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サークルの在り方~令和版早稲田宝生会での学生稽古の意義~

「師匠から稽古を受ける」
これほど日本国民の特徴を詰め込んだ一文があるでしょうか。

礼に始まり礼に終わる師匠との稽古の時間。

濃密な緊張感のなか、震える手で扇を取り、呼吸を整えて舞台に声を放つ。
頭の中まで見透かされるような師匠の視線を肌で感じながら手足を懸命に動かし声を出すも、中々思い通りとはなりません。
そんな自分に苛立ちが込み上げてきた時ふと感じる、師匠からの厳しい視線。
「やべ、集中しなきゃ。」と思いつつも、バイトや課題といった雑念が、絶えず頭の中に浮かんでくる...
雑念に支配されかけた時、「いかんいかん集中しろ、自分!」と自分への叱咤が始まる...
そして稽古に集中するも...というのが未熟な私の稽古中の脳内です(恥ずかしながら...🫣)。

外面は動きが少なく地味な動きだが、内面では心身共に大汗💦
ひと通り舞い終わると、有難くもちょっと恐ろしい御指導の時間(体罰とか怒鳴ったりとかは絶対ありません。)

そして、御指導内容を身体に染み込ませるべく、再び稽古。
ひたすらこれの繰り返し🔁

理詰めで自分を納得させてから何かに取り組む、というある種合理的な手法ではなく、

まずは身体を使って実践!
そのなかで、自分で主体的に頭も使い学びを深めていくというのが能楽に於ける稽古の在り方。

経営の神様、松下幸之助は、身体を使ってまずは一生懸命に仕事に取り組む。頭はそのなかで使っていくことが大切であると説いたそうです。
彼が丁稚奉公を始めたのは九歳の時。
実践に対する恐れや恥じらいを取っ払い、主体的な人材を育成する原点には、幼少期の積極的な身体実践が必要と痛感した次第...

能楽の稽古では、師匠は理屈で能楽のイロハを説明することは殆どありません。
人生最初の稽古で学ぶことは、稽古前後の礼儀作法。
「飯炊き三年握り八年」と申しますが、稽古に於いて大切なのは、厨房の衛生環境を整えること。

礼儀作法を怠らないことは、稽古を始める前に、
稽古に向けて互いの心身を調える作用もある、様々な世界に於いて欠かせないものです。

礼儀を学び、いざ稽古!
師匠の第一声は、「ありったけ大きな声を出して私の謡を鸚鵡返しにうたって下さい。」でした。

と言われましても、思い切りの良さは日本人の敵...
中々出せないなと恥じらい出し渋っていると、「もっと大きな声で!」と師匠からの注意が飛びます。
意を決して、
「月宮殿の 白衣の袂」
それはそれは大きな声でうたいましたが、師匠はもっと大きく!としか言いません。

大きい声を出せども出せども、師匠の謡には敵いません。
「先生の謡ってすごいな〜、どうやってうたえばあんな声が出るんだろう?」
稽古を続けるなかで、ふつふつと疑問が浮かんできました。
そこで、ある日の稽古の際、
「先生って、なんでそんな凄い謡がうたえるんですか?何でそんな声が出るんですか?」
と質問しました。

すると先生は少し笑顔で、
「いっぱい稽古を積んできたからだと思うよ。自分でも分からないね。」と答えて下さいました。

先生も自分のように一生懸命ひたすら大きい声を出して稽古していたんだな...と幼心に感じました。

先生のような凄い謡をうたってみたい!
そう思い立った私は、先生の謡を今まで以上に集中して拝聴するようになりました。
「聴く」というより、全身で浴びる、感じると言った方が適切かもしれません。

師匠の背中を見て学ぶ、頭で考えるのではなく師匠のやる事をひたすら真似することが大切。

これを続けることで能楽の藝が、時代を超えて受け継がれてきて、
今自分の身体にも観阿弥・世阿弥からのバトンがあるんだ!

と、歴史のロマンに浸り感動しました。


日の丸のバトンを託された者の末輩として、ここからはこの投稿の本筋、能楽サークルでの人材育成について語らせて頂きます。(やっとかよ)

私は、早稲田宝生会の幹事長を務めるなかで、
「居心地の良いコミュニティとして永続して欲しい」という思いがあります。
居心地の良さ、とは、
単なる馴れ合いや遊びの中で生まれるものではなく、親しき仲の礼儀を弁えた上で苦楽を共にすることで生じる絆がもたらすものであると感じています。

能楽は、私達素人にとっては「個人の習い事」ですが、サークルは個人の習い事とは似て非ざるものです。
サークルは、個人だけで成り立つものではなく、「Circle」、つまり部員や師匠など他者との縁が結ばれて初めて存在する組織です。

部員同士で稽古の成果を確認し合ったり、稽古後にご飯に行ったり、厳しい稽古を受けたりするなかで絆が生まれます。

個人稽古を受けるだけでは得られない、かけがえのない絆が早稲田宝生会の魅力です。

早稲田宝生会では、毎週水曜日に学生稽古を実施しています。
暇な人が15時頃から自然発生的に能舞台を開放して、のんびりと足袋を履きます。
中には、日々の疲れで寝てしまう部員も。
そういう時は、「お疲れ様。」と皆一声かけて、あとはそっとしておきます。

熟睡中の部員
本来は、馬鹿野郎!と言われてもおかしくないと思いますが、彼等は能楽の、例の幽玄な世界に浸ったが故に眠ったのです。
能を見て欠伸をした事のあるそこの貴方なら分かるでしょう?


