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民俗学についての日記。

学術組織を民俗とした民俗学と、資本主義の反映を語る民俗学は成立するのだろうか。
前者は即物的に物事を見る観察者集団の民俗であり、自らを語りうるかという存在論となり、
後者は一揆にあるような暴力を語りうるかで、暴力は社会学でも事件として扱われるからだ。
つまり、日々の営みから民俗性を抽出する現代人に民俗はあるのかということであり、意識的な民俗への回帰に現れる民俗性に通じている。
民俗はしばし、ままならない自然への対処として現れる。環境のほうに公的なものを生成させる自然の不在があれば、民俗性を抽出するそのような意識そのものが、世界が近代化してからの生活圏内におけるままならない自然の最たるものだと言えるからだ。
別に民俗学でやらなくても良いのだろうが、それが不在だと、民俗学が民俗学であるために、生活様式の中から自己生成したかのような側面だけをながめ、
てんでばらばらに、依然として他者と生病老死を発見し、それを介して再発見した自己の話をしているだけとなる気がするからだ。
それならば、民族不在で民俗性を発見するところがゴールとなるので、民俗学は家族の単位を越えられないまま、人間の責任しか存在しない世界をさ迷いつづけることになる。

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