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掌編「Snowdome」

「苦い?」
 彼女は尋ねた。ラムネ色のワンピースのなだらかな膨らみが途切れる袖口の一寸先。掴んでは離れながらボヤけていくピント。
「苦くは……ないよ」
 砕いたビターチョコレートの色した一枚板のカウンターテーブル。ぽってりと白いかまくらみたいな厚口のカップ。七十八度とか、それくらいに曲げられた左腕の親指と人差し指の間にちょこんと顎を乗せて、彼女は不思議そうな目で僕を覗き込む。
「じゃあ、酸っぱい?」
「ううん——」立ち上る思索的な湯気が僕の丸眼鏡を曇らせた。「でも、少し深い」
「何それ? 全然ベクトルの違う話じゃない」
 両の掌で包み込むようにして冷たいグラスを支えながら、彼女は机の上の空白を抱き寄せるみたいにアイスの乗った青い炭酸水を口にした。小窓から入る午后の光。四角い氷がカランと眩い音を立てる。季節はすっかり夏だった。でも、今日は春の箱をひっくり返して、読み終えた本のどこかに差したままの栞を探すような——そんな陽気だ。
「そうかなあ?」
 カウンターの向こうでは、青銅色の古い上皿竿秤がどんな判事よりも正確に豆の重さを量る。こおひいはその昔、過激な思想を醸成する悪魔の飲み物として喫することを禁じられた代物だ。十分過ぎるほど慎重に扱わなくてはならない。
「口べたなの? きみって」
「いや……」
 僕はまたこおひいを口にする。視界に靄がかかって、香りが忽ちにこの身を誘う。

 そこは砂漠だ。
 二瘤駱駝が優雅にスフィンクスの前を散歩している。灼熱の太陽が巨大なピラミッドを照らし、黄金比率に象られた陰影が伸びたり縮んだりを繰り返しながら、なだらかな砂原の上を移ろう。
「ここなら涼しい」
「そうね」
 僕らはそこで仲良く寝転がっている。
 空が青い。
 ウルトラマリンの青だ。
 これは夢じゃないか? と訝しがる僕の横で彼女は言う。「自然界に青という色は存在しないと聞いたけれど、あれは嘘だったのかしら?」
 それから彼女は僕の胸にその小さなおでこを埋める。仄かに甘い匂いがする。心地よい香りだ。華やかで、それでいて奥ゆかしい。僕はそっと彼女の背に腕を回し、優しくその身を抱きしめる。目を閉じ、呼吸を合わせ、名を知らぬ花に身を散らすように。
(ねえ、ねーえ)
 音がした。
 ガサガサと何かが地を這いずり回るような音が。
 黒く膨らんだ影。蠢く鈍い眼光。突き出される一対の鋏と弓形の尾——蠍だ。
(ねえってば)
 逃げよう! 僕は叫ぶ。だが、彼女は答えない。すっかり眠ってしまっているのだ。近付く歪な足音。迫り来る毒針。呼吸が乱れ、否応なく僕らは離れていく。
「ねえ!」
「ん?」
 彼女が僕を呼び覚ます。
「某っとしちゃって、何を考えていたの?」
「いや……たいしたことじゃないよ」
「ふうん」
 臙脂色のミルが、ガリガリと景気の良い音を立てて豆を挽いていく。その向こう、老木のようなJBLのスピーカーからは、古い時代の牧歌的なラブソングが流れる。多分それはジョニ・ミッチェルの歌。昼下がりなのにもう「ウイスキー、ウイスキー」と朗らかに口ずさんでいる。

「見て、あの人形の顔。なんだか……きみに似ていない?」彼女はそう言って、カップの並べられた棚の上の方を指差した。
 そこにはステッキを片手に颯爽と歩くジョニー・ウォーカーの瓶があり、悠々と海を行く帆船を乗せたジェムソンの瓶があり、あのサマセット・モームが愛飲したというノイリー・プラットの瓶があり……その端にポツンと犬の置物が佇んでいた。
 フォックス・テリア——ビクター犬だ。
「そうかなあ?」
 僕はまじまじとその犬の顔を覗き込む。なんとも掴み所のない表情だ。笑っているようにも、揶揄っているようにも、あるいはどこか憂わしげにも見える。
「何を考えているのだろう? あの犬コロは」
「さあ?」彼女は猫のように小首を傾げた。後れ毛の先に散らつく淡いブラジャーの紐。
「うむ。それなら……例えばヤツはどんな音楽を好むと思う?」
「うーん……」
 歌唱を終えたジョニ・ミッチェルが客席に戻り、マスターは考え深げに次のレコード盤を探す。
「少なくともハード・ロックではなさそうだけど」
「どうしてそう思うの?」
「そういう顔じゃないもの」
 僕らは揃って犬コロを見つめた。
「僕も?」
「そうね」彼女は口に手を当て、くすくすと愉快そうに笑った。視線が下がり、その長い睫毛が曼珠沙華の花みたいに先の季節の空を仰ぐ。
「思うにね、彼が聴いているのはきっとモンゴメリだよ」
「もんごめり?」見知らぬ国のデザートでも口にするかのように彼女は復唱した。
「ジャズのギタリストさ。名手なんだ」
 膨らみのある残響を纏いながら、流麗なオクターブ奏法で紡がれていく薄暑の記憶。マスターが選んだのは、かの名盤『フルハウス』だった。
「ふうん。好きなのね」
「どうだろう?」
「好きじゃないの……?」
 マスターがこちらを一瞥したような気がした。いや、それはあの犬コロの視線だったのかもしれない。
「そんなことないさ」
 僕は小さく微笑み、こおひいを口にする。

