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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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#呼吸瞑想

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第1292回「憐れみと慈悲」

七月の日曜説教の午後からは、一般の方々の布薩の会を催していました。 毎回大勢の方がご参加くださいます。 リピーターの方がほとんどなのですが、毎回初めての方もいらっしゃるので、そもそも布薩とは何かということからお話しています。 戒を受けて、その戒が守られているかどうかを反省するのが布薩であります。 それではそもそも戒とは何かということから話をしました。 漢字としての「戒」という文字には、 動詞として「いましめる。用心する。緊張して備える。気を張って用心させる。」 という意味や、「あやまちをしないよう、今後に気をつけさせる。さとす。」という意味もあり、また名詞として「いましめ。いつも、気をつけて避けるべき事柄」という意味もあります。 また仏教語として「仏道にはいった者が、生活を引き締めるおきて」という意味もあります。 私は梵語のシーラという言葉の意味を鑑みて「良き習慣」と言うようにしています。 戒は、良き習慣を身につけることなのです。 岩波書店の『仏教辞典』にも「仏教の修行者は、在家も出家もすべて戒に基づいて修行をする。 戒定慧の三学といって、戒の実行があってはじめて、禅定と悟りの智慧とが得られる。戒の自発的決心が修行の根本である。」 と解説されています。 坐禅の修行の土台となるものでもあります。 三聚浄戒は、大乗仏教の一番根本の教えであります。 三聚浄戒とは、第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)、第二摂善法戒(しょうぜんぽうかい)第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つです。 難しい言葉ですが、松原泰道先生は、三聚浄戒を分かりやすく 「小さいことでも少しでも悪い事は避け、よいことをし、人にはよくしてあげよう」と説かれていました。 三聚浄戒などは、まさしく禁止事項ではなく、良い習慣そのものです。 仏道というのは、このことに尽きるといっていいでしょう。 それから悪い事を避ける、実際の悪い行いとして、十善戒には十の事柄が示されているのです。 それから今回は、三帰依についても少し詳しく話をしました。 そうして礼拝の説明に入りました。 礼拝の前に、少し準備体操もしましたので、布薩の開始が少し遅くなってしまいました。 最後に質問の時に、青年が質問されました。 だいたい、こういう催しに二十代の方が出ているのは珍しいものです。 お見受けしたところ、二十代の学生さんかなと思いました。 布薩の説明で慈悲についても話をしましたので、憐れみと慈悲との違いについて聞かれました。 とてもよい質問でした。 「あわれむ」という言葉は、『広辞苑』には、 「①賞美する。愛する。 ②ふびんがる。同情する。 ③慈悲の心をかける。めぐむ。」 という意味があります。 憐れに思うとか、気の毒に思うという、少し慈悲とは異なるのであります。 もっともはじめに憐れに気の毒に思うところから慈悲の心が湧くことはあります。 憐れむというのは、どうしてもやはり自分とその人のことを比べて、かわいそうだからという気持ちがあると察します。 お釈迦様の慈悲もまた、憐れみからはじまっているところがあります。 お釈迦様が悟りを開いて、説法せずにおこうかと思っていたところ、梵天がお釈迦様にお説法してくださいとお願いしたのでした。 それに対してお釈迦様は 「梵天王の勧請を知りて、衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた。 そこには、塵垢多い者もあり、塵垢少ない者もあった。 利根の者もあり、鈍根の者もあった。善き相の者もあり、悪しき相の者もあった。教えやすき者もあり、教えがたき者もあった。 その中のある者は、来世と罪過の怖れを知っていることも見られた」 と思われたのでした。 かくして哀憐の心をもって人々をご覧になって法を説こうと決意されたのでした。 しかし、哀憐だけではじゅうぶんとはいえないのであります。 そこに空の教えがあるのです。 「慈悲と空とは、実質的には同じです。哲学面から見ると空ですが、実践面からいうと慈悲になります。 われとなんじが相対しているとき、そこに隔てがあるかぎり、われとなんじの対立はいつまでも残っています。 けれど、その根底にある空の境地に立って自分の身を相手の立場に置いて考えるようにすると、そこから、ほんとうの意味の愛が成立します。 それを仏教では「慈悲」とよんでいます。 「慈悲」ということを、仏典ではまれに「愛」ということばで表現している場合もありますが、愛の純粋化されたものが慈悲である、ということがいえます。 世俗の愛は、いろいろな要素がまといついています。 純粋の愛というものは、不純物がありません。 われわれが空の境地を体得すると、よい行いがおのずから現れでてきます。」 というのは、「現代語訳 大乗仏典1『般若経典』中村元」にある言葉です。 もう少し堀下げてみますと、相国寺の僧堂で長年坐禅された片岡仁志先生は、『禅と教育』の中で次のように説かれています。 「絶対無の自覚というものが、有のもとです。 絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。 すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。 これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。 感情移入というような心理学的な説明の仕方もあるでしょうけれども、その事柄それ自体は、そういう説明よりもっともとになるものです。 感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。 その繋がりが、実際は愛というものの根本です。 われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。 自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。 他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。 絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。 そういう智即愛というのでないと、本当の愛にはなりません。 そうでないと、どうしても、好き嫌い、感覚的な好悪の情というものが愛を支配するようになってしまう。 そういう感覚的な好悪や好き嫌いというものも働くでしょうが、それが根本になってはいけません。 感覚的な好き嫌いとか、主観的な好悪の情とかを超えて、ただ人を愛する、つまり人類一如の愛というふうなものがあります。」 と説かれているのです。 憐れみというとやはり感情移入であると思われます。 これもまた大事なことでありますが、それだけでは疲弊してしまったり、また相手にとって重荷になってしまうこともあるものです。 そこでやはり坐禅修行して空を体験して自他一如の世界からはたらくのであります。 質問してくださった青年とは布薩のあと、少しお話させてもらいました。 その日はお母様とご一緒に参加してくださったのでした。 都内の大学に通われているそうです。 こういう前途有望な青年が、お寺で布薩を体験してくださるとは有り難いことであります。 何か将来に希望を感じる一日となりました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1285回「鉄饅頭」

五祖法演禅師の語録に 「一箇の鉄酸饀を咬破す。直に得たり、百味具足することを」 という言葉があります。 「鐵酸饀」とは、『禅語辞典』には。 「酸饀は僧侶が食べる精進のマントウ。 それが鉄製だというのは、全く歯が立たぬ、取りつくしまもないものの喩え。」 と解説されています。 夢窓国師がこの鉄饅頭について説かれています。 講談社学術文庫『夢中問答』にある、川瀬一馬先生の訳文を参照します。 「圜悟禅師も言われた。 よい生まれつきの人は、必ずしも古人の言句・公案などを見る必要はないと。 これでよく判ることだが、公案を与えるというのも、決して宗師の本意ではないのだ。 たとい情をかけて、一くだりの公案を与えたとしても、それは仏の名号を唱えて、往生極楽を求め、陀羅尼を誦し経を読んで、功徳を求めるのと同じではない。 そのわけは、宗師が弟子たちに公案を与えることは、極楽浄土に往生するためでもなく、成仏得道を求めるためでもない。 それは世間の変わったことでもなく、仏法の道理でもない、すべて人間の情識(とらわれた考え)の届かないところである。 それ故に、公案と名づけたのだ。 これを鉄の饅頭に譬えている。 ただ情識という舌のとどかないところに向かって、咬んで咬んで咬みまくれば、きっと咬み破る時節があるであろう。 その時初めて、この鉄の饅頭は、世間の種々な味わいでもなく、世間出世の妙法の滋味や義理を読み取る味わいでもないということがわかるであろう。」 というものであります。 全く歯の立たない鉄の饅頭を咬んで咬んで咬み破るというのであります。 七月の前半は、修行道場で摂心という修行の期間でありました。 修行僧達は、文字通り、この鉄の饅頭を与えられます。 この春修行道場に入門した者も一様にこの鉄の饅頭に取り組みます。 大慧禅師は、富枢密に与えた手紙に、 「ただ妄想顚倒の心、思量分別の心、生を好み死を悪む心、知見解会の心、静をねがい動をいとう心を、一度におさえつけ、そのおさえつけるところについて、話頭を参究なさい。 (たとえば) ある僧が趙州に、「狗子にも仏性があるのでしょうか」とたずねる。趙州は、「無い」とこたえる。 この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器です。 (この「無」を悟るのに)有無の意識をおこしてはいけません。 理窟の意識をおこしてはいけません。 意根によって思量し臆度してはいけません。 眉をあげ目をまばたくところにじっとしていてはいけません。 言句の上でその場しのぎをしてはいけません。 無事そのものの中にとどまってはいけません。 挙示されたことについて早合点をしてはいけません。 文字にとらわれて証拠がためをしてはいけません。 ただ朝から晩まで行住坐臥の中で、いつも工夫し、いつも気を引き立てなさい。 「狗子にも仏性があるのでしょうか。」「無い」(と言った工合に。) 日常(の暮し)から離れないで、ためしにこんな風に工夫をしてみなさい。 ひと月はおろか十日のうちにはじきに分るでしょう。 一郡千里四方にわたる公務も、何らさまたげになりません。 古人は、「わしの胸中ははつらつとした祖師の意だから、拘束するものは何もない」と言いました。 (こうしたわけで)もし日常を離れて別にめあてがあるなら、波を離れて水を求め、器を離れて金を求めるようなもの。 求めれば求めるほど遠ざかることとなります。」 と説かれています。 現代語訳は、筑摩書房『禅の語録17 大慧書』にある荒木見悟先生の訳文であります。 このような無字の公案を今も変わらず行っています。 暑い中ですが、暑いという思いも忘れて、ただ無の一字になりきって坐るのであります。 これを鉄饅頭に喩えたのです。 大慧禅師が「この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器」だと仰せになっていますように、今まで学校で習って蓄えてきた知識などを砕いてしまうのであります。 これがなかなか容易ではありません。 私たちの心には比べるという癖がついてしまっています。 暑いときと涼しい時を比べるから暑いのが苦痛になるものです。 そこでやはり強い心が必要となるのです。 鈴木正三が『万民徳用』の中で、 「凡夫というのは、幻や化生の偽りを本当だと思い込み、姿形に執着して私心を作り出す。 そして貪欲・瞋恚・愚痴の念から始めて、あらゆる煩悩を起こしながら本心を失う。 散乱の心の止む時が無く、念が次々と起こるに従ってその念に負け、心を壊して身を苦しめる。 又、浮心が無く、闇に沈んだまま虚しく月日を過ごし、自分に迷って漂い、物に出会って執着するのを凡夫心と名付ける。 だから、本来の心の異名を知るべきである。 金剛のように堅固な正体といい、堅固な法身という。 この心は、物事に関わらず、恐れず、驚かず、憂えず、退かず、動かず、変化せずに、一切の物事の主人と成る。 このように心を通じ徹して用いることが出来る人を、大丈夫の漢(大いなる優れて丈夫である漢)、鉄心肝(心や肝が鉄のように強い人)といい、達道の人ともいう。 この人は諸々の念に碍げられる事はなく、万事を使うことができ、大いに自在である。 そうであるから、仏道修行の人は、まず、勇猛の心が無くては修行が成就できない。 怯み弱い心では仏道に入ることもできない。 固く守り強く修行しなければ、かの煩悩に従わされて苦しみ患いを受けることになる。 つまり、堅固な心をもって万事に勝つのを道人と言い、姿形に執着する念によって、万事に負けて苦悩する人を凡夫と言う。」 と説かれているのであります。 現代語訳は中公クラシックス『鈴木正三 鈴木正三著作集Ⅰ』にある加藤みち子先生のものです。 私もどうにか若い者につられて汗を流しながら坐禅をしているのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1284回「らっぱ仏法」

