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# サナトリウム

 お元気ですか?
 わたしは元気です。

 外は相変わらずひどい雨で、雨粒が際限なくアスファルトを打ち付ける音と、水溜りの上をザァーっと駆け抜けていく車の音が交互に聞こえてきます。わたしは濡れた髪をタオルで巻いたまま、毛布にくるまってこれを書いています。
 こんな日は、静かな音楽を流して、棚から普段飲まない紅茶を出してきて、ゆっくりと香りを楽しみながら、ちびちびと飲むのがわたしは好きです。そうしていると、今日も忘れないで夜が来てくれたなぁ、この夜を何処までも何処までも辿っていくとブラジルとかボリビアのあたりで朝が見つかるのかなぁ、とかそんな気持ちになります。
 さっきまで、わたしはおばあちゃんのお見舞いに行っていました。こんな天気ですから外を歩く人はいなくて、バス停に着くまでほとんど誰ともすれ違いませんでした。 バスの中も閑散としていて、わたしの他には杖を持ったおじいさんがひとりと、大きなスーツケースを抱えた外国人のカップルが一組いるだけでした。

 あなたはバスの座席で何処が一番好きですか?
 わたしは左の一番前。
 座席が少し高くなっていて、上るのが大変だけれど、大きな窓から見える景色が普段運転をしないわたしにはとても新鮮なの。
 今日もわたしは迷わずそこに座りました。
 大きな窓は少し曇っていて、雨粒と競争するみたいにワイパーが忙しなく動いています。バスは丸ごと水の中に潜ったみたいで、辺りは海の中。わたしは魚になった気分でした。
 大きなクジラみたいなトラック、黄色のミニは熱帯魚みたいに優雅で、オートバイはイワシの魚群のようにスルスルと駆け抜けていきます。

 病院は街の高台にあります。
 街の人は誰もが知っている立派な建物です。
 広いエントランスがあって、迷子になってしまうくらいたくさんお部屋があります。みんながご飯を食べる食堂には大きな窓があって、そこからは街が一望できます。
 いつだったか、「ここは街の灯台なんや」とおばあちゃんと同室のキヨシさんが言っていました。

 バスは高速道路の下のトンネルを抜け、蛇行しながら坂道を登っていきます。すれ違う車の数がだんだん減っていきます。
「あの辺りがミヨのお家ね」とおばあちゃんは指差して言いました。
 雨に濡れた街のぼんやりとした光は海の底の光で。
「ここからわたしの家が見えるのなら、わたしの家からもおばあちゃんが見えるかしら?」と、わたしは尋ねました。
「そうかもしれないね」おばあちゃんは、そう言ってにっこりと笑いました。

 どうしておばあちゃんはわたしとお話ししてくれるの?
 と言いかけて、やめました。

 帰り道、バスはまた海に潜っていきます。
 すれ違う車が増え、傘をさした人たちがそれぞれの家に帰っていきます。おばあちゃんの部屋の灯りはもう見えません。
 天気予報によると、明け方には雨が止むそうです。
 水溜りもいつか乾くでしょう。
 海の底にあった街が地面に戻った時、灯台は何処に行くのでしょうか?

 わたしとおばあちゃんの海が消えていきます。

君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない