ゴーギャンまわり覚え書き,楽園ビジネスの叫び...

言葉とは決して簡単なものじゃない、扱いにとても困るもの。大切なことはそうそう、言わなくていいことなのだ。簡単に言えることではないからだ。その言葉はどこまでも磨かれるべきだろう。磨きすぎて、無くなってしまってもいいくらいに。

つい昨日の短い投稿でもそうだが、なぜゴーギャンに再三、ちょこちょこ戻るかというと。まずはゴーギャンからナビ派が現れ、マティスやブラマンクのようなフォーヴ、カンディンスキーのような抽象絵画の誕生に霊感と影響を与えた、美術史的にあまりに重要な位置を占める作家であること。また個人的にも無視できない存在なのに、私はそんなにゴーギャンの絵に感動せず、そこまで注目もしてこなかった時期が長い。(またピーター・ドイグの絵に惹かれ、ドイグが好きだと云い影響を受けたというそれがゴーギャン!なんとゴーギャンとは、というところから後追いのように、改めて興味を持った。)

私にとって美術史というよりもやはり個々の作家の、それぞれの作品が愛着するものだったから。ナビ派の運動や表現に興味はあっても、それは何より、感覚的にとても好きな絵を多く描いた、ヴァイヤールがナビ派の画家のひとりだったということが大きな理由で、言葉や情報が先にあったのではない。ただヴァイヤールのなにが心惹かれるのか?と言葉で考える時、ナビ派の運動は「なるほど」と改めて一歩奥の理解に導いてくれる。

ナビ派というと、ヴァイヤールよりも、ボナールのほうが有名だったり、重要な作家という位置づけなのだろうと思う。去年の新美術館での、充実したボナール展を見て展示室を出たとき、傍に歩いていた年配の女性が、お連れの人に、「イラストみたいね」と、明らかに不満そうに述べていたのが耳に入ってきて、なんだか可笑しかった。言いえて妙で、確かにボナールの絵に「イラストっぽさ」といいたいものはある。絶妙に・曖昧に・かわいらしいところがある。愛され易さ、というのだろうか…?ボナールに限らず、見ようによってはイラスト的であることが、おそらく、ナビ派にとって大事な気がする。ナビ派の運動は、「総合的な芸術活動」だからー、と、思う。また総合的な芸術活動だから、私には興味をそそられる運動なのだと、思う。

しかしまあ「イラストみたい」とやや憮然として述べるその口調は、むしろはっきりありそうなこの方のアートへの好みが感じられて、私は面白かったし、静かに笑ってしまった。

ゴーギャンについて。

ゴーギャンは非常な遠距離移動をものともしない生き方、また、全く違った立場に身を置いては移動した、様々の価値観を外からじかに眺めるような生き方をしたと言えるだろう。であればこそどこに居ても完全に心満たされることはなく、大きな傷を抱えながらも、わがまま一杯に言いたいことを言って生きた風な様子が、ほほえましいというか、簡単にああだこうだ言えないけれど、良かったんじゃないだろうか、きっと、と思う。

ゴーギャンは見習い水夫として広く世界各地を旅して勤めたのち、株式仲買人として成功し、家族を持ち、かなり裕福な暮らしもした。ビジネスセンスのあったゴーギャンは、市況の変化から株式仲買人を続けていくことに危機感を持ったこと、またかねてから日曜画家でもあった趣味が高じて、画家に転身する。画家も儲かりそうだと見込んだのだ。しかしそこからがそう簡単にうまくいくでもなかったので、妻に愛想をつかされ家族と分かれる。

それでも第二の青春的な放浪とアートの生活を結構楽しそうにやり抜き、時間はかかったものの、したたかなセルフ・プロデュースにも長けていた彼は、美術界での成功もなんとか生きているうちに勝ちえて、「美術史に住む存在」にまでたどり着く。

女性に人気のあった彼は滞在する南の島には必ず愛人がいたけれども、その時々に煌めくような楽園での恋は恋として、妻と家族にも愛着は持ったままだった。いつか美術家として成功したら、再び家族と一緒に暮らす夢もあった。だが実際家族とともに過ごしていない時間は長く、妻は芸術活動に理解もなく、ついに娘のひとりと死別し、そののちゴーギャンは自殺未遂するも、うまくいかず、5年を生き延びてまだ制作を続けるー

と、書いているだけで盛りだくさんで、忙しいなあ。

この辺の物語的なところは有名なんだろう。しかし伝記は作者によってだいぶトーンが違うので、赤裸々気味に書かれたものだと、コメントしにくい細部を含み、人間の業などという一言でくくってしまうが、重たく、痛々しく、いろいろ、あくどい感じが伝わってくる。もうあくどい。ゴーギャンが、特別にというわけではない。しかし。ああ、重い…

人間の営みが、歴史が、ヨーロッパが、重い。重い…!

絵でも描いていないと到底、やってらんないのではないだろうか。っていうか、絵が掻き立てて掘り起こした自己が、ここまでアーティスト本人を連れてきてしまったのだろうけど。絵を描くことや物を作ることは、より深かったり濃かったり、通常とは違う自分、おそらく「元の自分」を引き出すからだと思う。元の自分とは、おそらくはあまり覚えていない、幼年時代の自分であり、その自分につながる両親の存在もある。だがとにかく、自分だ。

ゴーギャンの絵が好きかと言われれば、正直、いい絵もあるねというような、今一つ乗り気でなさげな言葉になってしまうんだけど、彼が盛り込んだ人生の要素、絵に対する思考、世界観、詩的な暗示などは、現在でも十分に利用できるヒントに満ちている…のかな。ともかくピーター・ドイグのいう「影響」は説得力あるから。記憶で描く…というようなゴーギャンの示唆や、まさにドイグの記憶を描いたこと、など。

ドイグについてはまた別に書こうと思う。

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