「らっぱ仏法」という言葉が鈴木正三の書物の中に出てきます。 『驢鞍橋』の巻上九十七に 「一日示曰、我平生果し眼に成、八幡と云てねぢまわし、じりじりと懸る機に成て居る。 我法はげにと出家には移り難かるべし。 只武士に移るべき也。其故は、 我少しも殊勝気なし。 只常住ねぢまわして居る機一つを用ひ得る計り也、我法はらつは仏法と也。」 というもので、『日本の禅語録十四 正三』にある古田紹欽先生の現代語訳では、 「ある日、こう言われた。 「私は平生、果たし眼になり、南無八幡と唱えて心のねじをかけ、じりじりと敵におそいかかる時の心がまえになっておる。 それで私の仏法は、ほんとうに出家の方には移りにくいであろう。 ただ武士に移るであろう。 そのわけは、私にはすこしも神妙らしさがない。 ただいつもねじをまわしておる心がまえ一つを用い得るだけである。 私の仏法はらっぱ仏法だわい。」」 となっています。 「らっぱ」とは何か、『広辞苑』には、 「①「すっぱ(透波)」①に同じ。 ②あらくれ者。無頼漢。」 とあります。 「すっぱ」と同じだというので、「すっぱ」を調べてみると、 「すっぱ 「戦国大名が野武士・強盗などの中から召し出して、間諜または軍隊の先導などを勤めさせたもの。乱波(らっぱ)。間者。忍びの者。」 と解説されています。 一説には、密かに活動するものを「透波(すっぱ)」、騒がしく動静が整わないものを「乱波(らっぱ)」とも言われます。 また関東では「乱波」、甲斐以西では「透波」という地理的な使い分けがあるという説もあるようです。 「らっぱ仏法」について、『日本の禅語録十四 正三』の註釈には、 「あらくれ仏法。 「関東らっぱ」というように関東の荒武者を呼んだから。 『驢鞍橋』上・百十四に「了庵和尚も、法は関東らつはに移るべしと云給と聞く、是好見様也」とある。」 と解説があります。 そこで『驢鞍橋』巻上の百十四を参照してみましょう。 こちらは、中公クラシックス『鈴木正三 鈴木正三著作集Ⅱ』にある加藤みち子さんの訳を引用します。 「百十四 壬辰(みずのえたつ)(承応元・一六五二)十月六日、夜話に言われた。「フクワン者(おおざっぱな者)は、ブンマケテ(おおざっぱなので)この世に苦しむことが少ない。 これは仏法を受ける器である。 了庵和尚(慧明、一三三七~一四一一)も、仏法は関東のラッハ(俠気のある剛健なもの)に移るだろうと言いなさったと聞く。 これは良い見方である。 しかしながら、フクワン(おおざっぱ)ばかりで確りとした機(気)一つが無ければ、修行は成就しにくい。 その理由は、この世が粗相なほど、修行も粗相であり、うかうかと過ごしてしまい、落ち付いて修行することが無いからである。」 時に或る者が言う。 「誠に某長老のように粗相な人は修行が成就し難い。」師が言われた。 「中々、ぶちまけて可笑しい人である。取り留めることの成就する性質ではない。 あれは何もかも打ち捨て打ち捨てなされ、と捨修行を教えるのがよい。」」 というものです。 これは『驢鞍橋』の冒頭に、 「 師匠がある日こう言われた。 「近年、仏法に勇猛堅固の大威勢があるということを言わなくなった。 ただ、柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人はよくなったが、怨霊となるほどの気質をつくり出す人がいない。 皆、勇猛心を修行によって奮いおこし、仏法の怨霊とならねばならぬ」と」とように、ただお人好しのようになっていることを嫌っているのであります。 仏道修行には、こういう勇猛果敢な精神も必要なのです。 鈴木正三がまだ出家する前に書かれた『盲安杖』という書物があります。 そこには、次の十の項目について仏道が説かれています。 「一、生まれかわり死にかわりして絶えることのない迷いの世界を、よく知って、その中に涅槃という悟りの楽しみの世界があるということ。 二、自分をよく反省して、自己をよく知るべきこと。 三、ものごとにおいて、つねに他人の心になりかわってみること。 四、誠があって、忠義と孝行に励むべきこと。 五、自分の身の程をよく見分けて、それぞれの性分を知るべきこと。 六、執着する所を離れて、かえって得るところがあること。 七、自己を忘れ無我になって、しかも自己をよく守るべきこと。 八、立ちあがって、必ずその独りを慎むべきこと。 九、妄念をほろぼして、本分の心を育つべきこと。 一〇、利己的な小さな利益を捨てて、衆生を救うような大衆のための大きな利益を得るようにつとむべきこと。 一が「生死を知りて楽しみ有ること」なのですが、そこには、 「すべてはかないことである、どんな親しい者も、うとい者も、先に死んで死というものがあることを教え示しているが、これを余所ごとだと思って空しく過ごしてしまう。 どんな人でも一人としてこの世に残りとどまるかどうか、どんなことでも、しばらくとどまっているものがあるかどうか、みな夢幻のはかない世の中であることが、眼に見え、耳にいっぱい聞こえるではないか。 まさに知るべし、元来無常の世であることを。 もし明らかに無常の世であることを知ったならば、如何なるさわりがあるであろうか。 夢の中で見たものに執着して、それを自分のものであるかのように楽しんでいるこの身は一体何ものなるぞ。 地・水・火・風の四つの元素が、仮に和合して肉体をつくっているだけで、決して自分のものではない。 四大というこの四つの元素に執着する時は、この四大が私をまどわしてしまう。 かさねがさね四大にまどわさるることなく、究明してみよ。 一箇の我というものがあるが、これもまた我ではない。 それは四大を離れていながら四大に属し、四大に連なりながら四大を自由に用いるのである。 古人も言っているではないか、「物あり、それは天地に先立ってある。しかし、それは形がなく、本来しずまりかえって静かである。 しかしまた、それがすべてのものの主人公となってはたらき、春夏秋冬をめぐって凋むことがない」と。」 と説かれています。 これなどは仏教の無常、無我の道理をよく説かれています。 しかし、常であると願い、我に執着する心がとても強いので、やはり勇猛果敢な心で修行しないと負けてしまうのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1283回「土になる」