「あんたはこの子のことが好きなのかい?」ビクター犬が尋ねる。
「うん。だろうね」僕は首肯した。
「そうかい。それなら早く連れ出しておやりよ」
「そのつもりさ」
「でも」
「でも……」
「「迷っている」」
 僕はどうして彼女のことが好きなのだろう——? 彼女はコーヒーを飲まない。ジャズも聞かない。モームだってまともに読んだことはないだろう。それでも・やはり・僕は彼女を好いていた。
「理由が欲しいんだ。そういうものが必要なんだよ。僕には……」
「やれやれ。あんたはお利口さんだよ」犬コロは言った。咎めるような、半ば呆れたような、或いは行く末を案ずるような——そんな表情で。
「僕はただ、正しく真っ当なやり方で彼女を連れ出したいんだ」
 春が終わり夏が来る。夏の始まりにはいつだって春の終わりが必要なのだ。それはどんな法律よりも優位に存する絶対のルール。
「あんたも頑固だねえ」
「きみの方こそ」
「あたしゃねえ……何だって構わないのさ。ジャズだろうと、ポップスだろうと、ハード・ロックだろうと。どんな音楽にも哲学はある。大事なのは、耳を澄ませてみるという態度《アティチュード》だよ」
 ソーサーの上にカップを置く。
 それはカチッと小気味の良い音を立てる。「カチャッ」でも「ガチャッ」でもない。もちろん、「カチャリ」や「ガチャリ」だってない。
 その音色が、そのリズムが好きだ。モンゴメリの演奏を聴いていると、僕はいつもそんなことを考える。ある音の予感《タッチ》が次の音の予感を招く。招かれた次の音の予感が、またその次の音を招く。そうやって——繋がっていく。

「見て」彼女が言った。「豆が膨らんでいく」
 いつの間にかカウンターの向こうでは、寡黙なマスターがタモ網みたいなネルに向かってポタポタと気難しそうな湯を落とし始めていた。
「見事なもんだね」
 茶褐色の粉面が飛び立つ前の綿毛の如く、ふわりと膨らんでいく。雨垂れのような湯を降らすユキワのポット。昭和のあの一本足打法みたいな安定感。僕も彼女もひどく感心して、暫く無言のまま、それを見ていた。
「スノードームって知ってる?」彼女が囁く。黙ったまま僕は頷く。
「あれを思い出すの。豆が膨らんだ時はいつも」
 ガラス玉の中を舞い落ちる雪。その向こう、朧ながら確かにそこにある記憶の灯火。
「おじいさんがね、よく淹れていたのよ。三時になると決まって、おばあさんのために」
「優しいんだね」
「どうかな?」
 彼女は蝋燭の火を吹き消すように、そっと微笑んだ。
「きっとね、たいした意味はなかったの。習慣みたいなものだったのよ。時計から鳩が出てきて、クックルーって時を告げるように」
 溶けた氷がグラスの底を叩いた。世界は目が覚めるような春だ。いや、それは初夏とも言えた。
(いく?)
 彼女が口の形で合図する。
 気が付くとカップはすっかり空っぽになっていて、中にはまあるい空漠だけが残った。
「あのさ……」
 もう一度彼女を見つめる。彼女は今日も可愛らしい。彼女のことが好きだ。僕はそう結論付けた。どれほど緻密な議論を重ね、稟議を取ったとしても、楽しくなければ僕らは時間を共にしない。そうだろう?
「なあに?」
 君が好きなんだ——ただそのことを伝えたくて、イカしたリズムで、狂いのない音程《ピッチ》で表したくて……僕はまた、こおひいを口にする。
 そこにあったはずの何か、ささやかな幻想、名状しがたい香りの余韻。それは僕に迫る。イメージは十分だ。コードも展開もすっかり頭に入っている。あとは実践さ。再現性の問題だよ——と。そうだ。あとは再現性の問題なのだ。そして、いつだってドラムスのカウントが始まったら、それからはもう……音を紡ぐしかないのだ。
「二人には、その時間こそが必要だったんだよ。きっと」
 針の落ちる音。まだ見ぬ予感。心臓が脈を打つ。
「だから、僕らも……」
 春が過ぎ、夏が来た。微睡む時計の鳩。雪は花吹雪に変わり、今、薫風のもと目を覚ます。

君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない