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【短編】現実とげんじつと幻日と

 中学3年生の夏。
 マンションの屋上に座り、欠けていく月を見上げながら僕は願った。

 この苦痛を少しでも和らげるために音のない世界を与えてくださいと。

 そして月がすっかりと消えてしまったその時、僕の周りから一切の音が消えた。


ーーー
「おかしいですね」
 ディスプレイに映し出された検査結果を見て首をひねりながら目の前の医師がそう呟いた。

「でしょう? 蛇口から出る水の音も、鳥のさえずりも、街の雑踏も、車や電車の音だって聞こえているんです。先生の声だってちゃんと。だから僕の耳は正常なんですよ。やっぱりあの電話がおかしいんですよ」

 やっぱりな。と勝ち誇った気分になりながら、僕は医師にそう答えた。

 あの日、音のない世界を与えて下さいという僕の願いは確かに叶った。

 しかし、この茶番に満ちた世界にみっちりと詰められた言葉たちからやっと解放されたんだ。と顔をほころばせ、家に帰ろうと屋上のドアを開けたあの瞬間、願いが叶ったのはほんの短い時間だけだと気付いた僕は、幸せの絶頂から絶望のどん底へと叩きつけられた。

『ぎぎぎ』

 錆びついたドアのきしむ音。それは紛れもなくこの世界の音だった。
 消えてしまったはずの音は、消えてしまった月がこの世界に帰ってくるのと同時に僕の元に戻ってきた。
 階段を降りるペタペタという僕の足音も、家の鍵を回すガチャリという音も。お帰り。遅かったわね。という母親の声も、全部。全部。

 だから僕が音のない世界にいれたのはほんの一瞬だけ。

 願い事なんて。しかもこんなありえないような願い事なんて叶うわけがなかったんだ。
『ああ言われたらこう返す』といった暗黙のルールにのっとって運営されているこの世界。僕たちは茶番を好むこの世界の意に添うように生きることを義務付けられている。一挙手一投足。

 そんな世界の中で願いが叶うなんてあるわけがないだろう。

 くだらないルールで構築されたこの世界でそんなイレギュラーな事が起こるなんてあり得ない。それはこれでもかと言うくらいよく知っているじゃないか。いくら理の外にいると信じられている神社の神ですらこの茶番劇からは逃れられない。
 まことしやかに囁き続けられている奇跡や怪異だって、人間が想像したそういったルールの一部であって想像の産物なのだ。本当のように伝えられ、語られ続けているうちに起こるかもしれない・・・・・・・・・というカテゴリに分類され、不動の位置を得、一定のやりとりを経た後に発生するというこの世界に与えられた役割。茶番の一部なのだ。
 
 あの日、そんな当たり前のことに気がついていなかった自分がおかしくて悲しくて、僕は布団にくるまりながら朝になるまで笑い続けていた。



 なかなか顔を上げない医師を見ながら、そもそも今時、電話なんて過去の遺産を使う事自体がナンセンスなんだ。履歴の残らないやり取りなんてものを今時、しかも仕事の場で使おうだなんて。と、僕は受診のきっかけになった会社の電話機を頭に思い浮かべながら心の中で毒づき続けた。

 そんなことをしながらしばらく待っていても、医師はディスプレイを覗き込みながらじっと何かを考え続けている。

「どうしたんですか?先生」
「今まで困った事とかありませんか?例えば……」
「例えば?」
「意見の相違で揉め事になった事とか」
「揉め事ですか……。そりゃそういったことはありましたよ。でもそれって当たり前のことなんじゃないでしょうか」

 少しムッとしながらも、なるべく表には出さないようにしつつ僕が医師にそう答えると
「いや、そうですね。よくあることです。ええ」と取り繕うように医師は答えた。

 確かに僕には少し不器用なところがある。空気が読めないなんて言われたことは数えきれない。それでもちょっとずつ自分なりに修正をかけ、世界の求める茶番を演じ続けているのだ。面と向かって『その演技はちょっと』なんて言われる筋合いはない。たとえそれが医師という身分の人間からだとしても。