鈴木大拙先生もまた鈴木正三のことに注目されていました。 もっとも岩波文庫から『驢鞍橋』を校訂して出版されたのは大拙先生であります。 また大拙先生の『日本的霊性』の中にも鈴木正三のことが度々論じられています。 こんなことが説かれています。 岩波文庫の『日本的霊性』から引用します。 「鈴木正三道人の言行を録したる『驢鞍橋』に左の文句がある。 「師、壬辰(みずのえたつ)八月日、武州鳩谷宝勝禅寺に至る。 時に近里の百姓ら数十人来り法要を問う。 師示して曰く、農業すなわち仏行なり。別に用心を求むべからず。 おのおのも体はこれ仏体、心はこれ仏心、業はこれ仏業也。 然れども心向けの一つ悪しき故に、善根を作しながら還って地獄に入らるるなり。 或いは憎い、愛(かわゆ)い、慳(おし)い、貪(ほし)いなどとさまざま私に悪心を作り出し、 今生日夜苦しみ、未来は永劫悪道に堕すは、口惜しきことに非ずや。 しかるあいだ農業を以て業障を尽くすべしと、大願力を起こし、一鍬一鍬に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耕作せば、必ず仏果に至るべし。云々。」(『驢鞍橋』上巻、九八節)」 という『驢鞍橋』の一節をとりあげて大拙先生は、 「これは幾千鍬を重ねることによって業障を尽くし得るという義ではないのである。 南無阿弥陀仏の一鍬ごとに幾百千劫の業障が消えていくのである。 鍬の数、念仏の数で業障をどうしよう、こうしようというのではないのである。 振り上げる一鍬、振り下ろす一鍬が絶対である、弥陀の本願そのものに通じていくのである、 否、本願そのものなのである。 本願の「静かな、ささやかな声」は、鍬の一上一下に聞えるのである。 正三は禅者であるから禅語彙を用いるが、彼の無意識の意識は、深く親鸞宗の心に通うものがあるのである。 親鸞の念仏は、大地から出て大地に還りゆくものであったに相違ない。 彼は五年か六年かは知らないが、とにかく越後の生活でここに徹するものがあったのであろう。 彼の常陸行きは、縁家の関係であったか否かを知らぬが、彼はみずからの所得底即ち無所得底を、経典の上に証してみんがため、そんな書物の入手可能な地方へ出かけたものではあるまいか。 彼が青年時の煩悩が再発したものと見てよい。 『教行信証』はかくして書かれた。 が、また一方においては彼の言行、人格から溢れ出た弥陀信仰の光は、周囲のものを感化せずにはおかなかった。 即ち教団の如きものがおのずから彼の身をめぐりて成立しかけたのは、彼が在東国の二十年間であった。 在越後の数か年がなかったなら、かくの如き事象は決してあり得なかったであろう。」 と説かれています。 大拙先生が親鸞聖人の念仏を「大地から出て大地に還りゆくもの」と表現されているように、この「大地性」に注目されたのでした。 「大地性」について大拙先生は、『日本的霊性』の中で、 「農民にとって大地は、単なる象徴ではなかった、大地は彼らにとって、生活の最も具体的な基体であった。 起きるのも大地の上、倒れるのも大地の上である、人間の心にとってこれほど究極的な安心の場はない。 更にまた大地は、いかなる不浄をも黙って受入れ、しかもその汙穢を清浄にして返す、人間にとってこれほど寛容で有難い存在はない。 こうして農民の心は大地のまことを体認する、まことはまた宗教の本質である、農民の心が宗教の大地性を感得するのは、当然と言わねばならぬ。 これに反して平安時代の大宮人は、大地から遊離していた、大地のいかなるものであるかを知らなかった。霊性が彼のうちに眼醒めなかったのはこの故である。」 と説かれています。 鈴木正三も「土になって」勤めるということを説いています。 『驢鞍橋』に、 「初心の人は先ず信心を祈り、咒・陀羅尼を繰りて身心を尽くすがよき也。或いは八句の陀羅尼を十万返も、二十万返も、三十六万返も唱えて、業障を尽くされば、志も進み真実も起こるべし。先ずよきお坊主を捨て、一向の土に成りて勤む べし(『驢鞍橋』上巻、一六節)」 とあります。 訳しますと 「初心の人は、先ず信心を祈り、呪・陀羅尼を繰って身心を尽くすのが良い。 或いは八句の陀羅尼を十万回も二十万回も三十六万回も唱えて[自分の] 業の障を尽くせば、志も進み、真実 [心]も起こるであろう。先ず立派な御坊主 [になるという欲望]を捨て、一向の土に成って(謙って)勤めなさい。」 というのであります。 『驢鞍橋』巻上十八に、「あなたも自分の修行の為に良いと思うならば、一向の土に成り、謙って、向上(修行の階梯が進むこと)に眼を着けず、足元から修行するべきである。 怠けた様子をして、大したことでも無いことを鼻にかけて歩こうと思うのであれば、[私のところには] 出入り無用である。」 と説かれています。 このところについて大森曹玄老師は『驢鞍橋講話』の中で、 「正三の禅は一面には念仏禅と言われ、また一面では土になる禅だとも言われる。 色気も娑婆気もすべて捨ててしまって、ただ土になる。 土というものは大勢の人に踏まれながら、腹も立てなければ怒りもしない。 じっと人に踏まれながら人を自由に、こちらからあちらへ渡す。 今では化学製品が多いからそうはいかないけれども、昔ならばこの辺でも、私も鉄舟会道場の下の方で畑をつくっていたが、ごみなどはみなそこに埋めておくと、半年もたてばきれいな土になっていた。 そのように、土には一切を浄化する力がある。 黙々として人を渡し、黙々として汚れたものを浄化していく。 そういうところに土というものの尊さがある。その土になる。」 と提唱されています。 鈴木正三の説かれた教えに「土になる」ということがあります。 これも今日大いに学ぶべきであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1282回「ときのこえ」

大森曹玄老師の『驢鞍橋講話』にこんな一節があります。 「そこで、何ものにも動かされないぞと言って、果たし眼で目をすえて坐禅をした、そういうふうにして確かに禅定の機というものを会得した。 そこで初めて禅定というものの働きを知ったという。 「然る間、各々も六具をしめ、大小十文字に指働らかし、八幡と云て、ねじ廻し、睨み付て、坐禅を仕習ひめされよ。」 そういうことであるから、皆さんも六具をしめ、六具というのは鎧と太刀、采配、それから鞭、軍扇、そういうものを六具という。 つまり戦陣用の武具でがっちりと固めて、大小十文字に指働かし、大小、大きい刀小さい刀を十文字に差して、そして八幡と言ってねじ廻し、睨み付けて、坐禅を仕習いめされよ。 鎧兜をつけて、大小を差して、南無八幡と言って、きっと睨みつけて坐禅を仕習いめされよ。 「古具足有ば、御坊主達にも着せて、坐禅仕習せたし。」 もし古い鎧兜があるならば、坊さんたちにもそれを着せて坐禅をやらせたいものだ、こう言っている。 坊主たちが居眠り半分にヘラヘラ坐禅をしていたところで、生死を超えるのには何の役にも立たない。 やはり古具足、武具をつけて、戦場に臨むような、必死三昧で坐る以外にはない。 そういう坐禅をさせてみたいものだ、と正三道人は強調する。 「何とだらついた坊主の心なりとも、」 何とだらけ切って、腐ったような坊主の心なりとも、「六具鎧大小十文字に指たらば、其儘、心は替べしと也。」 幾らぐらついたダラケ坊主でも、具足を身につけ、大小を差して武装したならば、心は変わるであろう。 はっきりと張り切った心になることだろう。」 というのであります。 関ヶ原の合戦、大坂冬の陣、夏の陣に参戦して出家した鈴木正三ならではの言葉であります。 それだけに、こういう言葉も遺されています。 こちらは、『日本の禅語録十四 正三』から引用します。 現代語訳は古田紹欽先生のものです。 「ある日、ある修行者がやってきて、仏道修行の方法を尋ねた。 師匠はこう教えられた。 「万事をさしおいて、ただ死ぬことを習いなさい。 常に死ぬことを習って、死ということがよくわかって、本当に死ぬ時、驚かぬようにしなさい。 人を救い、道理を分けて考える時にこそ智恵は必要だが、自分の成仏のためには、何でも知ったものは仇となるものだ。 分別をやめ、ただ念仏することだけで死ぬことを習いなさい」 という教えであります。 こういうことも鈴木正三の教えの特徴であります。 それから「ときのこえ」坐禅というのも説かれています。 「ときのこえ」の「とき」というのは、「鯨波」とも書きます。 『広辞苑』には、 「合戦の初めに全軍で発する叫び声。 味方の士気を鼓舞すると共に、敵に向かって戦いの開始を告げる合図としたもの。 敵味方相互に発し合い、大将が「えいえい」と2声発すると、一同が「おう」と声をあげて合わせ、3度繰り返すのを通例とした。」 というものです。 『驢鞍橋』巻下百十に、 「一日去処にて示曰、仏法と云は万事に使ふ事也。殊に武士は鯢波坐禅を用べしと云て、自ら鯢波を作給。其座に不三有、ひしと此機を受。師、後に其意を聞て肯之。」 とあります。 訳しますと、 「ある日ある所で、「仏法というのは万事に使うことである。ことに武士は鯢波坐禅をなすべし」と言って、自ら鯢波をなさった。 その座に不三がいたが、ひっしとこの気質を受けた。 師匠は、後に其の心意を聞いてこれを印可肯定された。」 と書かれています。 果たし眼の坐禅といい、ときの声坐禅といい、いかにも武士らしい禅風であります。 また浮かぶ心を大切にして、沈む心を嫌われていました。 どんなのが沈む心で、どんなのが浮かぶ心なのか『驢鞍橋』には次のように説かれています。 「浮かぶ心と沈む心を分かち得るのは理(理論)である。 この理を知って、日夜、常に浮かぶ心を用いるのは義(条理実践) である。 まず喜ぶ心・怒る心・憂える心・物思う心・悲しむ心・恐るる心・驚く心、この七つの心は自我のとらわれによっておこるものである。 また痛む心・煩う心・悩む心・苦しむ心・偽る心・諂う心・恨む心・嫉む心・是非の心・世間の名声にとらわれる心・自慢の心・とらわれる心・願い求める心・ものをすき好む心・ものを願う心・貪欲の心・愚かな心、これらの心はすべて沈む心であって、真っ暗な無知の迷いの中からおこるものである。 故に沈む心を用いる時、ただいま出でて死ねといったならば、苦しみ煩うことが強いであろう。 また、浮かぶ心の種類がある。 仏や神を敬う心・主人の前に坐っている時の心・礼儀正しい出会いの時の心・慈悲あり正しくすなおな心・仁義を守る心・自己の本分を守る心・生と死をよく見極める心・戦陣にのぞむ心・身を捨てて仏道に励む心・無常を観ずる心・念仏を唱える心・経典や真言陀羅尼を誦する心・仏陀の教説や祖師の言葉に注目し究明する心・公案を工夫し、聖胎を長養し、坐禅する心・すべて悟りを得るために実践修行に励む心、これが浮かぶ心であって、これはあらゆる苦に勝つ坐禅、すなわち身心を滅却して安楽を生ずる安楽の法門である。」 というところであります。 二王様や不動明王のような気迫で、この沈む心を撃退して、果たし眼やときの声をあげるような気迫で浮かぶ心をもって修行するのが鈴木正三の教えなのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1281回「目を開いて坐る」

