エッセイと僕



僕はエッセイをあまり読まない。
いや、読んだことがある程度のものだ。
にも関わらずエッセイを書いてみようと思い付き、先週から書いてみているわけだが我ながら面の皮の厚いことだと思う。

本当なら初回にやるべき内容だったような気もするが、今回は僕にとってエッセイとは何なのか書いてみることにした。




で、エッセイってなんだろう。
とりあえず本棚にある彼女が差し込んだエッセイを開いてみる。
ほんほん。はーん。そういう事ね。
なるほど、分からん。
とても共通点は見つからない。
1人の作家の中でもそれぞれの文章ごとにまるで違った形になっている。
日記でもなく、論文的な記述でもない。
先週の投稿はとてもエッセイとは言えないなと反省を禁じ得ない。



中でもある作家のエッセイは異彩を放っているように思った。Aマッソの加納愛子さんのエッセイだ。(彼女の蔵書を勝手に公開してしまった事はお詫びしておきます)幻想日記とでも言えばいいのか。それじゃあなんか硬すぎる気もする。
不条理落語の方が近い。
日記のように現実味のある描写からひょいとどこかに飛んでしまう。それも身軽でニヒル。
小説とも違うが、確実にノンフィクションでもない。そこには、実在と非実在の間を反復横跳びするような馬鹿らしさを感じる。


それは落語のような心地良さがあった。


落語は江戸時代の人々の生活を忠実に話芸で再現するもの。そういう風に思っている方も多いと思う。
僕も実際そうだった訳だが。
しかし、そうばかりでもないらしい。
タイトルは忘れてしまったがこんな話がある。

ケチな男がさくらんぼうの種を勿体ながって飲み込んでしまう。
何日かして、頭のてっぺんから桜の木が生えてしまう。すると花見の客が頭の上に集まって、うるさくて寝れやしない。
ケチな男は頭の桜を引き抜いてしまう。
すると今度は木を抜いた穴に雨水が溜まって池ができ、釣り客が集まってくる。
神経衰弱してしまった男は頭の池に身を投げて死んでしまった。

なんて不条理で魅力的な話なんだろうと思ったのを覚えている。



エッセイはどこかノンフィクションのような前提がある。作家の周りの出来事、その時思った事をそのまま綴る。どんな文体であれ、なんとなくそういうものなんだろうと思っていた。
でも、不条理にこそ作家性が出るのでは無いか。条理のない文章を紡ぐ事こそ、その作家の条理を他人に示すことなのでは無いだろうか。
こんな陳腐なエッセイしか書けない自分が恨めしい。


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