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手芸は私の根っこの部分に存在します。

インターネットもTVゲームもまだなかった時代、時間はゆっくり流れていたように感じます。
買わずにツクルことはわりと当たり前のことで、その今とは違う時間の流れの中で、
その後の自分をつくっていく、大切な時間でした。

1980年に入ってすぐに出会った手芸は、今でも私を構成するものの1つ。
今回は、長く長く付き合うことになった手芸の話です。

父と母から勝手に影響を受ける

父は休みの日には、よく何か作業をしていました。今も変わらずです。
バイクの整備だったり、家電を直したり、屋根を直したり。
ポケットバイクまで作ってしまいました。
かと思えば、裸婦像やら、どこかの南の島にありそうな怪しげな民族像みたいなものやらを、木彫りし出したり。

レザークラフトや習字の講師免状も取得しています。
革製品は知り合いの喫茶店に展示させてもらい、オーダーも受けていました。
今でこそよくある光景ですが、当時では珍しかったのではないかと思います。
そんな父を、カッコイイな、私も大人になったら作ったものや描いたものをを喫茶店に置かせてもらうんだ!
と空想したりもしました。
喫茶店ってところが時代を表してますね。

父が何かを作ってる時に、私もよくそばで同じようにしました。
木材や革の端切れで遊びました。

私の娘は、おじいちゃんに頼めば何でも作ってくれる と信じていたほどです。
今も突如、庭に小さな温室を作ったりして、ビックリさせられます。

母も手芸ブームにあやかってか、私達姉妹の洋服を縫ってくれたり、セーターを編んでくれたり、
最近また流行り出したキャンバス手芸やアメリカンフラワーもやっていたことがありました。

母と一緒に何かを作ったことも、教わったことも、記憶にはありません。
それでも母は、私や妹が喜ぶのを楽しみに、可愛いものを作ってくれていたのだと思います。

大きくて本格的な編み機や、世界初コンピューターミシンのメモリアが家にあったのは、
母が欲しがったからかもしれないな と。
その編み機はつい数年前に捨て、ミシンは父が使っています。

空前のフェルトマスコットブーム

私が手芸を始めたのは、小3の時。
マンガ絵や作文にのめり込んでいった話を、前回・前々回に書きましたが、その1年後のことです。

当時仲の良かった子の家に遊びに行くと、その子のお姉さんが作ったという、
フェルトでできたゾウさんのマスコットを見せてもらえました。

真っ赤なゾウさんで、キレイに刺繍がされていました。
今でも強烈に心に残っています。
一目で心奪われてしまい、フェルトという自分にとっては全く未知の素材にも、ものすごく興味がわいたのです。
聞けば、高学年の間では、とても流行っているのだというじゃないですか。

私達が高学年になる頃には、女子の多くがフェルトマスコット作りを楽しんでいて、
ランドセルに付けたり、髪飾りにしたりしていました。
私はそれより2~3年早く始めていて、マンガ絵や作文と同じように頻繁に練習していたので、
友達に教えたりしたこともあります。

憧れのコロコロ人形

そんな中でも、やはりこの人の存在は大きい!

人形作家の大高輝美先生です。
今も可愛いお人形を作り続けていらっしゃる。

名前を知らない人も、作品を見れば分かるかもしれないですし、
手芸を始めたきっかけ という方も多いのではないでしょうか。

私の持っているフェルトマスコットの本。

右3冊が大高先生の本。
当時のものなので、だいぶくたびれてしまっています。何度も何度も見たので。

ぷっくりとしたほっぺと、丸い小さな目が、本当に可愛らしい。
コミカルな表情も愛嬌たっぷり。
毛糸で作られた髪の毛もオシャレ。

私はこの出会いから今まで、ビーズ、刺繍、編み物、粘土、デコ等、断続的に手芸を続けてきましたが、
結局のところいつもフェルトに戻ってくるのです。

そして、今、【ツクル】ことを仕事にしたいと考えた時に、
やっぱりフェルトがいいな、フェルトが好きだな と思ったのです。

大高先生の作品を見ると、自然と笑顔が出てきます。
私もそんなものをつくっていきたいです。


横浜は雨。
Stay Homeにはちょうどよいかもしれないですね。
最近少し、作りたい意欲が低下してきています。
家にこもっていてもわりと平気な性質ですが、あまりにも動かないでいるので、
体がこりかたまり、心も固くなっているのかもしれないなぁ なんて思ったり。
明日は買い物に出よう!

皆さん、週末もお気をつけて。

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