坐禅中に目を開けるのか、閉じるのかと聞かれることがあります。 坐禅中は目を閉じません。 目を開いて坐ります。 『坐禅儀』という書物には、 「目は須らく微しく開いて昏睡を致すことを免れるべし。若し禅定を得れば、其の力最も勝る。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向の法雲の円通禅師も、亦た人の目を閉じて坐禅するを訶して、以て黒山の鬼窟と謂えり。蓋し深旨有り。達者これを知るべし。」 と書かれています。 訳しますと、 「目は半眼に開いて居眠りをしないようにすることが大切である。 こうして禅定の境地に入ることができるとき、その効果は最高である。 昔ある高僧が禅定に入るのに、いつも目を開いていたという。 ちかごろ東京法雲寺の円通禅師も、目を閉じて坐禅するのを叱って、地獄の洞穴坐禅だといわれている。 大いに意味のある言葉で、道を得た人にして、はじめて言えることだ。」 ということです。 これほど強調されているので、目を閉じないことには大きな意味があるのです。 藤田一照さんは、半眼について、 「坐禅ではよく「半眼」ということが言われるが、情報をとらえに行こうとする緊張した普段眼の状態のままで「半眼を作る」のではない。 現れる対象の情報がやってくるままにそれを迎え入れるくつろいだ眼を外から見ると「半眼になっている」のである。」と仰っています。(web春秋 はるとあき 坐禅の割稽古 試論) 私はいつも日曜説教や法話会などで、はじめにしばし目を閉じて感謝するということをしています。 これは、やはり何と言っても短時間だからです。 今まで外のものばかりに目をとられていたのを、切り替える為に、ほんのしばし目を閉じてみるだけなのです。 そして生まれたことの不思議や、今日まで生きてこられたことの不思議、今日ここでめぐりあえたことの不思議に感謝をするのです。 ある程度の時間坐禅をするには、必ず目を閉じないようにします。 目を閉じると体はどうしても不安定になります。 体が不安定になると、心もまた落ち着かないものです。 先日甲野陽紀先生にお越しいただいて身体の使い方について学んでいました。 毎回毎回驚きの講座なのですが、今回も実に驚きでありました。 目を閉じると目を瞑るとでは、身体の安定感が全然違うのです。 目を閉じると体は不安定になります。 目を瞑るでは体は安定しているのです。 単なる言葉の違いのようですが、これが大きな違いがあるから驚きなのです。 目を瞑るというのは、まぶたを閉じるということだというのです。 まぶたを閉じると目を閉じるとでは違うというのです。 まぶたを閉じるというのは、視覚を閉ざしているだけで、体の内部は生きて活動しているのです。 あたかもお店のシャッターだけを閉じてお店の中はまだ動いている状態だということです。 目を閉じるというのは、お店が全部閉店になったようなものだというのです。 目を閉じてしまうと、外に向き合う機能がなくなってしまうのでしょう。 大森曹玄老師の『驢鞍橋講話』には果たし眼の坐禅ということが説かれています。 『驢鞍橋』の本文には、 「爰を以て、果し眼と云事を云出して、人に授る也。」 と説かれていて、大森老師が、 「そこで自分は果たし眼ということを言い出して人に授けた。 果たし眼の坐禅。自分でやってみるがいい。 真剣勝負をする時のように、果たし眼でグと相手を睨みつける、そういう気合いで坐禅をやってみるがいい。」 「正三道人は果たし眼の坐禅ということを言う。 坐禅をして、のらりくらりしていたのでは致し方がない。 それこそ足の爪先から髪の毛の先まで機が充実して、原田祖岳老師は、「ゆったりと、どっしりと、しかも凜然と、富士山が東海の天に突っ立ったようにスーッとやれ、それが坐禅というものだ」と常に言われた。 それを正三道人は果たし眼の坐禅と言う。」 と講話されています。 「果たし眼」というのは『広辞苑』には、 「相手を打ち果たそうとする決死の目つき」のことだと解説されています。 鈴木正三は、『驢鞍橋』の中で、目をすえるということを何度も説かれています。 目をすえるとは「視線を動かさず、じっと見つめる」ことだと『広辞苑』には解説されています。 二王禅として「もし私の考える仏法に入ろうと思う人は、気力をひき立て、眼をすえ、二王不動が悪魔を降伏する形像の気質を受け、二王の心をしっかり持って、自己の悪業煩悩を滅すべし。」 と説かれていますし、 読経の時にも、 「ある日、誦経の時にこう言われた。 「体をすっくと正しくたもち、禅機を臍の下(丹田)に落ちつけ、眼をしっかりすえて誦経せよ。 このようにすれば、誦経をすることによって禅定に入る機を修し出すことができよう。ぼんやりして誦経したのでは、功徳にもならないであろう」」 というのであります。 果たし眼というと随分過激のように聞こえますが、しっかり目を開いて坐るようにということであります。 とろんとした死んだような眼ではダメなのであります。 しっかり、目を開いて見るということが、物事に真剣に取り組むことにも通じるのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1277回「三種類の慈悲」

先日久しぶりにライブ配信をおこなっていました。 夢窓国師の「三種の慈悲」について話をしました。 夢窓国師は、円覚寺にとってとても大事な方で、第十五代目の住持であります。 夢窓国師は一二七五年に三重県の伊勢で生まれています。 一二七五年というのは、一度目の元寇である文永の役の明くる年にあたります。 まだ円覚寺に無学祖元禅師がお見えになる前であります。 岩波書店の『仏教辞典』に簡潔にご生涯が解説されていますのでそのまま引用します。 「1275(建治1)ー1351(観応2)  臨済宗の僧。夢窓は道号、疎石は諱。伊勢(三重県)の出身。 はじめ天台・真言を学びのち禅を修し高峰顕日の法を嗣ぐ。 嗣法ののち十数年、人里離れた地に草庵を転々とした。 その後、南禅寺・円覚寺などに住持となり帰依する者多く、天竜寺はじめ多くの寺を開き、また足利尊氏(1305-58)にすすめて鎌倉末以来の戦乱に落命した人々の菩提のため全国に安国寺・利生塔を建てさせた。」 という通りであります。 禅宗に転じるきっかけについて『夢窓国師語録』には次のように書かれています。 「永仁元年癸巳、師、十九歳 密教を学び兼ねて台講を聴く。其の講師病を得て忙然として死す。師は見て忍びず。」 密教は真言の教え、台講は天台宗です。 十九歳のときに仏教学の講義を聴いていました。 その先生が病気になって、茫然自失になって亡くなってしまったのです。 その死に様が悲惨で、見るに忍びなかったと書かれています。 そこで思ったのは、仏法は真言宗とか天台宗とかいろいろあるけれども、その目指すところは煩悩の世界を出て仏道を会得するにあるだけですが、自分の先生は普段は仏教学についての知識が非常に深かったけれど、いざ死に臨むとなると狼狽して、仏教学の知識が一文字も役に立たなかったと気がついたのです。 それによってわかったのでした。 仏法は学問を学んで至るところではないということがはっきりしました。 禅宗というのは教外別伝といって教えや文字の外に伝えることがあるという、これにはきっと訳があるはずだと思ったのでした。 あれだけ学んでいたのに、死ぬときに学問が何の役にも立っていないと気づいたのです。 結局、経典や書物を読むだけでは、生死の世界を超えることができないということを知り、教えや文字以外に伝えるものがあるという禅に気持ちが惹かれていくのです。 仏国国師について修行したあとも諸方を転々として、五十一歳のとき、後醍醐天皇の勅命を受けて上洛し、南禅寺に住しました。 南禅寺は亀山上皇のお建てになったお寺で、京都五山の上に位置するお寺だといわれるようになった格式の高い寺です。 『仏教辞典』には、 「夢窓は思想的には柔軟で禅密兼修と見られ、性格は隠逸を好むが温順柔和である。 人々に対しては各人の能力に応じた方便を用いて理路整然と、かつ諄々と説き示し、人を感ぜしめること深く、朝野の帰依を一身に集めて広く社会を教化した。 弟子1万3千余人といい、その法系の夢窓派(嵯峨門派)は室町五山禅林の主流となり、夢窓の号のほか国師号を7代の天皇より賜り七朝帝師(国師)という。作庭にもすぐれ西芳寺・天竜寺をはじめ諸寺に残る名庭と共に造園史にも名を残す。」 と書かれています。 その夢窓国師の『夢中問答』にこんな問答が残されています。 講談社学術文庫『夢中問答』にある川瀬一馬先生の現代語訳を引用します。 「問。自分自身がもし煩悩から離脱しなければ、他人を悟りに導くこともできない。それなのに自身をさしおいて、先ず第一に衆生のために善根を修めるというのは、理屈が通らないのではないか。 答。 衆生が生死の迷いに沈んでいるのは、我が身にとらわれて、自分のために名利を求めて、種々の罪業を作るからだ。 それ故に、ただ自分の身を忘れて、衆生を益する心を発せば、大慈悲が心のうちにきざして、仏心と暗々に出会うために、自身のためにと言って善根を修めなくとも、限りない善根が自然によくそなわり、自身のために仏道を求めないけれども、仏道は速やかに成就する。 それに反して、自身のためばかりに俗を離れようと願う者は、狭い小乗の心がけであるから、たとい無量の善根を修めたとしても、自分自身の成仏さえもかなわない」というものです。 そして次に三種の慈悲について説かれています。 「慈悲に三種ある。 一つには衆生縁の慈悲。二つには法縁の慈悲。三つには無縁の慈悲である。 衆生縁の慈悲と言うのは、眼前に生死の苦に迷っている衆生がいるのを見て、これを導いて世俗の煩悩から離脱させようとする慈悲で、これは小乗の菩薩の程度の慈悲である。 自身ばかり離脱を求める声聞・縁覚二乗の考えにはまさってはいるが、まだ世間の迷いの世界を断ち切れない考え方に陥っていて、他に功徳を及ぼそうとする相を残しているが故に、真実の慈悲ではない。 「維摩経」の中に、眼前の姿に心を引かれる大悲だとそしっているのは、これである。 法縁の慈悲と言うのは、因縁によって生じたありとあらゆるものは、有情非情すべて皆、幻に現われたものと同じだと見通して、幻のごとき一切の無実を救おうとの大悲を発し、如幻の教えを説いて、如幻の衆生を救い導く。 これがすなわち、大乗の立場にある菩薩の慈悲である。 しかしながら、かような慈悲は、目の前にある姿に捉われる心から離れて、眼前の姿に心を引かれた大悲とは異なっているが、なおも如幻の相を残しているが故に、これもまた真実の慈悲とは言えない。 無縁の慈悲と言うのは、悟りを得て後、もともと見えている本性のよき働きの慈悲が現われて、教化しようという心を発さなくて自然に衆生を導くこと、あたかも月がどこの水にも影をうつすがごとくである。 この故に、仏法を説くのに、口に出すとか出さぬとかという違いもなく、人を悟りに導くのに役に立つとか立たぬとかの区別もない。かように無条件に徹底しているのを真実の慈悲と言うのだ。」とあります。 月がどこの水にも影をうつすように無心に人を導いていく、夢窓国師はそんな慈悲の方であったと思います。 夢窓国師のことを学び直しているところなのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1270回「戒の変遷」

