見出し画像

新井の漫画感想『月に吠えらんねえ』

はじめに

詩人、小説やその作品を題材にしたキャラクター達が活躍する作品、と聞けばfateシリーズや『文豪ストレイドッグス』が思いつく。
何となく、文豪っぽい人が登場人物で、作品名が必殺技。うーん、エンターテイメント。

それらとこの『月に吠えらんねえ』は題材の掘り下げ方、解釈の仕方で一線を画す。
正直言ってとんでもない傑作だ。

主人公は萩原朔太郎作品をモデルとした「朔」。師匠の「白さん(北原白秋作品)」、弟子の「ミヨシくん(三好達治作品)」たちが、詩人たちが暮らす□(詩歌句)街で繰り広げるコメディ&ミステリィ。

と、思っていた。ところがコメディ要素は早々に退場し、この町の抱える謎が明らかになり始めてからは、近代文学の抱えてきた大きくて深すぎる闇を知ることとなる。

「新しい女」を目指して消えていった名も残らない女性たち、文学者の戦争責任など、今まで誰も描いてこなかったような重厚なテーマを描き、第20回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞した本作。
29年(もうすぐ30年)の人生で数多くの漫画を読んできたが、トップ10入りは確実。
出会いが今でなければ、具体的には15~19歳くらいのときであれば、生き方を変えられただろう。

しかし俺は近代文学には全く疎い人間だった。
以下、漫画の感想というか、詩人について。


俺と萩原朔太郎

画像1

(画像は1巻表紙の「朔」)

萩原朔太郎は群馬県前橋市出身の詩人である。俺は同郷の彼に対し、同郷という一点のみで好意的である。
ところがその作品となるとほとんど知らない。ああ知っている、と言えるのは次の二作だけだ。

およぐひと

およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓こころはくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳めはつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水みづのうへの月つきをみる。


まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

なぜこの二作は知っているのだろう。高校の時、選択授業で文学を選んだ。そこで読んだのだろうか。
あるいは大学時代、前橋文学館にレポート制作のために行った際、心に残ったのだろうか。他にもいくつも目は通したはずなのに。
結局萩原朔太郎を解釈できなかった俺にそのレポートは出せず、単位はB評価だった。授業中の発言は良かったからレポートさえ出してくれればA評価だったのに、と後に教授から言われ申し訳ない気持ちになった。

以上が俺と萩原朔太郎の関わりの全てである。

でも、『月に吠えらんねえ』を通して、朔太郎のことをもっと知りたくなった。病んで病んで、どこまでも自分の中から言葉を絞り出した姿勢には憧れすら感じる。
今の俺は満ち足りて、表現者として朔太郎から全く遠くに来過ぎて何も表現できなくなってしまった。
大学時代も病みからは遠い、のほほんとした生き方をしていた。が、今なら少しあなたの気持ちに触れられそうな気がする。


俺と三好達治

画像2

(画像は5巻表紙の「ミヨシくん」と「朔」)

三好達治は最近もっとも読んだ詩人だ。
何ということはない。仕事で、だ。
中学生向けの国語教材制作を生業としている俺が読む詩など、ほとんど教科書に載っているものだけだ。
三好達治は四社ある中学校教科書の、どの教科書にも載っている。

大阿蘇

雨の中に 馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭蕭(しょうしょう)と降つてゐる
馬は草を食べてゐる
尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草を食べてゐる
草を食べてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭蕭と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中岳の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛濛とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜(くさせんりはま)のとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭蕭と降つてゐる

最近噴火した阿蘇山。
その遠景、近景の静かな様子を描写した叙事詩として各教科書に掲載される本作。

病気の中から絞り出した、中学生には読ませられない朔太郎とは対極。
面白味のない、叙事詩ばかりかと思っていた。

ところが、朔太郎の死後書いた「師よ 萩原朔太郎」は何と美しいことか。『月に吠えらんねえ』11巻で出てきたときには思わず「ほう」と息が漏れた。

師よ 萩原朔太郎

幽愁の鬱塊
懷疑と厭世との 思索と彷徨との
あなたのあの懷かしい人格は
なま温かい熔岩(ラヴア)のやうな
不思議な音樂そのままの不朽の凝晶體――
あああの灰色の誰人の手にも捉へるすべのない影
ああげに あなたはその影のやうに飄々として
いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる
あなたはいつもあなたのその人格の解きほごしのやうなまどはし深い音樂に聽き耽りながら
ああその幻聽のやうな一つの音樂を心に拍子とりながら
あなたはまた時として孤獨者の突拍子もない思ひつきと諧謔にみち溢れて
――醉つ拂つて
灯ともし頃の遽だしい自轉車の行きすがふ間をゆかれる
ああそのあなたの心理風景を想像してみる者もない
都會の雜沓の中にまぎれて
(文學者どもの中にまぎれてさ)
あなたはまるで脱獄囚のやうに 或はまた彼を追跡する密偵のやうに
恐怖し 戰慄し 緊張し 推理し 幻想し 錯覺し
飄々として影のやうに裏町をゆかれる
いはばあなたは一人の無頼漢 宿なし
旅行嫌ひの漂泊者
夢遊病者ソムナンビユール
零ゼロの零ゼロ