16:30頃になると人数は5、6人ほどに。
今日は俺がうたう、私もうたうという風に地謡がゾロゾロと集まり、「宜しくお願いします。」の礼をほどこし稽古開始🪭
稽古もまた自然発生的です。
一人黙々と舞う者も居れば、先輩!うたって下さいと先輩に自分の舞を見てもらう部員も居ます。
撮影係をする部員も居たり、変な角度から見学する部員も。
B107能舞台には、大きな鏡があります。それを見ながら稽古できるのも早稲田の特権です。


カメラの前且つ部員達の爛々とした眼差しを一身に浴びて稽古するのは、師範稽古に勝るとも劣らぬ緊張感があります。
舞台の上は凄まじい緊張感、見学側は和やかな中にも真剣さのある雰囲気。
見学しながら、扇の使い方やハコビについて稽古の邪魔にならぬよう小声で議論を始める部員も居ます。
こうした伸び伸びした環境が一人一人の、「主体的な稽古」の姿勢を生み出します。

師範稽古のみの場合、稽古を受けて家で自主稽古をするという流れが一般的でしょう。
教育に於いて大切なのは、
インプット→アウトプットの循環です。
師範稽古のみの場合に於いても、舞台で発表という形でのアウトプットも可能でしょう。
しかし、日本史共通テスト満点を獲得した暗記の鬼である私から言わせて頂きますと(唐突な自慢)、アウトプットに於いて有効なのは、

他者と学びを確認して、互いに教え合うこと
です。
あれはこうだ、これはこうじゃないの?と互いに意見を交わすことは、社会に於いても建設的な議論のために大切だと考えています。

師匠の型について、他の能楽師の舞台について、自分たちの舞台について、情熱を持って語り合える空間を作れるのは我々学生の特権でしょう。

こういった貴重な空間を守るために私は活動しています。

外部からは、上級生が師匠気取りに稽古をつけるなんて生意気だという声もちらほらと聞こえています。
確かに、学生稽古では先輩が後輩の面倒を見ているというのは間違いではありませんし、SNSを通して活動を見ていると、そのように見えるのは仕方のないことです。

私が教えていることが一点あるとすれば、「柔軟な思考を身につける大切さ」です。
それを能楽の稽古を通して教えている自覚はあります。
師範稽古では、師匠の藝を鸚鵡返しに真似して鍛錬を重ねることができますが、師匠の藝に縛られるがあまり、藝に対する思考が受動的・閉鎖的になってしまうこともあります。

能楽の型、例えば「ヒラキ」には、それ一つだけで様々な意味や解釈があります。
想像力を働かせて自分で何かを創造することの楽しさ・難しさを多角的に学んで欲しいという思いを込めて後輩の面倒を見ています。

そのため、「こうしなさい。これを真似しろ。」
と、自分の型を絶対的なものとして教えることはありません。
自分はあくまで素人であり、後輩に指導出来るほどの技量は持ち合わせていません。
それは能楽師の役割であり、藝で学生を引っ張るのはプロの仕事だと考えています。

そうではなく、
「自分はこういうものをイメージしてこういう解釈でやってるんだよ。
こういうやり方もあるから気に入ったら使ってみてね。ただし、師匠に言われたことは絶対守ってね。」という風に伝えています。

部員間での会話も、
「私は羽二重餅みたいなハコビを目指している!」
「この考え方素敵だから私もそういう風に能楽を捉えられるようになりたい!」
など、多様なものです。

「秘すれば花」と言いますが、私は遠慮なく自分の扇の使い方やその背景にある考え方を後輩に、一つの方法として手取り足取り伝えます。

例えば、
「扇を手で操ろうなんて思うのではなく、
扇は物理の法則に沿って自然に動くものだから、手でそれを支えてあげるだけでいい。扇を操ろうと欲張るのはいけない。」などです。
物理法則は自然の美しさを科学的に表したもので、その美しさは人間には生み出すことの出来ない超越したものがあります。
自然の働きを人力で支配してやるという環境破壊的な考えではなく、
 自然の営みを人間がサポートして共生する、「里山」の概念を扇で表現している、というのが私が後輩に伝えた考えの一つです。
 その背景には、工事によって棲み家を失ったドジョウやヒキガエルの姿を見て引越し大作戦を敢行した幼少期の自分が...
など、私個人の人生経験があります。
人は皆、各々の人生を歩んでいる以上、背景の背景までを「鸚鵡する」ことは不可能です。
まあ、そんなところです🙈🙉

伝えたところでそれを真似するのは至難の業ですし、簡単に真似できるような技に、真の芸としての価値は無いと思います。

その日の栄養状態やこれまでの稽古・舞台、人生経験、声質、体型など様々な要素が絡んで初めて芸は生まれるのであって、秘するまでもなくそれが完全に暴かれることは、「人間」である以上、不可能だろうと考えています。

技や考え方をオープンに話せる環境、
これは現代のトレンドに沿ったものだと言えるでしょう。
野球では、メジャーリーガーのダルビッシュ有選手が自身のSNSで投げ方や栄養管理方法を投稿・解説しています。

ダルビッシュ有選手の言葉に、

「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。」
というものがあります。

彼もまた、練習する中で頭を使うことの重要性を主張しています。

・稽古のなかで頭を使うことの大切さ
・受動的でなく主体的に稽古に取り組む大切さ
・柔軟な思考の大切さ
・他者の観察眼を養うことの大切さ
・自分を客観視することの大切さ
・礼儀を尽くし厳しい稽古を受けて部員間で切磋琢磨する大切さ
・自分の考えや芸評などを忌憚なく述べられるオープンな空間
・日常のストレスを発散できる空間
・仲間と笑い合える空間

こうした要素が絡んで、
令和版早稲田宝生会が関東最大規模の能楽サークルになりました。
早稲田宝生会が今後も、居心地の良い空間、一生物の仲間を得られる空間となることを祈って、
この辺で失礼いたします。
ゴタゴタした投稿ですみません。

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