替えや引っ越しなどのどうしようもない理由でここにやって来たのではないかと思います。

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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


神棚の形状を少し見てみると、ほとんどのものが横並びになっています。これは島で今でも年に二回行われている農村歌舞伎を見るとよくわかるのですが、舞台から見て扇状に広がった客席が、なだらかな斜面をあがっていくように設計されていてその一番上(奥)に神々の社が鎮座されております。八幡神社、鹿島明神、金比羅さん…様々な神が横並びにおわすのです。八百万の神々の暮らすお国柄ですから、おそらく優劣はないのでしょう。(古事記等の神話を読むと、優劣の関係ではなく親と子の関係が描かれているように感じます)そこで歌舞伎を奉納するといった具合です。
また、漁師たちは航海の守り神でもある金比羅さんへの御参りも欠かしませんでした。しかし様々な事情で直接御参りにいけない漁師もいました。その人たちは護摩札とよばれる大きな木の札を参拝出来る漁師に託して自分の代わりに奉納して御参りしてもらうというシステムがありました。人に思いを託すという行為には今では希薄になって来た人と人とのつながり、ご近所のおつきあいなんかが垣間見えます。小豆島の中にも八十八カ所の霊場があったり、名も無きお地蔵さんたちを綺麗にしたり、御花やお供え物をしたり…そこでも島の人たちの信心深さがにじみ出ています。

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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


「ツクモガミ、或いは物の怪」柳生
神棚も含むこういった古民具、道具たちは温度や湿度によって少しずつ形が変化し、人の手に触れられる事によって色も変化してきています。そこにはモノたちにしか分からない様々な人々の営みを長い年月をかけて見守って来たからなのか、そういった変化がまるで魂を持ち意志を持っているように思えてならないのです。たとえ棚の中の神を新しい場所にうつして空っぽにしても、神棚そのものに霊性が宿りひとつの存在となるのではないでしょうか。


「妖怪」柳生
日本の神道を含むアニミズム的思想や数多の宗教を受け入れる事が出来る寛容さ、信仰心などがあったからこそ妖怪やツクモガミたちが生まれ、数を増やしてきました。民俗学者たちのあいだでは、祀られているものがカミ、祀られていないものがヨウカイと分類されているようです。各地に伝わる伝承や物語なんかを読み解いていくと自ずと分かってきます。
こういった精神性や土壌が宗教や文化を超え、また時空も飛び超え、妖怪や神がひとつのキャラクターとして漫画やアニメーションやゲーム等に登場し、世界中に広がって平和の一端を担うのではないかと思っています。妖怪画家としても、妖怪美術館の館長としても妖怪をYOKAIとして世界共通の言語として広めていきたいと思っています。

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赤坂民俗資料館跡地 撮影=柳生忠平


参考文献
*「調査依頼」荒木
 『瀬戸内の被差別部落』沖浦和光、解放出版社、2003
 『瀬戸内の民俗誌 -海民史の深層をたずねて-』沖浦和光、岩波新書、1998
 『船に住む漁民たち』中村昭夫・可児弘明、岩波書店、1995
 『家船民俗資料緊急調査報告書』 広島県教育委員会、1970
 『瀬戸内の海上信仰調査報告:東部地域』瀬戸内海歴史民俗資料館、1979
 『本四架橋に伴う島しょ部民俗文化財調査報告 第2年次』瀬戸内海歴史民俗資料館、1982
 『風と潮のローマンス-海から寄り着いたモノたちが語りかける世界-』瀬戸内海歴史民俗資料館、2005
 『讃岐の島の歴史と物語』草創の会、2010
 『海と風、祭と集落 -デザイン・サーヴェイ・女木島』明治大学神代研究室、1968
 『女木島の歴史』城福勇、地方史研究会・高松市女木支所、1957
 『図説 日本の町並み10 四国編』太田博太郎・他、第一法規、1982
 『塩飽』渋沢敬三・他、日本常民文化研究所、神奈川大学デジタルアーカイブ、1937
 『香川県史 第14巻(資料編 民俗)』香川県、1985
 『離島振興と観光 -島の内側の視点から-』室井研二、2010
 『闇の客人』諸星大二郎、集英社、1993

*「本島」荒木
 『両墓制と他界観』新谷尚紀、吉川弘文館、1991
 『両墓制の空間論』福田アジオ、1993
 『両墓制の誕生とその後:明治期に成立した両墓制を考える』前田俊一郎、1996
 『両墓制集落における祭祀と埋葬の空間論』川添善行、2010
 『葬制の起源』大林太良、角川書店、1977

*「詫間町民俗資料館」荒木
 『塩のはなし』詫間町教育委員会、1988
 『詫間町の文化財 -第4集- 町の神社・仏閣を訪ねて』詫間町文化財保護委員会、1976
 『詫間町の文化財 -第5集- 碑』詫間町文化財保護委員会、1977
 『詫間町の文化財 -第6集- 民話と伝説』詫間町文化財保護委員会、1976
 『写真で見る詫間町の民俗資料』詫間町立民俗資料館、1987
 『収蔵資料目録7』香川県立ミュージアム、2015
 『瀬戸内海歴史民俗資料館 総合案内』瀬戸内海歴史民俗資料館、1986
 『詫間町誌』詫間町誌編集委員会、詫間町役場、1971
 『新修 詫間町誌』詫間町誌編集委員会、詫間町役場、1971

*「佐柳島」伊藤
 『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い』石川初、LIXIL出版、2018
 『両墓制と他界観』新谷尚紀、吉川弘文館、1991
 『墓地に関する政策研究』神奈川県政策研究・大学連携センター、2012
 『日本葬制史』勝田至、吉川弘分館、2012
 『日本の葬儀と墓』宮本常一(著)、田村善次郎(編)、八坂書房、2017

*「志々島」荒木
 『瀬戸内海 志々島の話』上田勝見・阿部日吉、讃文社印書館、1984
 『備讃瀬戸の民俗と風土』武田明・高橋克夫、木耳社、1973
 『日本人の死霊観:四国民俗誌』武田明、三一書房、1987
 『近世の三豊 -三豊市の歴史と文化3-』三豊市教育委員会、2013
 『讃岐郷土叢書 第3編』浦上仁一、香川県教育図書、1932


*「調査」伊藤
 『フィールドワークの技法』佐藤郁哉、新曜社、2002
 『フィールドワーク増訂版』佐藤郁哉、新曜社、2006
 『発想法』川喜田二郎、中公新書、1967
 『野外科学の方法』川喜田二郎、中公新書、1973


トップ画像撮影=荒木佑介


レビューとレポート 「家船」特集 / 第10号 (2020年3月














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2019年3月女木島、平井邸にて

「……こっちだよ。」
「ううん、違う… ……こっち…」

KOURYOUは動かし続けている右腕をとめた。

「?」

外からは廃材と格闘する電動工具音が響く。隣部屋から筆洗バケツを掻き混ぜる音。作品に流れる別の時間。フェイク。無言。集中。KOURYOUは再び筆を動かし始めた。


「……ぽこり。生まれたよ。これ、持って来たんだ」
右腕「なんだお前。いつからいた?」

「あうあう……はい…よっと」
「違うよ、わたしの…これよ」
「あーんオレが」

右腕「ん?調査報告書?」


KOURYOUはまだそれに気がついていない。

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