山神景

わたしはカモメ、たわしは亀の子

山神景

わたしはカモメ、たわしは亀の子

最近の記事

2つのマジック・リアリズム。

マジック・リアリズムは、シュルレアリズムの突つけば死ぬような内的亡命的な性質を、現実に引きずり上げ、自身の内面から目を上げる。 この場合、現実の方が現実のまま夢と化す。 ガルシア・マルケスのマジック・リアリズムは新たな生活を予感させる原始の終わりだが、 ユンガーのそれは中世ではいられなくなった暮らしの終わりそのものであり、これは創世と黙示録、平時と戦時の違いと言える。 なぜならば、ガルシア・マルケスのマジックリアリズムが単なる戦後であるのに対し、エルンスト・ユンガーのそれには

    • 批評行為と業界内アウトサイダーについての日記。

      批評行為で公的なものと自己を復元する限りにおいて批評は批評足りえず、批評もまた無為に帰す。なぜなら現代では歴史が停滞し、表現が表現に過ぎなくなり、その表現に現れる現実そのものを語ることが他者との繋がりにおいて希求されているからだ。 批評家への戒めである感想の存在を否定して、自己の情報処理能力を誇って、ベンヤミンの真似事をしても、前に転がせるのは、せいぜいそのように錯覚した己でしかないので、価値にとってすらも無意味だ。 渡部直己の見いだした新人を激賞するために構造抽出的な批評を

      • 宮沢賢治、ヴァージニア・ウルフ、スピノザ。

        宮沢賢治は文体と物語論の取り合わせで、鉱物の擬人化として読め、また、人間の犠牲は鉱物的になる。 注文の多い料理店では狩人はたんぱく源となる。 また、これはグスコーブドリの伝記に顕著だが、彼の犠牲のうち自己犠牲となるものは、英雄というよりは観ずるところの菩薩であり、分類されるはずの生物非生物の輪郭が曖昧となり、 文科省推薦本的に促される慈愛が賢治の手探りと重なるため、傍観的な戒めとして英雄も菩薩もいないイソップの擬人化とは異なると言える。 その鉱物化は、境界線を失う極致が、やま

        • ドン・キホーテに登場する風車とニーチェの力への意志は似ている。偽の大義を剥がす道化じみた行為の中に風車との対戦があり、ニーチェでは風車は解体され剥き出しの更地の先に超越者がいる。騎士と思想家、道化と狂気の違いだがドイツの近代は体験の俯瞰で、スペイン固有の複雑さは場当たりな近世だ。

        2つのマジック・リアリズム。

        • 批評行為と業界内アウトサイダーについての日記。

        • 宮沢賢治、ヴァージニア・ウルフ、スピノザ。

        • ドン・キホーテに登場する風車とニーチェの力への意志は似ている。偽の大義を剥がす道化じみた行為の中に風車との対戦があり、ニーチェでは風車は解体され剥き出しの更地の先に超越者がいる。騎士と思想家、道化と狂気の違いだがドイツの近代は体験の俯瞰で、スペイン固有の複雑さは場当たりな近世だ。

          自己啓発紹介を総覧した感想。

          性格診断は、知覚の特性が同一性を持つ自己としてある。 MBTIが特にそうだが、これは、自己超越が体の外に出し中世のアイデンティティ生成の順番をひっくり返したマズローの5段階欲求や、アドラー心理学と同じで、 その分かったところの己が飛び込み、反映先が会社にしかなく、また、生かせるかどうかが偶然でしかないことで、いずれ具体的能力や、まじないと変わらなくなる。 そうしたら、運の話や、学習ルーティン系の自己啓発本も売れるわけだ。 延々と売られ続けるダイエット本に対して、やせてどうした

          自己啓発紹介を総覧した感想。

          シュペングラーの論またはそれに類する史観は、シュペングラーにとっては苦い結論のようだが、ユンガーはそのような残酷さがどうあろうと前提とし、むしろ当然視しながら居座っているところがある。リアリズムの果てにある哀愁と、対処をロマンとする覚悟の違いだろうか。

          シュペングラーの論またはそれに類する史観は、シュペングラーにとっては苦い結論のようだが、ユンガーはそのような残酷さがどうあろうと前提とし、むしろ当然視しながら居座っているところがある。リアリズムの果てにある哀愁と、対処をロマンとする覚悟の違いだろうか。

          物事が無根拠であることを根拠にするのではなく根拠だったものを無根拠にしたものを根拠として、それを抱えて突き進むしかない。

          物事が無根拠であることを根拠にするのではなく根拠だったものを無根拠にしたものを根拠として、それを抱えて突き進むしかない。

          同一律以後の哲学。

          「A is B」という固定的な同一性ではなく、「B as A」という形式が、現代における同一性の捉え方に近いと言える。 「A is B」という表現は、伝統的な同一律に基づくもので、AとBが固定的に同一であることを前提としている。 ここでは、同一性は変わらず、不動の真理として存在する。 しかし、現代の哲学や思想では、同一性そのものが流動的であり、相対的に変化するものであるという考え方が広まっており、そのような文脈では、「B as A」となるような表現は、同一性が単なる固定的な関

          同一律以後の哲学。

          カントの復権になぞらえるような事象は何度も失敗し、失敗した先にはニーチェが待ち受けており、実際にはその繰り返しだが、では同一律を支えていたかつての現実はどこに消えたのだろうか。ヘーゲルにおける矛盾すらも1人の人間に固有性に押しつけられる二律背反のことではなかったはずだ。

          カントの復権になぞらえるような事象は何度も失敗し、失敗した先にはニーチェが待ち受けており、実際にはその繰り返しだが、では同一律を支えていたかつての現実はどこに消えたのだろうか。ヘーゲルにおける矛盾すらも1人の人間に固有性に押しつけられる二律背反のことではなかったはずだ。

          日記。

          反知性主義は問題だが、しかし、彼らはイデア論におけるプラトン的なものに反発しているのではなく、 国家論におけるプラトン的な人為性に強調された現象面に下降されたイデアのあり方に反発しているのではないか。 つまり、イデアのあり方に対するイデアが必要となるか、哲学を語り、彼らのためを云々するのであれば、イデア論と国家論を対峙させなければ、哲学の問題であるはずの同一律の喪失の責を反知性主義者に押しつけているだけとなり、 成す術がないのだから、世間的なカント復権に手を貸すことしかならな

          民俗学についての日記。

          学術組織を民俗とした民俗学と、資本主義の反映を語る民俗学は成立するのだろうか。 前者は即物的に物事を見る観察者集団の民俗であり、自らを語りうるかという存在論となり、 後者は一揆にあるような暴力を語りうるかで、暴力は社会学でも事件として扱われるからだ。 つまり、日々の営みから民俗性を抽出する現代人に民俗はあるのかということであり、意識的な民俗への回帰に現れる民俗性に通じている。 民俗はしばし、ままならない自然への対処として現れる。環境のほうに公的なものを生成させる自然の不在があ

          民俗学についての日記。

          つまるところ、現代アートの終わりそのものになって自ら逆説に至ったアートには、もはやなんの意味もなく、存在理由が行方不明なら芸術家の存在理由そのものが必要なのかもしれない。 存在より、理由の有無が問えるが隠遁か待機になる。到来しない神代からの発注でも待つのか。

          つまるところ、現代アートの終わりそのものになって自ら逆説に至ったアートには、もはやなんの意味もなく、存在理由が行方不明なら芸術家の存在理由そのものが必要なのかもしれない。 存在より、理由の有無が問えるが隠遁か待機になる。到来しない神代からの発注でも待つのか。

          表象文化論

          表象文化論は、文学に必要な類推能力を柳田民俗学のように機能させている。この我々探しと"テーマ批評"ではない。という否定神学で短絡的な非権威の権威化との両建てによって、たんなるめんどくさい趣味人の拠り所と化したのだ。 文化にとって表象は文化の表出であり、文化そのものなのだが、表象を文化とするならば、視聴覚文明論で事足りてしまうからだ。 彼らはまた、ある映画を酷評するにしても激賞するにしても、体質に付随した観念としての映画の理想形と比較しているが、その物差しは目の前の映画との関係

          表象文化論

          MBTIについてわかったこと。

          MBTIは診断として己が何者かが分かったことを結果のままにできず、その結果には反映先がある。 その特性を使って成果を出さねば、分かったところの己は、再び人を無価値化するだけだ。 擬似宗教としての血液型診断は他者を発見し、分断を生んできたが、MBTIは特性が16個もある複雑さが分断を成立させにくくし、先の社会に反映させる成果の高度化が、 思考の特性が分かったところで無価値な自分を認めたがらないため、それが受容において、暇潰しのままでいられ長命な秘密なのだろう。 血液型診断と占星

          MBTIについてわかったこと。

          科学と政策について。

          薬害騒動はごく表面的なところで科学技術を用いた政策における大本営発表と陰謀論者が闘っているように見えるが、 諸々の混乱の背景は、その政策を受ける市民の懐疑主義が再帰的な正統派となったため、懐疑主義者を異端に回収しなければならなくなっていることにある。 近世から現代にかけての科学の成立には、語りで成り立っていた世界を宗教的な権威から切り離し、自然現象として語るには懐疑が必要だったが、 現代では科学において生活に反映された基礎が十分に蓄積しており、いわば科学とは第一段階として習う

          科学と政策について。

          科学と神の存在形態は実在性の不在に補完されている。倫理に接続し統制や移動制限に用いた場合、最終的な責任者は実在する司祭や科学者等の人となる。神は間違わないと主張できたように、科学そのものもまた間違わないため、裏返せば、技術的に反省しさえすれば任命権者だけは間違い放題となる。

          科学と神の存在形態は実在性の不在に補完されている。倫理に接続し統制や移動制限に用いた場合、最終的な責任者は実在する司祭や科学者等の人となる。神は間違わないと主張できたように、科学そのものもまた間違わないため、裏返せば、技術的に反省しさえすれば任命権者だけは間違い放題となる。