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何者にもなれない

家の中にいると、時間が止まりすぎていて何もやる気が起きない。少し前から今日はここに行くぞ!という自分の中の予定を作っていれば朝から動く気になれるけれどどうも一日の途中から予定を作ることも、気分で動くことも苦手だ。卒論に追われる毎日。文章が好きだから書くことを始めてしまえばどうにか時間は過ぎるけど、それをやるまでがどうしても時間がかかる。

家の中にいると、空が見えない。私は日当たりの悪い1階に住んでいるから、前の家が邪魔をして無駄に大きい窓枠から見える空はとても小さい。故郷は日本の中でも特に田舎と言える場所だから、空を見ることに何一つ苦労はなかったけど、今は外に出ても目に映し出される枠の下の方には冷たく高い建物が邪魔をしてくる。18までの空と何一つ変わらないはずなのに、都会の空はなぜか遠く感じる。何よりもそこにあるのに、滅多に見られないような気がして焦ってしまう。

家の中にいると、私だけが一人に感じる。SNSを見れば誰も外にいて、誰かと一緒にいる。私は一人、外に出るのもめんどくさいからぼーっとゲーム実況を見たり寝たり無駄に沢山ご飯を食べたり。さすがに焦って卒論でも書こうかと思ったときに、均一にタイルが敷かれて3輪の大きなお花が飾られたテーブルの上にパソコンとノートを広げ綺麗な空間で勉強をする女性の写真を見て、またやる気が無くなった。私もこんな空間なら勉強できるかもと思ったけど、掃除をするのも面倒だしこの空間を作り上げるお金だって持ち合わせていない。フリマのために積まれた洋服と引っ越し前に段ボールに詰めて以来やっと数か月ぶりに引っ張り出した本の山が私を責め立ててくる。

少し前より一人でいることが当たり前になったし、むしろ一人でいることを楽しく感じられている。ちょっぴり気になる人が出来て、人生で初めて自分から誘ったりして自分の中の成長を感じられたけど、どうもその人から気があるのかわからずもしかしたら違ったのかなと少し自分の判断に呆れた。家にいるとそんな自分という現実とじっくり向き合ってるみたいで苦しくなる。

床に落ちてしまっていたクリアファイルを手に取った。中には私が今まで行った美術展で購入したポストカードたちが眠っている。ふとその中身を机に広げ、アルフレッド・シスレーの『ロワン河畔、朝』を手にする。絵の半分が大きな青い空で埋め尽くされていて下半分は河畔、左右には緑と住宅街がひっそりとたたずむ。空は半分しかないけど、水面に空が反射して映るからそこにまた新しい空が広がる。訪れたこともない場所なのに、どこか懐かしくてオレンジ色の湖と塩の香が華をツンと掠める海があった故郷を思い出す。そういえば私の少し気になってる人も絵が好きみたいで、彼はどんな絵の楽しみ方をしてるのかすごく気になってしまう。恋にならなくてもいいから、ただ純粋にこんな気持ちを感じられるのなら、やっぱり家での時間も捨てたもんじゃないのかもしれない。

外に出ると、無機質なカフェと時間を懐古させる喫茶店がある。新しい自分を作る洋服と化粧品がある。自分の心とおなかを満たす食べ物もあるし、楽しませてくれる人もいる。だけど、こんな風に自分が好きだと思って私の空間となる”家”の中に連れ込んだこの絵や洋服、本たちはここにしかない。それらと触れ合う時間もまた、この空間の中でしか作り出せないものなのかな。

私は何者にもなれない。どこか常に満たされていないし、自分自身も分からない。文章を人に届けることが夢だけど、何物にもなれない私の文章なんて誰も欲しちゃくれないだろう。そんな不安が頭をよぎっては苦しくなるけど、それでも私と私の好きな気持ちを貫けば誰かの心を救える日が来るはずだ。

本当に私が満たされる空間は私自身が作るもの。都会に沢山憧れた、都会が好きだ。でも都会はときに私を疲れさせる。たまにはぽっかりとあいた心の苦しみを都会の街のせいにして、たくさん自分を守ってあげる日があってもいいんだよね。

私はもう一度ポストカードを手に取ってファイルにしまい、アロマキャンドルに火をつけて今日もこうやって文章を一人綴る。


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