「比丘」という言葉があります。 『広辞苑』には、もともとは食を乞う者の意で、「出家して具足戒を受けた男子。修行僧を言う」と解説されています。 岩波書店の『仏教辞典』には、 「仏教興起時代には諸宗教一般に、托鉢する男性の修行者をこのように呼んだ。 仏教では、出家得度して具足戒を受けた男子の修行者を<比丘>と呼ぶようになり、<パーリ律>では227の戒条、『四分律』では250戒(二百五十戒)を受けるとされる。」と明記されています。 出家するということは、具足戒を受けるということでもありました。 「ありました」という過去形で述べていますように、いろいろの変遷があって、今は行われていないのであります。 「具足戒」を調べると、その内容は 「犯せば僧伽より追放される重罪である<波羅夷(はらい)法>(婬・盗・殺・妄)、」 それから次に僧残法があります。 これは「六昼夜他の全ての比丘を礼拝するなどの贖罪の摩那埵を行い、20人以上の比丘からなる僧伽の前で出罪羯磨(しゅつざいこんま)を行う(罪を隠していた場合には同じ期間の別住がさらに課せられる)などの一定の手続きの後に許される」ものです。 それから「僧伽または衆多人(2、3人)または1人の比丘の前に不法に所持したものを捨てることで許される」という「波逸提(はいつだい)法」があります。 そして「他の比丘に向かって懺悔(さんげ)すれば許される」という「波羅提提舎尼(はらだいだいしゃに)法」があり、 最も軽いもので「自ら反省懺悔することで許される」という「突吉羅」があるのです。 罪の重さでこのように分類されています。 「波羅夷」は重罪で、教団から追放されるのです。 仏教では、体罰などはありませんので、もっとも重いものが教団追放です。 それはまず「淫事を行うこと」でした。 出家者には結婚や性行為は認められませんでした。 それから盗むというのは「与えられていない物をとること」です。 殺は「人を殺すこと」で故意に人を殺すことを言います。 妄語戒というのは「宗教的な嘘をつくこと」であり、「自身が正しい覚りを得ていないことを認識しているのに究極の覚りを得た」と嘘を言うことです。 僧残法は、一応教団には残れますが厳しい罰が課せられます。 そこには女性に触れることなども含まれています。 もともと性に対しては厳しい戒が課せられていたことが分かります。 僧残法ではありませんが、お金を蓄えてはいけないというのもあります。 美食を求めてはいけないというのもあります。 軍隊が合戦するのを見てはいけないというのもあります。 それほどまでに暴力行為を否定するのが仏教教団でありました。 立って小便してはいけないという決まりもあります。 これら二百五十もの戒を受けることが、出家して比丘になることなのでした。 これは、『四分律』という中国で翻訳された律典によっています。 これは小乗部派の一つ、法蔵部の伝持したものです。 中国では道宣律師がこれを重んじました。 道宣律師は終南山(陝西省西安南方)に住し、律学に励んだ方です。 そしてかの鑑真和上は、その孫弟子にあたります。 鑑真和上が、この『四分律』に基づいて、日本において具足戒を授けたのでした。 そのご功績は実に大きなものです。 しかし、『四分律』は部派仏教のものでした。 大乗仏教が興ると、大乗の利他の精神に基づいて大乗戒が説かれるようになってきたのでした。 最初は十善戒が主張されました。 のちに『瑜伽師地論』において、<三聚浄戒>が説かれるようになりました。 三聚浄戒は、止悪とともに作善と衆生利益とを誓う戒です。 悪いことをしないように、良い行いをして、人々のために尽くそうと誓う戒なのです。 中国・日本では梵網経に説く梵網の<十重四十八軽戒>が重視されるようになりました。 はじめの頃には、律蔵の律と梵網経の戒とが併修されていましたが、伝教大師最澄は律を捨てて<梵網戒>のみを大乗仏教の修行規範とすべきことを主張するようになりました。 それまでの東大寺など三戒壇に於いての受戒だけでは、伝教大師にとって弟子の育成は困難だったのでした。 その受戒制度では一年にわずかしか朝廷より認可されなかったようです。 そのように国が管理していたものでした。 そこで伝教大師は、大乗戒の独立をお考えになったのでした。 今まで東大寺などで授ける具足戒を大乗戒に変更することを主張したものでした。 これが認められて、比叡山に新たに大乗戒の受戒が行われるようになったのです。 ただいま私ども円覚寺でも布薩のおりには大乗戒である三聚浄戒と、十善戒、十重禁戒を唱えているのは、こんな経緯がもとになっているものです。 三聚浄戒と十善戒、十重禁戒をこちらに紹介しておきましょう。 円覚寺の布薩で唱えているものです。 三聚淨戒 第一摂律儀戒 み教えにしたがい 過ちのない行いに 生き 第二摂善法戒 み教えにしたがい 善き行いにつとめ 第三摂衆生戒 みほとけの作すが如く、いのちと人の世に誠を尽さん 十善戒 第一不殺生 すべてのものを慈しみ、はぐくみ育て 第二不偸盗 人のものを奪わず、壊さず 第三不邪婬 すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことなく 第四不妄語 偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることなく 第五不綺語 誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさず 第六不悪口 人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことなく 第七不両舌 筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さず 第八不慳貪 仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらず 第九不瞋恚 不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにせず 第十不邪見 すべては変化する理を知り心を正しく調えん 十重禁戒(じゅうじゅうきんかい) 第一不殺生 命あるものをむやみに殺さない 第二不偸盗 人のものを盗み取ることをしない 第三不淫欲 道に逆らった愛欲を犯さない 第四不妄語 嘘偽りを口にしない 第五不沽酒 酒に溺れて生業(なりわい)を怠ることをしない 第六不説四衆過罪 他人の過ちを責めない 第七不自讃毀他 自分を誇り他人を傷つけることをしない 第八不慳貪 物でも心でも人に施すことを惜しまない 第九不瞋恚 怒りに燃えて自分を失わない 第十不謗三寶 仏法僧の三寶をそしらない このような戒を今唱えているのは、長い仏教の歴史の変遷を経てのことなのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1269回「仏教伝来」

仏教伝来はいつなのか、西暦五三八年のことだと言われています。 岩波書店の『仏教辞典』にも 「私的には、すでに帰化人が仏法を信奉していたと思われるが、公的には、538年、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)(聖王)が使者を通して仏像や経典を送ってきたことが、日本への仏教伝来(公伝)とされる。」 と書かれています。 「聖明王」については、 「?ー554 正しくは<聖王>。百済(くだら)と日本との関係は、他の朝鮮諸国と違い、一貫して良好であった。 6世紀の初め頃、百済に武寧王(ぶねいおう)が立ち、高句麗(こうくり)に攻められ漢城を捨てて公州に移ったが、やがて百済を立て直し、倭と修好した。 武寧王の子聖明王は父王が523年に没した後、百済王となり父王の志をつぎ日本と修好し、仏像・経論を大和(やまと)の朝廷に献じた。 これが我が国への<仏教公伝>で、その年は五三八年であるが、五五二年(欽明13)とする説もある。」 とも書かれています。 西暦五三八年というと、中国においては梁の武帝が盂蘭盆会を行った年でもあります。 武帝は、南朝梁(りょう)の初代皇帝であります。 在位は五〇二年から五四九年まで、蕭衍という名です。 南朝文化黄金時代を現出させ、南朝の仏教も頂点に達した時の方です。 武帝は、仏教を篤く信奉し、帝位についた502年、自宅を光宅寺と改めたほどです。 その寺には法雲(四六七~五二九)という高僧を住まわせています。 武帝は、達磨大師とも問答した事で知られています。 504年には詔を下し、道教を捨てて仏教に帰依しました。 「511年、自ら断酒肉文を撰し、仏教徒としての戒律生活に入り、513年、宗廟の犠牲を廃し、517年、天下の道観(どうかん)(道教寺院)を廃して道士を還俗(げんぞく)させた。519年、禁中に戒壇を築き菩薩戒(ぼさつかい)を受けた」と『仏教辞典』には書かれいてます。 達磨大師と問答されたことは禅門でも知られています。 百済の聖明王は、梁の武帝からも支援を受けていました。 また五三八年というと、天台大師智顗の生まれた年でもあります。 もちろん、まだ玄奘三蔵は生まれてはいません。 鳩摩羅什はいましたので、鳩摩羅什訳の『法華経』などを読むことはできた時代です。 そんな頃『仏教辞典』によれば、 「氏族分立の時代で、伝来にさいして崇仏・排仏の論争がおきたというが、実際は国際派の蘇我(そが)氏と国内派の物部(もののべ)氏の権力争いに仏教が巻きこまれたものであり、信仰的には、蘇我氏が自己の氏神として仏を取りいれ、物部氏は国神(くにつかみ)を立てたということである。 仏が<蕃神(となりぐにのかみ)>とか<客神(まろうどがみ)>などと表現されたように、当時は、まだ仏と神との違いは知られていない。」 と書かれています。 歴史で学ぶことですが、蘇我氏と物部氏の争いがあって蘇我氏が勝ったのでした。 飛鳥時代になると、天皇を中心とした国家体制が整って、「寺院の建立、経典の読誦・講説、諸種の法要、仏像の製作など」がなされて、それは「多くは鎮護国家・除災招福を目的としたものである」と書かれています。 また『仏教辞典』には、 「奈良時代になると、仏教の浸透が進み、南都六宗のように、学僧によるめざましい研究成果も現れ、日本文化の形成に仏教が大きな影響を与えた。 他方、仏教の日本化も見のがされてはならない。 現実超越を基調とする仏教は、しばしば日本的変容を受けて現実肯定的になっていった。神仏習合や文芸に摂取された仏教に、それが見られる。」 とも書かれています。 仏教が日本に伝わって定着するには、仏法僧の三宝がそろうことが必須でした。 仏様とその教えと、その教えを信奉する教団の三つであります。 仏様とその教えとは、仏像と経典をいただければそれで、十分であります。 問題は教団であるサンガです。 サンガを輸入するのは容易ではありません。 サンガとは僧侶たちが作る組織です。 最低でも四人がいないとサンガにはなりません。 しかも、出家して僧侶となるためには、 十人以上の僧侶の許可が必要とされているのです。 十人の僧侶を船で大陸から連れてこないといけないのでした。 今と違って船で大陸から渡ってくるのは容易ではありませんでした。 当時日本の僧が中国に行っても正式に受戒をしていないので、沙弥としてしか扱われなかったようです。 なんとか日本でも受戒できるようにと七三三年(天平五)に栄叡と普照らが中国から戒師を招請するために派遣されました。 栄叡・普照らは、七四二年(天平14)揚州大明寺の鑑真和上を訪れ、来日を要請しました。 鑑真和上は六八八年のお生れですので、この時で五四歳でした。 当時海を越えて日本に来るというのはたいへんなことでした。 五度の渡日を企てましたが、妨害や難破により五度とも失敗しました。 鑑真和上自身も失明しました。 そうした失敗を乗り越え、七五三年(天平勝宝5)十二月に渡日に成功しました。 鑑真和上も六五歳になっていました。 七五四年(天平勝宝6)には奈良に入り、四月には東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇を築いて聖武上皇・光明太后らに菩薩戒を授けました。 さらに、80余人の僧に具足戒を授けました。 ここに、戒壇で三師七証方式により『四分律』の二五〇戒を授ける国家的授戒制が始まったのでした。 こうしてようやく日本も正式に仏教国となることができたのでした。 五三八年に仏像などが伝わってから七五四年まで、実に二一六年の歳月がかかったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1268回「四苦八苦」