「検査結果の中に何かおかしいところでもあるんでしょうか?」

 僕は医師がにらめっこしているディスプレイを少し覗き込みながらそう問いかけた。医師からすれば何か納得できない結果が数値としてあそこに現れているはずなのだ。そうでなければさっきのように失礼なことは言わないだろう。いや、言えないはずなのだ。この世界のルールでは。

「いや、実はですね……驚かないで聞いてくださいよ」
「はい」
 真剣な医師と同じように真剣な表情を作った僕に医師はこう告げた。

「あなたの耳は機能していません」と。


「え?いやいや。そんなことありません。だって。今だって先生としっかり会話しているでしょう?」
 少し驚いたように僕は医師にそう答えた。何をバカなことを言っているんだ。この人は。そんな僕に対して医師は真面目な顔のままこう返す。

「ええ。そうですね」
「今までだって聞こえないと感じたのはあの一瞬だけだったし、友達や親に聞こえていなんじゃ?なんて指摘されたことなんて一度だってありませんよ」
 困惑している僕に医師はゆっくりとこう言った。

「今まで激しく揉めた多くは、付き合いの浅い人ばかりではありませんでしたか? はじめましてよりは仲良く、既知の中というよりは浅い。そんな距離感の人達ではなかったですか?」

「あぁ……まあ……そうですね。その通りです」

「それに、今回受診に至ったのは、業務に使用する電話にあなたが全く気がついていない。いや、気がついた時にはもう既にほかの人が電話をとっていたり、あなたが『はい。○○株式会社です』と出たときには既に向こうが電話を切っていて無音だった。なんてことが続いてちょっと調べてきては? と言われたのがきっかけでしたよね?」

「ええ。そうです。でも、電話に関しては僕は何もおかしなことはしていないと思うんです。確かに他の人より電話に気付きにくかったり、出るのが遅すぎて受話器を上げたときには既に無音になっていたりというのはよくあることでしょう? 僕がおかしいというより、タイミングの問題だけなんじゃ」

「ええ。まあ。そういう時もあるとは思います。しかしですね。電話に出るのがたとえ遅かったとしても、その電話が無音だということは無いんですよ」

「え?」

「ですから、電話というのは相手がいない、こちらからかけ始めるときも『ツー』という音が聞こえていますし、こちらが出た瞬間に向こうが電話を切ったとしたら『プー……プー……』という音が聞こえるんですよ」

「はい?」

 この医師は一体何を言っているんだろう。固定電話というものはそんな音を出しているというのだろうか。スマホでそんな音は……。
 ああ、そうだ。僕はスマホはメッセージアプリ専用といってもいいくらい音声の通話は使わない。いや、使ったことがないかもしれない。いや。使ったことがない。

「僕の耳が聞こえていないと……」

「ええ。そうなんです」

「でもこうやってやり取りしてますよね?」

「ええ。そうなんです」

「僕は一体どうやって会話をしているのでしょうか」

「だから不思議なんです」

 聞こえていないのに言葉のキャッチボールが成立している。何の問題もなく。一体どうして……。

 その時、僕の頭の中にある言葉がふと思い浮かんだ。


 茶 番 劇



 毎日同じやり取り。あっちを見てもこっちを見ても。どの場所に身を置いたとしても僕たち人間は世界の望む茶番を演じている。そのルールで世界は構築されている。

 そして僕はそのからくりに気がついていた。だからそのルールに従って町の音を聞く。人の声を聞く。会話をする。僕が聞きたくないような言葉を聞き続けながら。

 僕の願いは叶っていたのだ。
 音のない世界。それをちゃんと手に入れることができていた。

 そのことに気がついたはずなのに、僕が少し動くたびに軋む椅子の音や、診察室のドアを隔てた向こう側にいる人たちの声は消えることは無く、聞こえないはずの僕の耳に届き続ける。 


「頭の中で想像した音や声。今あなたが聞いているのはそういったものだと思われます」

 カチャカチャとキーボードで何かを打ち込みながら医師は僕にそう言った。

<終>

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