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寂しさを忘れることへの恐怖

おはこんばんにちは。蜜柑月です。

受験が一通り落ち着きまして、久々にnoteに戻ってきました。近々、気持ちが冷めなければ、この1年間の私の受験物語も投稿しようと思います。

春の陽気が漂う季節になりましたね。
そんな出会いと別れの季節であるこの時期に、「寂しさ」について思いが溢れてきてしまったので、ここで少し思考を整理しようと思います。


「寂しさ」は私にとって大事な感情

私はこの春から大学生になる身です。
第1志望の大学は受からなかったものの、後期の合格発表で自分の番号が見つかった瞬間は嬉しかったし、それと同時に、ようやく終わった、という実感が湧きました。

様々なことを準備する中で、この春からこの土地で生きていくんだ、楽しみだな、不安だな、という感情が湧き出て、いずれにせよ、始まりの匂いがしました。

終わりと始まり。別れと出会い。
前者には寂しさや感謝が、後者には期待と不安が出てきます。

私にとって、寂しさを感じるのは苦しかったり、辛いことではあるけれど、逆に、その痛みさえも愛せるときがあります。
それは、「寂しさ」とは、その人との記憶を大切にできている証拠であるし、寂しさを感じれるほどの人に出会えたんだなということを実感できるからだと思っています。


それゆえの、恐怖

では、その「寂しさ」を忘れてしまったら?
私はその人との記憶、そのときの感情を、一切合切とは言わないまでも、細々とした幸せなことを忘れてしまう。
出来事を文字に書き起こして後で読み返したとて、そのときと同じ思いにはなれない。

じわじわ忘れていく時間は無意識で、痛さなんて感じないけれど、それが怖い。
それでも、これを克服なんて一生できないし、時間というフィルターに記憶という析出物を濾されながら生きるしかない。
とはいっても嫌だ。忘れたくない。怖い。


───勢いで色々書いてしまったけれど。

この感情、個人的には、一生会えないような人に抱く気がします。

受験期にお世話になった方がいて、その方は優しく、私の頑張りをずっと見ていて、第1志望には届かなかったけれど、私の努力を認めてくださりました。
書こうとすると長くなるので端折りますが、勉強面でもメンタル面でも助けられました。

だからこそ、その方との寂しさを忘れたくない。記憶と感情が化石みたいになって、「大学受験」という大きな括りとして埋もれて、些細なことを思い出せなくなるのが本当に怖いのです。


忘却からは逃れられないけれど

先ほども書きましたが、忘却から逃れられることは永遠にできないことです。

だからといって、この感情は捨ててしまえない。持っておきたい。まだ記憶と思いが温かいうちにやれることは全てやっておきたい、思い出せることは全部思い出しておきたいのです。


終わりに

まとまりのない文章でしたが、言語化するうちに少し落ち着いてきました。

BUMPの、「飴玉の唄」が(藤くんが語った解釈とは大きくズレるけれど)この感情を代弁してくれたと思います。

「僕は君を信じたけど 君が消えたらどうしよう
考えると止まらないよ 何も分からなくなる
いつか君と離れるなら いっそ忘れることにしよう
できるのかな 無理だろうな 離れたくないな」
「僕は君と僕のことを ずっと思い出すことはない
だってさよならしないなら 思い出にできないから」
「ねえ 怖いよ 止まらないよ 上手に話せやしないよ
君は僕を信じてるの 離れたくないな」
「見えなければ 死ななければ 
だけどそんなの君じゃないよ
僕はやだよ 君がいいよ 離れたくないな」
「飴玉食べた 君が笑う」

──BUMP OF CHICKEN 「飴玉の唄」


だんだん藤くんの言葉の調子が強くなる感じが、当時の自分の感情と共鳴して、何回も聴きまくりました。

正直なことを言うと、これからも相談乗ってくれないかなぁ……。とこっそり思ったりしてます。
うーん、難しい。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
それでは、また。


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