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デュシャンと利休展vsゴッホ美術館のポケモンコラボ

戦後としての江戸文化がある。
貴族と平民の嗜好に差がなくなり(もちろん程度の差はある)、お茶や能、浮世絵など、庶民の芸術が普及したという見方だ。
その論旨は、貴族と平民に差のない太平の世は、人間が自分以上の価値のために死ななくなったため、一歩間違えたら事物を感受するだけの豚である。といった塩梅で、平面的なものに深みを見いだすことで人間の条件づけの代わりとした。というもので、
どこか近代絵画の理念と似ているが、大きくことなるのは、印象派などに見られるそれは、描き手側の論理であるということだ。

だからなおさら、デュシャンと利休展がよく分からないでいた。
デュシャンと利休展は、デュシャンのオブジェ作品などと、利休が見立てた茶器などの併設展示なのだが、どちらも物だからだ。
フランスのインテリよ、お前たちの戦後(第一次世界大戦)は古い。と、フランスを批判しているかと言えばそうでもなく、かと言って我々は同じです。というのには無理のある展示だった。

これが冒頭に述べた浮き世絵と近代絵画を比較した絵画展ならば、ある程度は先の論理に収まるが、作品を借りた手前、やはり、国際交流的な融和が目的なのだろう。

そう思っていたら、オランダのアムステルダムにあるゴッホ美術館の50周年記念の客引きに、ポケモンとコラボしたとなにかで読むことになった。変な取り合わせだが、納得もいく。
ヴィトンとハローキティのコラボとはわけがちがい、文化戦略はすこぶる回りくどいのが定石のはずが、そこまで露骨だったので、すこし驚いた。

これらに共通するのは、アートの最前線に死線が混じりはじめ、多様と一元のバランスが崩れているからだ。

デュシャンと利休展は学芸員による多様な読みを歴史的事実として一元化し、その主体はキュレーターである。
ゴッホ美術館のポケモンコラボは、ゴッホの一元的な歴史評価の維持を別ジャンルのキャラクターで行う、いわば美術館のポップ化だ。
そして、あれだけ一意に定まる評価頼りだったにもかかわらず、モネの睡蓮を見て、カエルがいるかも!と思ってもいいのです。と、学芸員が子供向けに多様な読みをわざわざ許可し、分析美学という、多様な読みを推奨する変なものまで現れたのも事実だ。

つまり、美術は、今あるものでどうにかするしかないのだ。

これに関連して、村上隆がベルサイユ宮殿で展示をし、ルーブル美術館で展示をできたのは荒木飛呂彦だったことを付け加えておきたい。
当の村上隆は未だルーブル美術館で展示をしておらず、荒木飛呂彦展に前後して、フランス文化院は、マンガを第9の芸術に認定した。
戦後20世紀にアートの最前線を奪われたフランスが、ポップアートの元ネタの方を芸術に認定したのであり、
フランスからすれば、現代美術を実質アメリカ美術に還元して見せるに等しい、結構な事件なのだが、
だれもそのことを書かないのが不思議でならなかった。

自分は、ことさらに庶民の芸術こそが芸術だということを強調したいわけではなく、
こういうときの日本のアート関係者は、本当に鼻持ちならんと言いたいのだ。

フロンティアがレッドオーシャンになり、多様性が多様化したのであれば、アートの現実には、"アートは観客を必要としています"という初期値だけがそこにあるだけで、
このような、メタが主観を、主観がメタを互いに食いあい、評価の一元性と表現と評価の多様性による、実質、延々と対消滅していること変わらない駆け引きが、民主主義の自由と、その隠れた全体主義性を同時に反映しているのならば、
そのうち、アートそのものが、この現実は果たして現実なのか?と人に問わせるようなアートの現実の外側にある実態に飲み込まれてしまうのではないだろうか。

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