そしてあなたはこの聖代に實に地上に存在した無二の詩人
かけがへのない 二人目のない唯一最上の詩人でした
あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに混ぜものなしに歌ひ上げる
作文屋どもの掛け値のない そのままの値段で歌ひ上げる
不思議な言葉を 不思議な技術を 不思議な智慧をもつてゐた
あなたは詩語のコンパスで あなたの航海地圖の上に
精密な 貴重な 生彩ある人生の最近似値を 我らのアメリカ大陸を發見した
あなたこそまさしく詩界のコロンブス
あなたの前で喰せ物の口の達者な木偶でくどもが
お弟子を集めて横行する(これが世間といふものだ
文人墨客 蚤の市 出性の知れた奴はない)
黒いリボンに飾られた 先夜はあなたの寫眞の前で
しばらく涙が流れたが
思ふにあなたの人生は 夜天をつたふ星のやうに
單純に 率直に
高く 遙かに
燦爛として
われらの頭上を飛び過ぎた
師よ
誰があなたの孤獨を嘆くか

名文と言わざるを得ない。

彼の、師への憧れが胸を打つ。

私の、三好達治への見方を変えた作だ。


俺と北原白秋

画像3

(画像は2巻表紙の「白さん」)

揺籃(ゆりかご)のうた

揺籃のうたを カナリヤが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

揺籃のうえに 枇杷(びわ)の実が揺れるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

揺籃のつなを 木ねずみが揺するよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

揺籃のゆめに 黄色い月がかかるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

ほとんど毎晩歌ってますよ?
この歌が北原白秋だと知った時は驚いた。教科書に載っている、俺とは無関係の人物だと思ったら、「雨降り」「この道」「待ちぼうけ」など童謡の数々が意識して暗唱するまでもなく、当たり前のように骨身に沁みている。

『月に吠えらんねえ』の中で、圧倒的な存在感を持つ「詩の怪物」とされているだけのことはある。

そして、私は知らなかったが、彼は戦争時には戦争歌、愛国歌も数多く作っている。「万歳・ヒットラー・ユーゲント」なんて、タイトルからして恐ろしい。真珠湾攻撃を称える「ハワイ大海戦」などという歌もある。
優しい優しい子守歌と同じ頭でこれを作り上げていたのか。
現代を生きる私たちには理解の及ばない文学者たちの感覚も、『月に吠えらんねえ』の中で描かれていた。


俺と高村光太郎

高村光太郎だけは中学3年生の頃から好きだった。教科書に載っていた「レモン哀歌」を読み、涙した。自主的に暗唱もした。

レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉のどに嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓さんてんでしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

あまりに多感だった俺は、高村光太郎の悲しみに触れ、感動し、生まれて初めて詩集を買った。2,750円もする『智恵子抄』である。

1冊500円の文庫本でさえ滅多に買わず図書館で読み、漫画も限られたもの以外は立ち読みで済ませていた中学3年生には大金だ。それでも、この本を手元に置いておきたかった。

詩人、芸術家としての高村光太郎は知ったつもりだった。でも、戦争翼賛詩を書いた反省で戦後隠棲していたのだな。



文学者たちの苦悩、葛藤を幻想的な世界で描いた『月に吠えらんねえ』。

俺は大学では「源氏物語」と「国語教育」の二つを専門に勉強したが、10代で読んでいたなら専門は昭和文学になっていただろう。

しかしそれは無理な話。連載が始まった時点で2013年11月。大学卒業間近のことだった。

今、30歳を間近にして読んだ俺は、どんな影響を受けるだろうか。
少なくとも、何も表現できないと嘆き続けていた日々だったが、一時間半noteを書くだけのパワーを貰った。

朔。あなたの神経衰弱の一端に触れさせてくれよ。

画像4

(画像は10巻表紙の「朔」)

この記事が参加している募集

マンガ感想文

レペゼン群馬、新井将司。世界一になる日まで走り続けます。支えてくださる皆さんに感謝。