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本所深川

荒木佑介
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中沢>戦争終わって、終わってって負けてですね、はっきり言えば。マッカーサーが、民主主義というのをくれましてね。民主主義というのは、悪いことじゃないんだろうけど、ちょっとおかしいんじゃないかな、と思うこともあるんですよね。


中沢>政治の意見の違う人は、当然あるだろうけれどもね。でも、個人的にも憎たらしい人、そういうこと言ったら、怒られるだろうけれど、いることはいますね。


中沢>だってこのへんこわかったでしょ。私は本所なんです。石原町。
浅沼>近いんですね。
中沢>近いですよ。一緒です。焼けた時はね。このへんだったら清澄庭園に逃げて。
浅沼>いや、あんなところ逃げることもどうすることもできません。あの風のひどい晩ですからねえ。
中沢>あそこでだいぶ助かった方がいらっしゃって。
浅沼>あの中で池に入ってね。
中沢>広くてね。
浅沼>焼け跡ですね。

中沢>本所深川っていったら、大変だったんですからね。よく助かったですね。いやもう、結構なことだけどさ。

中沢>もうね、総武線が、あの電車ね。嫌な気持ちだったほんとに。電車が見えるんですからね。こう、わーっと、焼けちゃってね。
浅沼>錦糸町の駅が残ったようですね、あの時。
中沢>僕は両国の方にいて。
浅沼>あそこ残りましたね。
中沢>残りました。残りましたっていうよりはね、あの頃は駅の側を、強制疎開でぶっ壊してね。
浅沼>なかったんですね、駅が。
中沢>なかったんです。


田河>羅南というところですよ。東京の第一師団から行くんです。大正八年の兵隊ですからね。柳家金語楼なんてえのも、あたしと同じ連隊でね。

田河>満州で原稿書いちゃあ、送っていたんですが、行くと二、三ヶ月、ぐるぐる回ってね。満州事変、支那事変っていう頃でね。開拓者の方へ慰問もしていられないから「あんたが顔出してやれば、ファンが沢山いるから、喜ぶから」

田河>「あんたがのらくろを描くと、少年倶楽部がよく売れる。今紙が大事なんで、必要以上に雑誌が売れるということは、国策上うまくないから。あんたのファンが買うんだから、あんたにやめさせりゃあ、あれほど雑誌が売れないで済む」というようなことを言われましてね。まあ、やめろと言われて。「だけど内容を見てください。あたしはね、こうして五族協和の国策漫画描いてるんだから」って言ったら、「いやあ、あんた商業主義に協力してんだよ」なんて言われてねえ。あたしの言い分も通らなかったですよ。

田河>だいたい満州は、農業移民が多かったですよね。これにすると、帰って来られないんです。地下資源開発なら山師ですからね。はずれりゃあ、帰ってきたっていいんだから。金だか石炭だか、わからないけれど、なんかにぶつかるだろうってんで、地面掘らせてね。

中沢>先生は昔、落語作家だった。落語好きじゃなかったそうですけれど。
田河>好きで落語を研究したとかいうことじゃなくってねえ。生まれが明治でしょ。つまり、時代が明治。場所が深川なんですよ。
中沢>本所ってのは、何なんですか。
田河>本所で生まれて。
中沢>本所で生まれて深川で育って。
田河>深川で育って。隅田川の向こうの調子なんですよ。明治の頃の。今は分化で混同しちゃってるけど。明治の頃の、隅田川の向こうの、本所深川っていうのはね、今、私がしゃべってるような、こんな調子のところなんです。
中沢>そうですよね。あたしは石原町なんです。生まれたのが。
田河>被服廠の。
中沢>そうですね。震災の時は、一つくらいの赤ん坊でね。おふくろの背中で助かったんですけどね。
田河>十一年。
中沢>十一年です。
田河>十一年ならね、のらくろ会に入る資格がありますよ。

田河>弥勒寺橋って、橋があったでしょ。
中沢>どのへんですか。
田河>亀沢町から深川の方に向かって、最初の橋ですよ。その近く、林町なんです。今は立川町って言ってますがね。竪川筋にあるんでね。林町で生まれて。おふくろが早く死んだもんだから、親父が後妻をもらうのに、先妻の赤ん坊が邪魔なもんだから、深川にいるおじに、あたしをあずけちゃって。おじはこどもがなくって、大屋で隠居なんですよね。うちの母親まで隠居で。
中沢>横町の落語じゃないですか。深川のどのへんですか。
田河>八幡様の近所です。所が深川で。時代が明治で。だから落語なんかね、別に研究したり調べたりってこといらないで。近所が熊公八公ですからね。だから字で、原稿用紙の上へ言葉を並べりゃあ、落語になっちゃう。

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