四苦八苦という言葉があります。 日常でも使われる言葉で『広辞苑』にも 「①〔仏〕生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの。人生の苦の総称。 ②転じて、非常な苦しみ。また、さんざん苦労すること。」と解説されていて、「弁解に四苦八苦する」という用例もあります。 岩波書店の『仏教辞典』でもう少し詳しく調べてみます。 「四苦八苦」とは、 「苦しみを四つあるいは八つに分類したものの併称で、原始経典以来説かれる。 <四苦>とは、生(生れること)・老・病・死で、これに怨憎会苦(憎い者と会う苦)、 愛別離苦(愛する者と別れる苦)、求不得苦(不老や不死を求めても得られない苦、 あるいは物質的な欲望が満たされない苦)、五取蘊苦(五盛陰(ごじょうおん)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦とも。 現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は苦であるということ)を加えて<八苦>となる。 後世になると四苦八苦は、人間界のすべての苦ということから、この上ない苦しみ、言語に絶する苦を意味するようにもなった。」 と解説されています。 お釈迦様の教えでも大切にされている四聖諦では、一番目に苦聖諦があります。 この苦を理解するのは、仏教を学ぶにはとても重要なことであります。 修行僧達にも、自分の人生は苦であると思うかと尋ねると、苦と答える者もいれば、そうでもないと答える者もいます。 たしかにこの春に道場に入った者にしてみれば、不自由な暮らしですので、身体的に苦であると感じることが多いでしょう。 今までのイスの暮らしから、畳の上で暮らすことになるだけでも身体的な苦があります。 更に自分の好きなようにできないというストレスがあります。 精神的な苦もあることでしょう。 しかし、仏教で説く苦というのはそういうものではないのです。 その点について、ワールポラ・ラーフラ氏の著書である『ブッダが説いたこと』(今枝由郎訳)を参照してみましょう。 「第一聖諦 ドゥッカの本質」として次のように書かれています。 「パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみ、あるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。 しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。 確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。 それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。 そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。」 と説かれています。 ここで「苦」には「不完全さ、無常、空しさ、実質のなさ」という意味があるとされています。 更に「<ブッダが、「人生には苦しみがある」と言うとき、彼はけっして人生における幸せを否定しているわけではない。 逆にブッダは、俗人にとっても僧侶にとってもさまざまな精神的、物質的幸せがあることを認めている。 ブッダの教説をまとめたパーリ語の五部経典の一つである増支部経典の中には、家族生活の幸せや隠遁生活の幸せ、 感覚的喜びによる幸せやその放棄による幸せ、執着による幸せや無執着による幸せといった、 さまざまな肉体的、精神的幸せが列挙されている。 しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる。 さらには、高度な瞑想によって得られる、普通の意味での苦しみの片鱗すらない、非常に純粋な精神的次元も、またまぎれもない幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、純粋に沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。 同じく五部経典の一つである中部経典の一つのスッタ〔経]では、瞑想の精神的幸せを賞賛したあと、ブッダは、「それらは無常で、ドゥッカで、移ろうものである」と述べている。 ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることである。 普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのである。」 ということなのです。 岩波書店の『仏教辞典』にも 「肉体的精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないから苦であるとされ、これを苦苦・壊苦(えく)・行苦(ぎょうく)の<三苦>という。」 と解説されています。 苦苦、壊苦、行苦については『ブッダが説いたこと』を参照してみます。 「ドゥッカの概念は、 ①普通の意味での苦しみ ②ものごとの移ろいによる苦しみ ③条件付けられた生起としての苦しみ の三面から考察することができる。 老い、病い、死、嫌な人やものごととの出会い、愛しい人や楽しいこととの別れ、欲しい物が入手できないこと、悲痛、悲嘆、心痛といった、人生におけるあらゆる種類の苦しみは、普通の意味での苦しみである。 人生における幸福感、幸せな境遇は、永遠ではなく、永続しない。 それらは、遅かれ早かれ移ろう。そしてものごとが移ろうときに、痛み、苦しみ、不幸が生じる。 この浮き沈みは、移ろいによって生じる苦しみとしてドゥッカに含まれる。 以上の二種類の苦しみは容易に理解でき、誰にも異論がないだろう。 第一の真理である「ドゥッカの本質」のこの点は容易に理解できるので、一般によく知られている。 それは、誰しもが日常生活で体験することである。」 「しかし、第三の「条件付けられた生起」としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。 仏教的観点からすれば、私たちが一般に存在、個人あるいは「私」と見なしているものは、たえず移ろい変化する肉体的、精神的エネルギーの結合にしか過ぎず、それらは五集合要素から構成されている。 そしてブッダは、 「これら執着の五集合要素はドゥッカである」 と述べている。 また他の箇所では、「ドゥッカとは五集合要素である」とはっきりと定義している。」 と説かれています。 お互いこれが自分だと思い込んでいますが、その自分という実体のあるものはなく、五つの構成要素が集まって、あるように見えているに過ぎないのです。 ありもしない自分を確かにあるものだと思い込んで、自分中心にものごとを見ているのが苦しみの原因なのです。 五つの構成要素が五蘊であります。 五蘊は色受想行識の五つです。 『仏教辞典』には、 <色>は感覚器官を備えた身体、 <受>は苦・楽・不苦不楽の3種の感覚あるいは感受、 <想>は認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用、 <行>は能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求、 <識>は認識あるいは判断のこと。 人間を<身心>すなわち肉体(色)とそれを依り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、 この五により個人の存在全体を表し尽していると考える。」と解説されています。 この五蘊によって自己中心の世界観を作り出しています。 これがお互い迷い苦しむ原因なのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1266回「唯識を学ぶ」

学生時代には、ほんの少しですが、仏教学を学んでいました。 一応サンスクリット語、パーリ語を習い、更にチベット語も勉強していました。 金剛般若経を研究していて、弥勒作と伝えられる金剛経の頌をサンスクリットとチベット語を参照して論文を書いたことを覚えています。 それだけにインド仏教学というのがいかにたいへんな学問であるかを、身をもって体験していました。 私のような者にはとても無理だと分かって、あきらめたのでした。 そんな仏教学を学んでいて、般若経から中観思想を学んでいると、どうしても中観派と対象的な唯識に関心を持つものです。 そんな興味を持ち始めた私に、とある先輩の方が、唯識に手を出すと卒業できなくなると言われたことを覚えています。 それほどまでに唯識という学問は深淵で難解なのであります。 まだ命のあるうちに、もう一度この唯識を勉強しておきたいという気持ちだけを持ってきました。 書物の上では、いろんな唯識について解説書を読んで来ていました。 この度龍雲寺の細川さんと円融寺の阿純章さんとが主催で、僧侶を対象に唯識の勉強会が始まるとご案内いただいたのでした。 是非ともこの機会に学ぼうと思ったのですが、一回目と二回目には、すでに予定が入っていてお伺いできず、講義の録画を拝見して学ばせてもらったのでした。 第三回目には、ちょうど上京して講演する予定があり、その講演の前に講義に出てからでも間に合うと分かったので、講義を拝聴してきました。 講師は駒澤大学の教授である吉村誠先生であります。 一回目と二回目を動画で拝見していましたが、その資料の作り方から、講義の内容、よくぞあれほどの深い内容を話されたと感服していました。 是非とも一度お目にかかってみたいと思っていましたので、今回その願いが叶ったのでした。 控え室で親しくお話させてもらいました。 仏教学の落伍者である私にとって、仏教学の教授である先生は仰ぎ見る存在なのであります。 どれほどたいへんな道のりであるのか多少分かりますので、尊敬の気持ちは人一倍強いのであります。 有り難いことに気さくにお話させてもらいました。 とりわけ熊野にとても関心をお持ちだと分かって、うれしくなりました。 しばらく熊野談義に花が咲いたのでした。 熊野三山についてとても造詣が深く、何度も訪ねてくださっているというのです。 そうしているうちに講義が始まりました。 今回は、有り難いことに瑜伽行派の修行について講義して下さいました。 瑜伽行派というのが、弥勒が創始し、無着と世親の兄弟が組織体系化したと伝えられ、瑜伽行派の論師たちは、時代とともに唯識論者と呼ばれるのです。 「唯識」は「仏教学説の一つ。一切の認識はただ自己の識(心)によって生み出されたもので、認識の対象となる事物的存在はないと説く。」と『広辞苑』に解説されています。 岩波書店の『仏教辞典』には 「あらゆる存在はただ<識>、すなわち<心>にすぎないとする見解。 般若経の空の思想を受けつぎながら、しかも少なくともまず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方をヨーガの実践を通して変革することによって悟りに到達しようとする教えである。」 と説かれています。 瑜伽行派の瑜伽というのは「ヨーガ」のことです。 「ヨーガ」とは、吉村先生は、「心を落ち着けて真理を観察すること」と分かりやすく説明して下さっていました。 この真理を観察することが修行となります。 もともとブッダも真理を観察するようにと教えてくださっていたのでした。 『ブッダ最後の旅』に、 「修行僧たちよ。 ここで、修行僧は、身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけてこの世における貪欲や憂いを除去していなさい。 感受に関して感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 このようにしてこそ修行僧は正しく念じているのである。」 という言葉があります。 四念処と呼ばれる教えですが、すでに『ブッダ最後の旅』において説かれていることを今回教わりました。 更に部派仏教では、五停心観(ごじょうしんかん)が説かれています。 不浄観、肉体や外界の不浄なありさまを観じ、貪りの心を止めること、慈悲観で一切衆生を観じて慈悲の心を生じ、怒りの心を止めること、因縁観で、諸事象が因縁によって生ずるという道理を観じ、無知の心を止めること、界分別観で五蘊・十八界などを観じ、物に実体があるという見解を止めること、そして数息(すそく)観で呼吸を数えて、乱れた心を止めることであります。 数息観について吉村先生は。言葉によって思考することをやめさせる修行だと教えて下さいました。 言葉を使うことによって自我意識が強くなり、煩悩も強くなります。 禅の公案も言葉によって考えることをやめさせるものでもあります。 それから大乗の瞑想は空観なのだと教わりました。 空、無相、無願という三つを観じるのです。 そうしていよいよ瑜伽行派の修行の内容を教わっていったのでした。 解深密経、瑜伽師地論、唯識三十頌などという難解な経典をもとにして解説してくださいました。 瑜伽師地論では、仏教におけるヨーガを体系化して、大乗のヨーガが説かれています。 大乗のシャマタ、ビパシャナについて解説してくださいました。 法仮安立という言葉にされた仏の教えを拠り所として止観を修めるのです。 止の所縁は無分別影像、観の所縁は有分別影像などと難解な言葉が続きます。 それでも先生の明快な解説を聞きながら、メモをとっていると、なんとなく理解できたような思いになるのでした。 私にも唯識の世界の一端が垣間見られたような感慨に耽っていました。 とりわけ今まで学んだことのなかった、瑜伽行派の修行の内容を学べたので、禅の修行との関連も少し分かったように感じました。 分からなかったことがわかり、知らなかったことを知るというのは、大きな喜びであります。 そんな感動のうちに講義が終わったのでした。 ところが寺に帰って復習しようとして、メモしたノートを見返したのですが、やはりよく理解できていないのでした。 講義があまりに素晴らしく、理解できたような気になっていただけと分かったのでした。 専門家が何年もかけて学ぶのが唯識なのですから、私のような門外漢が少し聞いて分かるはずもありません。 それでも、今回のことをご縁に、これからも根気よく学んでいこうと思ったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1261回「初めて日本に伝わった禅」

