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多数派、少数派にも入らない「それ以外」は異常なのか│朝井リョウ『正欲』

多様性が謳われるようになり「いい世の中になってきたな~」なんて思ってた自分が、この小説を読んで浅はかだったかもしれないと感じた。

朝井リョウ『正欲』

なぜカモが落ちていくこの写真が表紙なのか、意味深すぎて個人的に気になっている。

数か月前から図書館で予約していたこの本。ちょうど映画公開のタイミングで順番が回ってきたのは我ながらすごいと思う。一般的に使われる「性」じゃなく「正」を使っているところに何かあるんだろうと思っていたけど、その通りだった。

(少し余談ですが、なぜ私がアイキャッチにこの車の画像を選んだか、読んだ人はわかるはず。)

多数派も少数派も、みんなが生きやすくなるようにいろいろ議論されている昨今。でも実は、少数派としても認識されていない、さらなる少数派がこの世にいる。この小説では、そんな人たちにスポットライトを当てている。

その人たちは「人」に対して性的な魅力を感じることはなく、けれどその人たちにも欲求を満たせるものや方法がある。そしてそれは大多数、そして少数派にも想像すらできないことで、彼ら自身も「理解してもらえるわけがない」と認識していて…。

果たして、大多数は「普通」、少数は「異常」と簡単にみなしていいだろうか…。物語が進んでいくにつれ、自問自答の繰り返し状態に陥った。

少数派にも入らない人たちからすると、この世の中の「正常」とされていることの方が、なぜ正常なのかがわからない。

人が交わる行為はとてもセンシティブなもの。大々的に話したり、公開するものでもないはずなのに街にはホテルがあったり、それに関するものが普通にコンビニで売っていたり…普通に目に入るところにある。ということは、人が交わる行為は公然に認められている行為。大多数がそれを好むからそれが「普通」になるのだ。

そんな彼らの考えに触れると、それが正論に思えるし、彼らの欲求の満たし方の方がとても純粋できれいなものに感じてくる。

少し話は変わるが、冒頭の十数ページ。全く話がつかめなくて、私の脳内には「?」がいっぱい飛び交い、「読みづら!」と思って全然ページが進まなかった。

「この世の中は『明日、死にたくない』にあふれている」という言葉が繰り返されていて、なんとなくわかるけど、腑に落ちなくて。でも読んでいくうちにその意味が理解できるようになるのが面白い。 私自身がこの意味を最初に理解できなかったということは、私も大多数側の人間であったからだろう。大多数なのは自分で選んだわけではない。だから悪いことをしたと思わなくていいのに、なぜか彼らに申し訳ない気持ちになった。

正直言って、この話は結末ですっきり解決という類のものではなく、後味は悪い。悪いというか辛い。いろいろと考えさせられる物語だ。映画の「観る前の自分には戻れない」というキャッチコピーには唸り声が出るほど共感するが、できれば私はその後ろに「そして進めない」とも付け加えたい。

私は今、ばーんっと急に、どこかに1人で放り出されたような感覚になっている。

ここで終わるとただの暗い話で終わりそうなので、最後に1つ、この物語で私が面白いと思ったところを。

「人」を性的欲求を満たす対象として見ない人たちであったとしても、自分を理解してくれている人がこの世の中にいることは「明日を生きる」「この世にとどまる」ために必要だと感じるということ。

一緒にいる相手に「好き」という感情がなくても、一緒に食べるご飯はおいしくなるし、楽しいことは共有したいという気持ちが生まれ、自分が生きる意味を見出すことができる。どんな人であれ「性的」な意味合いを持っていなくても、人を求めるというのは根底にある「普通」の価値観なのかもしれない。





いや、待って。それも「普通」といっていいのだろうか。



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