(雑文)日本語の詩でなぜ韻が重視されないのか


ぱっと書いてみてます。
まだ研究中の分野で随時変更あり。
私的研究の範疇だが大きくまちがっていないだろうと思う。
(だから書いてんだろ? ってか)

外国の詩って語尾に韻を踏んだりしますね。
ところが、日本語の詩っていうのは和歌だの俳句だの文字数を重視するわけです。
なんででしょう?

重要:この文は近代までの日本の詩歌、を念頭に書いてます。
   いわゆる日本のラップ文化などを否定するものではありません。

   

拙者の考えでは
主に下記、日本語特有の二つの要素が効いていると思います。

まず、日本語っていうのは世界でもまれな発音数の少ない言語です。
補足)ここでの「発音数」は「音節」の意です。

おかげで表音文字で表すのに発音を一文字づつにわりあてても50文字くらいですんじゃうんです。
(一方、英語とか他言語は発音数が多くてそんな芸当できないから2文字、3文字で1音表すわけです)

次に、これが大きいが日本語には、『母音で終わる』という発音上の規則があります。
たとえば「か、き、く、け、こ」
ローマ字であらわせば「KA,KI,KU,KE,KO」で語尾は必ずA,I,U,E,Oの5種類の母音どれかで終わっているのです。しかも各発音は母音、または子音1ヶに母音1ヶ、同じリズムなわけです。
補足)この場合の「リズム」はいわゆる「拍」のことを指しています。

それを踏まえて……
外国の言語の発音ってのは、発音数も多く、もちろん母音で終わらない。
文を組み立てれば、発音の区切りもバラバラ、単語はかすれた子音で終わりまくり。
韻をふまずに自由気ままに作文すると、きれいなリズムにならないのです。

ところが、日本語は、発音数も少ない上に自由作文しても語尾は基本5つの母音に収束する。
普通に書いても汚く聞こえる発音は少ない。一音ずつの長さも同じ。

ならば、意識すべきは韻よりも文章全体のリズムの方であって
そこで、例えば 5、7、5や5、7、5、7、7のように
「文章に使用する発音数を制御するだけである種のリズムができる」
事を重視して日本語の詩は発展したのだと思います。
(ここで、すでに書いたとおり、
日本語の発音は1音=1文字ですので、結果的にリズムを文字数で制御しているように見えます。もっとも、最初は大陸の七言絶句みたいな詩の形式の影響などあったかもしれません。日本の事情にマッチした形式になったのがこれ、という事では)

古代の和歌から俳句や現代詩まで韻がそれほど重要視されないのは、上記のような理由だと考えています。

いや、歌や詩も韻を意識したの多いよ?ってご意見あるかもしれませんが、
それはむしろ近代になって外国の歌や詩が入ってきて、それに影響されているかと。

韻を踏むのは日本語では表現の幅が増えるだけですが、
外国の詩だとそもそも韻を踏まないと、詩として成立しなかったり……という事なのではないかと

追記=====

同じような理由で、
「なぜ英米人はダジャレばかりいうのか」
も説明できると思います。

おそらく英語では発音数が多いためにダジャレをいうのは知的なパズル遊びのような? 比較的高度なジョークなのでしょう。
(「不思議の国のアリス」なんてダジャレだらけと聞きます。英語の原作、読んでないけど)
ところが日本ではダジャレなんて簡単にできるような(酔っ払ったおじさんが好むような)低レベルギャグ。
デーブ・スペクターも登場したころは自分のギャグがウケなくて、さぞ心外だったでしょう。
(最近、デーブはジョーク自体言わなくなったような)


補足=====

日本語の発音が『母音で終わる』と書いたが、もちろん例外もある。
例えば「いただきます」
このように文章の最後の「す」は『SU』ではなく『TH』に近い発音です。

修正=====

本文から『母音調和』の文言を削りました。
日本語の発音が母音で終わるのは、古代の日本語にあった母音の規則に影響されているかもしれないが、現在の日本語には『母音調和』はないので。

補足=====
記事よりコメント方が長くなりました
コメントも読んでね



(了)

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