『禅学大辞典』で「禅宗」という項目を調べてみると、日本の禅の伝来について次のように書かれています。 「日本における禅の流伝は、伝説によれば、孝徳天皇白雉四年(六五三)に入唐した元興寺道昭が慧可の法孫慧満から禅法を伝え、元興寺東南隅に禅院を建てたのを初伝とし、次いで天平八年(七三六)普寂の門人道璿が来朝して北宗禅を伝え、延暦二一年(八〇二)最澄が入唐して傭然から牛頭禅を受け、嵯峨天皇の橘(檀林)皇后の招請で、馬祖下、斉安の法嗣、義空が来朝して南宗禅を伝えた。 また承安元年(一一七一)叡山の覚阿が入宋して、瞎堂慧遠から心印を受けたと伝えられる。 以上の五伝はその法系が栄えなかった。 次いで三宝寺の大日能忍は、自ら修した禅法の得悟を、入宋させた練中・勝辨の二弟子に託して、育王山の拙庵徳光に呈示させ、その印可証明を受けた。 彼等の帰朝後、能忍は日本達磨宗の旗織(きし)を掲げ、盛んに禅を鼓吹した。 道元禅師の弟子となった懐弊・義介・義演等は、初め達磨宗の禅風を受けていた。 本格的な禅が日本に伝えられたのは、文治三年(一一八七)に入宋して虚庵懐敞から黄竜一派を伝えた明庵栄西に始まる。」 と書かれていますように、初めて禅を伝えたとされる方が道昭であります。 道昭について『仏教辞典』には 629(舒明1)ー700(文武4) 「法相宗の僧。 河内国(大阪府)丹比郡船連(ふねのむらじ)の出身。 653年(白雉4)入唐、玄奘三蔵に師事して法相教学を学び(一説には摂論教学)、660年(斉明6)頃帰朝、法興寺(飛鳥寺(あすかでら)・元興寺(がんごうじ))の一隅に禅院を建てて住し、日本法相教学初伝(南寺伝)となった。」 と書かれていて、禅を伝えたことに言及されていません。 またこの道昭は日本で初めて火葬にされた僧でもあります。 道璿については『仏教辞典』には、 「702(中国長安2)ー760(天平宝字4) 一説に757年没。 中国、許州(河南省)衛氏の出身。 定賓(じょうひん)から戒律、普寂から北宗禅を受学。 戒師招請のため入唐していた普照、栄叡の要請に応じて736年(天平8)来朝。 伝戒師として大安寺西唐院に住し、東大寺大仏開眼会には呪願師(じゅがんし)を勤めた。 晩年病を得て吉野の比蘇寺(ひそでら)に退き没。 没時には律師。道は華厳・天台にも通じ、これらの教学は弟子行表(ぎょうひょう)(724ー797)を通じて最澄に影響を与えた。」 と記されています。 普寂という方は五祖弘忍の法を嗣いだ神秀のお弟子であります。 最澄については、『興禅護国論』の中に次の記述があります。 『日本禅語録1 栄西』から古田紹欽先生の現代語訳を参照します。 「伝教大師の譜の文に次のようにいっている。「謹んで自分が受けた得度の公の許状を見るに、そこに師主は奈良の左京の大安寺伝燈法師位行表である、引文。 その行表の祖の道璿和上が、大唐国より持って来て写し伝えた達磨大師の教えを説いたものが、比叡山の宝蔵にある。 延暦の歳の末に自分は大唐国に到り、師について教えを受け、さらに達磨大師の禅の教えを師から付授された。 それは大唐国の貞元二十年十月十三日のことであり、天台山禅林寺(今の大慈寺)の翛然からである。 翛然はインドから大唐国にいたる代々の祖師に伝わった法脈を受け継ぎ、また達磨大師の禅の教え、すなわち牛頭禅の法門を授かって伝えていたのであるが、その翛然から禅法をちょうだいして帰国したのであり、それは比叡山に安置し行なっているところである」と。」 と書かれています。 翛然という方については、諸説ありますが、牛頭禅の系統だと書かれています。 牛頭禅とは、牛頭法融(ごずほうゆう)(594ー657)を祖とする中国禅宗であります。 牛頭の名称は、法融所住の弘覚寺が江蘇省牛頭山に存したことに由来します。 それから、檀林皇后によってまねかれた義空という僧もいました。 義空は、馬祖の弟子である塩官斉安禅師のお弟子であります。 馬祖系の禅を伝えています。 義空は檀林寺の開山となったと『禅学大辞典』には書かれていますが、数年で中国に帰ってしまいました。 檀林皇后は、義空に参じて、 「唐土の 山のあなたに 立つ雲は ここに焚く火の 煙なりけり」という和歌を残されています。 それから先日紹介した覚阿という僧がいて禅を伝え、更に大日房能忍がいたのでした。 結局『禅学大辞典』にある通り、 「本格的な禅が日本に伝えられたのは、文治三年(一一八七)に入宋して虚庵懐敞から黄竜一派を伝えた明庵栄西に始まる。」ということになるのです。 『興禅護国論』に「鏡に垢あれば色像現ぜず、垢除けばすなわち現ずるがごとく、衆生もまたしかり。心未だ垢を離れざれば法身現ぜす、垢離るればすなわち現ず。(『興禅護国論』第七)」という言葉があります。 『日本の禅語録1 栄西』には、 「もし鏡に汚れが付いていれば映像は現れませんが、その汚れを取り除けば現れます。私たち衆生も同様です。 衆生の心に垢という煩悩がまとわりついていては、仏の本身は現れませんが、その垢を取り除けば、 はっきりと現れます。」と訳されています。 この教えなどは、即心是仏を標榜しながらも北宗の禅であります。 やはり戒や禅定など実際の修行を重んじられたからこそ、日本において禅が受け容れられていったのではないかと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1258回「まるごとが仏」

