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# 帳

 列車は大きな弧を描いて停車した。
 遠く、幾重にも重なる朝靄の向こうに山の稜線が連なる。岸壁に沿ってカーブを描く線路、三日月型のプラットホーム。そこは終着駅。

 人影はない、無人の改札口。
 切符を投げ入れ、駅を出ると、もう使われていない小さなロータリーがあって、もう使われていない古い型の車が数台停まっていた。地面から生えた草がそのタイヤに絡むように伸びていて、それはある種の芸術作品のようだった。

 草の生長は無数の時間の経過を感じさせるものだったが、ロータリーには昨日まで当たり前のように世界が動いていたような、そんな生温い温度がまだしっかりと残っていた。
 リュックサックから水の入ったボトルを取り出して、ひとくち。その水の冷たさは、この時間にとっては異質なもので、僕のような人間の側の温度だった。

 目を凝らすと、ロータリーの円の一角に小さな一本の道が見える。両端を背の高い木で囲まれた細長い一本道。畦道のような幅で、木は細長い針葉樹だった。連続写真のように、どこまでも同じ絵が果てしなく続いて、針で開けた穴のような光がその向こうに見える。
 その道は、ボブ・ディランの“風に吹かれて”が収録されたアルバムのジャケット写真を想起させた。建物も車もない未舗装路だったが、そこにはジーンズのポケットに手を入れて歩く男と、男の左腕を抱きしめるように寄り添い歩く女が確かに居たはずだった。

 暖かくも、寒くもない空の下。
 ポケットに手を入れてその道を歩くと、自分が少しずつ変わっていくのがわかった。細胞が蠢き、瘡蓋が消えていくように、何もかもが精製し直されているような変化。
 それは決して悪いものではなかった。
 むしろ良い兆しとも言える。
 ただし、その変化は元に戻せる類のものではなかった。
 決して……


 歩き続けていると、次第に辺りに薄い霧が立ち込めてきて、視界はほとんどゼロになった。近づけた自分の手のひらが、かろうじて見えるくらいの深い闇。真っ暗な井戸の中を進んでいるような感覚。
 だが、辺りが暗くなりその霧が深くなるればなるほど、その闇の向こうには確かな灯りの存在を感じた。それは開いた目の中に映っているのか、あるいは閉じた瞼の裏側に映っているのか。大きな提灯のような滲んだ橙の灯りがすぐそこにある。山の上から麓の祭りを覗いているかのように、その蛍火は薄く明滅し、微かにその残影を漂わせている。

 灯りの正体を探っていると不意に何かに足を取られた。膝をしたたかに打ち付けるとともに、固くて冷たい無機質な感触が手から伝わる。湿った土のうえに筒状の何かが横たわっている。立ち上がる。確かめるように目を凝らす。徐々に霧が薄くなり、視界が開けていく。

 それは赤いステンレス製のスモーキングスタンドだった。
 アンティーク調の喫茶店の前、テーブルのパラソルを広げながら、黒いベストを着たウェイトレスが店の前にスツールを並べている。そこは街の一角で、もう井戸の中ではなかった。ウェイトレスは倒れたスモーキングスタンドを立て直しながら、僕には目もくれず店の中に消えていった。やがて誰かのラジオから音楽が流れ始めて、いつしか辺りは人で溢れかえっていた。

 テーブルとスツールは正円を描くように並べられ、スモーキングスタンドはその中心に立てられた。それはまるでキャンプファイヤーのように、何か儀式的なものを感じさせた。

「ヒトラーとムッソリーニは嫌煙家だったんだ。だから火に憧れたのかもな」煙草をふかしながら、難しい顔をして歴史の教授はそう言った。
 彼の講義は春から秋にかけて二十四回行われたが、その言葉以外に真新しい発見はなかった。この世界のすべては本に書かれていて、本に書かれていることがすべてだった。「それならコンピュータにでもなったらいいじゃない」いつだったか、僕の話を聞いた恋人は冷たくそう言い放った。教授も恋人もある部分ではとても的を射たことを言っていたし、ある部分では全く検討はずれのことを言っていた。もちろん、それは僕にしたって同じことだが……


 僕はある時期から狂ったように図書館に通って分厚い本を読み漁った。棚の端から端まで貪るように手に取り、閉架書庫から埃をかぶったいくつもの古い本を救いあげた。地元の図書館に飽き足りてしまうと、国立国会図書館にも通いつめ、活字の海に溺れた。だが、内容はまるで覚えていない。
 僕は本を読みながら、まるで読んではいなかった。ただ、ただ、探していただけだったのだ。いつかの僕と君の姿を、ずっと……
 だから僕は本を読まなかった。本を読まずに、そこに書かれた言葉と言葉の間を彷徨い、小さな写真の片隅に写る空や人や車や建物に目を凝らして、誰かの吐いた台詞ではない何かを探し続けた。
 ひょっとしたらここも、そんな場所なのかもしれない。

 喫茶店の脇にはちゃんと室外機や電気のメーターがあって、それがハリボテではないことがわかった。もう一方には生垣があって、その横の短いコンクリートの階段の上に大きな自動販売機が二つ並んでいた。僕は自動販売機で瓶のコーラを買うと、その奥にある水色の建物の螺旋階段を登り、屋上から街を望んだ。
 冷たいコーラの炭酸が喉を通り過ぎ、乾いた風が髪をなびかせ、いくつかの雑音が聞こえた。
 そして、街は燃えていた。
 メラメラと赤黒い火が奪い去っていく。
 歴史も自然も建物も人も芸術も文学も……

 だが、慌てふためいたり、逃げ惑ったり、恐れおののく者はいなかった。みんなグラスを片手に、今年の葡萄酒は悪くないね、なんてことを話していて、その間に飲み込まれていった。
 それはきっと、このうえなく悲しいことだったのだ。

 子供たちだけが逃げ惑っていた。
 まるで鬼ごっこをするみたいに真剣に。
 彼らには過去がなく、代わりに未来があった。
 僕らには過去があって、代わりに未来がなかった。
 失礼、僕はまだ未来にさえ、ぶら下がろうとしている。

 結局、火はスモーキングスタンドの中へ帰っていった。
 街は一本の煙草のように燃えて、煙を放って、灰になった。
 
 もう何も残らない。

 火は未来を照らすために過去を燃やしたのか?
 未来を消すために過去が点けたのか?

 僕は未来を描くために溺れるのか?
 過去に戻るために溺れるのか?

 海が迫っている。
 それは何色か?

君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない