多分自分の好きな人に嫌われたなって時の話

今日、とある私の好きな人、というか尊敬?している人に「あ、多分嫌われたんかな~」と感じる経験をしたのでそのことについて書く。

特定を避けるためにぼかすが、そのとある人(以後Aさんとする)は、最近自作で、手書きの月刊新聞のようなものを発行し始めた。

「希望する人には無料で送ります」とのことだったので、さっそくLINEで購読を希望する旨を伝えた。Aさんは発行及び郵送を快諾してくださり、3~4日後には自宅に届いた。

届いた当日は、仕事やらで疲れすぎており、「コンディションを整えて読みたい」と思った私は、ひとまずそれを保管し、実際に読むことになったのはその翌日(今日)の14時頃のことであった。

内容は、Aさんの知っている知識や、最近読んだ読み物、自信の体験から感じたことと、それを踏まえた読者への呼びかけや、Aさん自身のこれからの行動・生き方に関するちょっとした決意表明のようなもの(に私には見えたもの)などだった。

私は、読んでいて「それはそうだけど、実際に生活でそう思うのは難しいなぁ」とか、「ここはものすごくいい言葉だし、自分の生活にも採用しよう」とか「Aさんが書いてるっていう感じのする文章で、血が通っている感じがして好きだなぁ」などと思って、色々感想を持ったが、最終的に「こんないいものをなんかタダで読ませてもらっちゃった」と思った。

そこで私は、もちろんお礼というわけではなく自分の気持ちを伝えたかっただけだが、AさんにLINEで感想を送ることにした。

読んでいてうれしく思った部分、自分にはまだちょっと難しいなと思った部分や、こんな良い文章をあろうことか無料で読ませて頂いたことに対する感謝など、なるべく過不足のないよう書いたら、結構な長文になった。

非難する意味は一切ないが、誤解を恐れずに言うと、Aさんの字は結構汚かった。熱量や人柄や気持ちが伝わってくる、可愛くていい字なのだが、読みやすいか読みにくい字かでいうと、かなり読みづらかった。というか、実際に何て書いてあるのか解読するのに1分以上要する箇所もあるほどだった。

私はこの字を読んで、親から『字は丁寧に書け』とただ指摘された子供時代を思い出した。その頃のことを思うと、「汚い字でも、綺麗に書くのがめんどくさかったのかもしれないし、そういう字がすきだったのかもしれない自分の気持ちを、できればその字のことも、ただ認めてほしかったなぁ。」などと思った。

そう思って改めてその字を見ると、「自分の思うがままに書けている、生き生きとした字」のような気がして、すごくいい気持ちになった。

その旨も伝えたくなり、「他意はありませんが、失礼な言い方でしたらすみません」との前置きをしたうえで、最初字が汚いと思ったこと、解読に時間がかかった部分があったことも含めて、上記の感想も文章の中に盛り込んだ。

送っていただいた文章の中に、「次回の希望がある方はご連絡ください」との記述があったため、LINEのメッセージの最後に、「次回があれば、次回も購読したいです。」と付け加えてメッセージを送信した。




5分ほど経って、Aさんから返信があった。内容は

「送る気が失せたので、さような、」
「ら」

というものだった。

私はかなり戸惑った。と同時に焦った。

「何か失礼なことを言っただろうか」と自分の発言を思い返した。

Aさんは、嘘や嘘をついている人の感じをものすごく嫌う人なので、「なんか嘘臭いことや、嘘をついただろうか」と思ってみたり、「浅い感想で、こんなやつのためにわざわざ手書きをして封までして送ったのかとか思われたのかな」と思ってみたりしたが、最終的にはっきりとある心当たりは「字が汚い」という感想を送ったという部分だということに思い至った。

確かに、文章を手書きで書いて、わざわざ自分のために送ってくれた人に対して「字が汚い」なんていう感想はあんまりかもしれない、とも思った。

一応言い訳にはなるが、私がAさんへの感想から「字が汚い」旨を排除しないことに決めた理由のひとつに、Aさんの手書き新聞の先月号にあたるものの感想として公開されていたものに、「お礼をしたいが、字が汚くて住所が読めない。住所を教えてほしい。」と書かれていたため、「字が汚い」というのはAさんにとって特に悪口ではなくただの感想なのだと解釈していたためというのもある。

だから、「俺ぐらいの親密度の人間に言われるのと、信頼関係のできている人から言われるのは違うのかな。あの記事に載っていた人は、より親密な関係の人だったのかな。」などど推測を働かせていた。