先日は花園大学での講義の為に上洛してきました。 講義の前日に、妙心寺の新管長にご就任なされた霧隠軒山川宗玄老師にお目にかかりました。 花園大学の母体は妙心寺でありますので、大学の総長として新しい妙心寺の管長さまに表敬訪問し、ご挨拶申し上げたのでした。 そのあと禅文化研究所でYouTubeの撮影を行っていました。 更にその晩には花園禅塾に行って、禅塾の塾生達に坐禅をするための体操をあれこれと教えてきました。 長年どうしたら坐禅がよりよく坐れるか、慣れない人には、どうしたら苦痛無く坐れるか、あれこれと研究し工夫してきましたので、お若い方にもお伝えしようという思いであります。 一時間ほどの講習ですが、はじめにはやはり足を念入りに調えるように時間をとりました。 やはり、いろいろ学んできて分かったのは足が大事だということです。 足の指も大事ですし、足の裏も重要ですし、足首も柔らかくしておかないといけません。 テニスボールを学生さんたちの分を持っていって、はじめにはテニスボールを踏むということを行いました。 まず拇指球でテニスボールを踏むようにするのです。 右足から行いました。 右の膝を少し曲げて、足でテニスボールを踏むぞという意志を持って踏みつけるのです。 テニスボールは弾力性がありますので、かなり強く踏みしめても大丈夫です。 それから次に小指球でテニスボールを踏みしめます。 拇指球、小指球というのは、それぞれ親指、小指の付け根でありますが、付け根といっても土踏まずの上の方あたりであります。 それから拇指球と小指球の間を踏みしめます。 そうして土踏まず全体をテニスボールをころころ転がすようにして刺激を与えます。 そして踵と土踏まずの境目あたりを踏みしめるようにします。 このところはとても気持ちの良いものです。 そしてここに重心を置くようにして立つとまっすぐ立てるようになります。 そうしてしっかり足で踏むという感覚を身に付けてもらってから、坐って足首を回します。 足と手で握手するように足の指の間に手の指を入れて、大きく回してゆきます。 反対回しもします。 それから足の指を一本一本回してゆきます。 反対回しもします。 そうしますと足の指の感覚がしっかりしてきます。 両手の親指で足の裏を押して刺激します。 指の間、指の付け根、土踏まずから踵まで押して刺激します。 そして、最後には拳を作って足の裏をトントン叩いて刺激します。 そこで立ち上がってもらうと、右の足は、しっかり大地を踏みしめて立つという感じがするものです。 足の裏から根が生えたようにどっしりとして安定します。 まだ何もワークをしていない左足はただ床の上に乗っかっているだけの感じです。 左右の違いを感じてもらいます。 また足の色も変わるのです。 右の足の方が血行がよくなっているのが分かります。 そこで、今度は左の足も同じようにテニスボールを踏むところから始めます。 ひととおり行ってもう一度立ち上がってもらうと、今度は両足がしっかり地面を踏んでいる感じがするのです。 そこで更にまず右足で足の裏にテニスボールが無いけれどもあるように思って、踏み潰すつもりでしっかり床を押すようにしてもらいます。 更に左足も足の裏にテニスボールが無いけれどもあるように思って、踏み潰すように力を入れてゆきます。 そうしますと両足で床を押して立つことができるようになります。 その時足で床を押す力が、そのまま床から腰を立てる力となってはたらくのです。 腰を無理に入れようとするとどうしても腰が張ったりしてしまいます。 足で地面を押す力で、腰を立ち上げるようにすると、最も無理なく自然に立ち上がるのです。 頭までスッとまっすぐに立っている感じがつかめるのです。 これが腰を立てる要領となります。 それから股関節をほぐしてゆく運動をあれこれと行ってから皆で最後少し坐ってみました。 坐りやすくなったとか、落ち着いた感じがするという声をいただきました。 いつも坐禅の前に行っておいて欲しい運動もお伝えしておきました。 幸い今の禅塾の塾頭さんは親切にご指導してくださっているので、真向法を教えたり、いつも坐禅の前に体操の時間をとってくださっているようです。 やはりこうして体をほぐしてから坐ることが大事だと感じています。 股関節を柔らかくしてから足を組まないと、膝や足首を無理にひねって壊してしまうことがあるのです。 その次の日が大学の講義でありました。 禅とこころ、今回は禅僧の逸話に学ぶというシリーズです。 第二回目は唐代の禅僧の逸話を紹介しました。 単に逸話を紹介するのではなく、そこから禅の思想が学べるように工夫しています。 唐代の禅僧でも馬祖禅師、百丈禅師、黄檗禅師、臨済禅師の四名を中心に学びました。 そして番外に懶瓚和尚、布袋和尚、蜆子和尚を紹介しました。 馬祖禅師の教えの中核はなんといっても即心是仏です。 「馬祖は示衆して言った「諸君、それぞれ自らの心が仏であり、この心そのままが仏であることを信じなさい。達磨大師は南天竺国からこの中国にやって来て、上乗一心の法を伝えて諸君を悟らせた。」 ということに他なりません。 それから黄檗禅師の 「祖師ダルマは西方から来られて、一切の人間はそのままそっくり仏であると直示なされた。 そのことをいま君は知らずに、凡心に拘われ聖心にかかずらって、おのれの外を駆けずり廻り、あいも変らず心を見失っている。 だからこそ、そういう君に対して、〈心そのものが仏だ〉と説かれたわけだ。ちらりとでも妄心が起これば、たちまち地獄に落ちることになる。」 という『伝心法要』の言葉も紹介しました。 原文には「一切の人は全体是れ仏なり」とあります。 心だけとり出すわけにはゆきません。 この体も含めて全体まるごとが仏だと示されているのです。 そのことを実感するためにもこの体をしっかりと自覚して、この体まるごとが仏だと体感することが大事であります。 禅塾での体操も単に坐禅の為というよりも、足で地面を踏んで立っている、この体まるごと仏である自覚になって欲しいという願いを持っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1254回「坐禅と戒の本質」

戒定慧の三学が仏道修行の根本であります。 戒によってまず五戒などの戒や生活規律を身につけます。 それによって禅定・三昧の境地を深めます。 ついで、真理の観察を通して智慧を体得するというのが修行なのであります。 禅宗の修行は、この禅定を修めることが中心となりますが、その土台はやはり戒なのであります。 先日夏期講座では、午後からイス坐禅の時間を設けてもらいました。 このところ、イス坐禅を体験したいという方が増えているからであります。 有り難いことに都内のイス坐禅の会は、すぐに満席となってしまうようなのです。 都内のイス坐禅は、三十名と限定していますが、夏期講座のあとのイス坐禅は百名を越える大勢となりました。 これほど大勢の方にイス坐禅を伝えるのは初めてでありました。 イス坐禅については、昨年から研究し試行錯誤を繰り返して、次の四つに集約しています。 一、首と肩の調整 二、足の裏、足で踏む感覚 三、呼吸筋を調整 四、腰を立てる の四つなのであります。 一の首と肩の調整というのは、今の人は私も含めてデスクワークが多く、またスマートフォンなどを見る時間も多いので、どうしても首が前に出てしまい、肩も巻き肩になりやすい傾向があります。 そこで首や肩をほぐして、ただしい位置にすえるのです。 首の位置一つで、坐禅は全然変わってきます。 それから腰を立てるには、なんといっても足で地面を踏みしめて押す力が大事であります。 足から立ち上がるようにしないで、無理に腰を入れようとすると、腰に負担がかかってしまったりします。 足で地面を踏んでいる感覚をつかんでもらうようにしています。 呼吸筋については、単に呼吸を見つめましょうと言ってもなかなか実感しにくいものです。 そこで肺を上下、左右、前後に広げるように意識する運動を取り入れています。 そして最後に腰を立てるのです。 特に首肩をほぐすにはある程度の時間が必要であります。 タオルなども使いながら、肩周りをほぐしてゆきます。 足の裏は、テニスボールやゴルフボールを使って、足で押すようにして刺激を与えます。 足の裏の感覚を取り戻してもらうだけでも体は大きく変化します。 そんな講座を行っていました。 百名もいらっしゃると、後の方に伝わるのかとハラハラしながら行いました。 私からよく見えるところで、その日の講師であった小川隆先生が、受講してくださっていました。 まことに恐縮したものであります。 ひととおりのワークを行って腰を立てて坐りました。 ふと小川先生のお坐りになっている姿勢が目に入りました。 それが実に堂々たる坐り方でありました。 私は内心やはりさすがだなと思っていました。 いつも小川先生は、ご自分ことを「禅の修行もしたこともない」とご謙遜なされますが、高校時代には岡山の曹源寺の坐禅会に通われていたのです。 腰がスッと立っていて素晴らしい坐相だと拝見していました。 夏期講座のあとにも小川先生からは、「全身に血が流れはじめているような感じがし、手足が温かく、足の裏がしっかり大地を捉えているような感じ」がされたという感想をいただきました。 有り難くうれしく思ったのでした。 そしてイス坐禅は、大勢の方で行ってもできると分かりました。 更にそのあと、三日経った頃に、小川先生からは、「特に左右の足の裏の存在を思い出したというのが最もはっきりした実感で、歩いている時も足の裏が床を踏みしめているのを感じますし、特に机に向かっている時に、左右の足の裏と尾骨の三角形で上体を支えているような安定感を覚え、頭が軽くなったような感じがしております。」 というお言葉をいただきました。 左右の足の裏と尾骨で上体を支えるというのはイスに坐った時の良い姿勢であります。 大事な要点をつかんでくださってうれしくなりました。 そして更に小川先生からは、 「講習の後、ふと思い出したのですが、たしか『夢十夜』に、木を彫って仏像の形にするのでなく、木の中にもともと埋まっている仏の形を掘り出すのだという話があったかと思います。 私は坐禅というものを、歪んだ体を矯めて正しい型のなかに力ずくで押し込む行のようにイメージしていたのですが、先日の講習の際は、ご指示に従って体をほぐし呼吸を整えていくうちに、もともと体の中に埋もれていた坐禅の形が自然に表に出てきたような感じがいたしました。」 というお言葉をいただきました。 「体をほぐし呼吸を整えていくうちに、もともと体の中に埋もれていた坐禅の形が自然に表に出てきた」とは見事な表現であります。 これこそが、私が目指しているイス坐禅の本質なのだと思いました。 私などもそんな感じがするのですが、このように明確に言葉に表すことができないのです。 多くは無理矢理型にはめ込んで辛抱している坐禅になっているのではないかと反省します。 唐代の禅僧たちは、一問一答によって、坐禅の本質に目覚めたのだと思います。 更に驚いたのは、小川先生は、 「石頭禅師の説く「自性清浄、之を戒体と謂う」という言葉や、薬山禅師の「大丈夫、当に法を離れて自ら淨かるべし」という語が腑に落ちた気がした」というのです。 坐禅の本質から更に戒の本質まで感じ取ってくださったのでした。 「有相の戒を否定するけれども、決して捨戒や破戒には進まず、外からの規制によらない自身を根拠とした清浄を説く、という論理」が、先日のイス坐禅の体験と、6月4日に公開した管長日記の内容が結びついて、石頭禅師や薬山禅師の言葉の裏にある実感に少し触れられたというのであります。 薬山禅師については、小川先生の『禅僧たちの生涯』には次の言葉が引かれています。 現代語訳を引用します。 「大の男たるもの、法に頼らず、己れ自身で清浄でおられねばならぬ。どうして、衣の上でコセコセと、細かな作法に憂き身をやつしておれようか!」 かくて、ただちに石頭大師に参じ、綿密に奥深い真実を悟ったのであった。」 「大の男たるもの、法に頼らず、己れ自身で清浄でおられねばならぬ。」というところの原文が、「大丈夫、当に法を離れて自ら浄かるべし」という言葉です。 「外在的な法の助けなど借りずに自分自身を拠りどころとして清浄でいられなければならぬ。どうして法衣の上でのコセコセとした細かな作法を、己が務めとしておられようか」というのであります。 小川先生は、イスの坐禅によって坐禅の本質を体験され、『禅僧たちの生涯』に書かれている、「『戒体』は外から授かるものではなく、清浄なる自己の本性・仏性こそがもともと我が身に具わっている真の『戒体』にほかならない」ことを実感されたのでした。 イス坐禅の功徳は大きいものです。 白隠禅師も説かれていますが、一坐の功は大きいと改めて思いました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