考えとしては「人に嫌われるのは仕方がない」と思っているし、実際に嫌われることよりも自身の幸せを優先して選択するように心がけているが、元からそうだったわけではなく、誰よりも人一倍人に嫌われることを恐れて生きてきて、しかも実際に嫌われた(と自分が気づいた)経験に乏しく、なおかつ今回それが自分の尊敬する人である可能性に直面した私は、校内放送で先生から心当たりのある呼び出しを食らった時のような、密かに好意を寄せていた女の子がある日目を合わせてくれなくなったような気がした日のような、焦燥感と小さな鬱感に見舞われた。

それでも「ここで変に媚びたり嘘をついたりしたくない。自分の納得のいく形でコミュニケーションを終わらせたい。やれるだけのことはやりたい。そもそも嫌われているのかもわからないから確かめたい。」と思い、自分の思う心当たりと、不快にさせたのだったら謝りたい旨を綴ったメッセージを送った。

しかし、今のところそのメッセージに既読はついていない。



今日はそれから1日中(といっても昼を大きく過ぎてからの1日だが)、そのことが頭の隅から離れなかった。

何が良くなかったのだろうか。そもそも何が良くなかったかわからないことが良くないのだろうか。なんとなく失礼な文章というか、ミーハーな感じのする文章を送ってしまった自覚はあるなぁ。そういうのが良くなかったのだろうか。でも、あの時はあれを送るのが最善だと思ってたしなぁ。などと、頭がぐるぐるしていた。

「久しぶりに一人反省会というやつをやっているなぁ」などと思った。

ストレスがかかっていたのか、胸からお腹にかけてのあたりがズーンと嫌な感じで、胃腸の調子も微妙に良くなかった。晩御飯も、「美味しいけど、心から美味しいと思えない」という感じだった。

そのまま夜が来てしまい、なんとなくYoutubeを観て過ごしていると、「自律神経を整えろ」という旨の動画に出会った。

内容としては、「自律神経が狂うと睡眠不足に陥ったり、日中体がだるかったり、鬱の症状が出たりする。毎朝同じ時間に起き日に当たること、昼は運動すること、夜はシャワーではなく湯船につかり、寝る30分前にはゲームやスマホはやめること」という、自律神経がバグった人間にあふれた現代日本において、山ほど繰り返し言われていることを改めて解説しているものだった。

山ほど聞いていることとはいえ、改めて、しかも自分の調子が悪い時に聞くと意外と「確かに」と思うもので、さっそく私は「今晩は湯船に浸かろう」と決めた。もしかしたらこの鬱で落ち着かない嫌な気分は、自律神経の乱れのせいもあるかもしれない、とも思ったのだ。

最近わけあって今まで入っていた風呂とは別の風呂に入ることになってから、初めて浸かることになる湯船を掃除し、自動の湯張り機能がついていないため、お湯の温度を調節して、スマホのタイマーを「大体このぐらいかな」と思う時間に設定して蛇口を開けた。

数分後風呂場を訪れると、丁度いい嵩まで湯が溜まっていたので、そのまま入浴することに決めた。

頭と体を洗って湯船に入る。新しく入ることになった湯船は深く、短いため、背中をもたれようとすると、顔が半分くらい湯につかってしまう。丁度いい体勢がないなぁと思いながら、なんとか息ができる状態に落ち着いてから、また考え事を始めた。

最初は「あ~あれが良くなかったかな。でもあの時できる最善はあれだったし仕方ない。この嫌な感情が収まるまでとことん感じきることにしよう。」などと、今までと同じような考えが頭を巡った。

しかし途中で、ある考えが頭に浮かんだ。

「あまりにも自分の味方をしてなさすぎないか?」
「あまりにも自分が悪くて、相手が正しいという前提に立ちすぎていないか?」

というものだった。

思い返せば、ぐるぐると頭を巡っていた考えはみんな、「何が悪かったのかわかんないけど、多分自分が悪いんだろうな。それがわからないのも悪いんだろうな。でもあの時はわかんなかったし仕方ないよな。」というような、自分の気持ちは無視してとりあえず「自分が悪いのは確定」というところから議論が始まっていた。

誤解を恐れずに言えばそもそも、人間関係に悪いもくそもない。合うか合わないかだけである。
法律に照らして明らかにこっちが悪いとか、社会規範に照らしてこっちが悪いとか、そういう指標はあるが、結局それを嫌うか好くかは個人の感覚でしかない。

むしろ、規範に従う正しい行いしかしようとしない人間を「本音が見えない」とか「堅苦しい」とか「自分で責任を負う気がない」などと言って嫌う価値観があったり、逆に一見無茶苦茶な人を「人間味がある」「本音だから逆に誠実である」と言って好意的に見る考えもある。要するに人間関係はある意味のカオスで、善悪の判断が曖昧なものだ。

自分はその曖昧な物差しの上で、「多分ほぼ確実に自分は悪」と決めつけていたのだと気づいた。

そもそも自分が悪だったとして、それでも自分の人生で自分に味方してやれないことほど、自分が可哀そうなことはない。

犯罪を犯した少年が、犯罪を犯したことに対する罪悪感だけに飲まれて、その時の自分の寂しさとか悲しさとか、本当の気持ちを認められないのは、犯罪を反省できないことよりも悲劇である。というか、その気持ちを認められないままでは、本当の意味で反省などできないと思う。

それなのに、犯罪を犯したわけでもない、なんなら自分が悪いのかどうかもわからない、というか悪いとか正しいとかがとても曖昧な「人間関係」という枠組みで、自分を攻撃し続けていた自分は、すごく偏っている感じがした。

反省とは、とても生産的な行為である。上手くいかなかった物事を改善し、次回上手くいくための方法を生み出すための修正である。ただ闇雲に試行を繰り返すのではなく、よりよい試行を行うための効率的な準備行動である。

ただしそれは、次回より良い行動を生み出すための行為である場合に限った話であり、良い行動を生み出すことに繋がっておらず、何なら今の行いが良いか悪いかもわからないままに、ただ過去の自分の行為をマイナスに捉えるというのは、反省ではなくただの自傷行為である。

私個人の感覚では、自傷行為をすることで、「私は自分が悪いことに気づいています。なので攻撃しないでください。」と、自覚があることをアピールする代わりに安全になろうとする防衛でもあるような気がする。それはあまりにも自分に優しくないし愛がないし、ある意味よくない”生優しさ”みたいなものも感じる。



私は、わからなかったし、今もわからない。どうしていたらよかったのかもわからない。そもそもよかったのか間違っていたのかもわからない。ただ合わなかっただけなのか、何か失礼なことをしてしまったのかもわからない。

ただ今ここにあるのは、「自分の何が原因なのかわからないまま、大好きな人に『送る気力が失せたのでさようなら』と言われてしまい、なんでかわからないがおそらく嫌われてしまった気がして、すごく悲しい気持ちになっている自分」だけだ。

そんな自分に味方せず、あろうことか「原因は不明だけどお前が悪いと思う」と言っていじめていたのだと気づき、すごく悲しくて申し訳ない気持ちになった。

よくわかんないままあんなこといわれてびっくりしたよね。
急に冷たくされた感じがして怖かったよね。
何が嫌だったかぐらい教えてもらえてもいいよね。
あれが最善だと思って、ちゃんと考えて送ったもんね。
あの時の精一杯だったのにね。
そもそもあんな言い方ないよね!?
お前悪くないよね?
自分の本心を言って嫌われるなら、嫌われるべき人だよね。
お前よく頑張ってるよ。
俺は絶対何があってもお前の味方だ。

こういう言葉をかけていると、自分がものすごく安心しているのを感じた。

どんな言葉、どんなことであれ、自分が「心地よい」「嬉しい」と感じることは正解である。
この度、自分にこういった声かけをしているのは、あまり「正誤」という言い方は好きではないが正解だと思う。

客観的に見れば、私の落ち度が明らかな部分がもしかしたらあるのかもしれない。
自分の行動を顧みて改善しようとしないのは不誠実であるという考えもあるかもしれない。

うるさい!そんなもん知らん!
今私にわかるのは、「理由も考えてもよくわからないし、何でか教えてももらえないけど、多分自分の好きな人に嫌われたっぽくて、悲しいし驚いたし、苦しい!」という気持ちのみである。

私の主観が、世界であり、私の人生である。私の世界では、「私はわからないし、わからなかった」ということが事実である。まずはそれに寄り添いたい。

時間が経って、見聞や視野が広がり、今日のことを振り返って「あそこは改善するべきだったなぁ」と思える日が来るかもしれない。

そしたら、その時改めて”反省”しよう。
自傷行為ではなく。

今日はこれで終わり。


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