見出し画像

アルコール依存の祖父のトラウマと、祖父が遺したフィルムカメラの話。

 むかーしむかし、埼玉のあるまちに、まだ小さい頃の私がいました。小さい頃の私は天文が好きで、図書館で天文の本を借りてきては、この恒星は赤色超巨星で表面の温度がどうとか、この星座とこの星座にはこういう神話があってとか、そういう知識を蓄えていました。そして覚えたことを幼稚園の先生にわーっと話して、うんうんと聞いてもらうのが毎日の楽しみでした。図鑑には私の興味を引く文章や数字、写真や絵がたくさんありました。その中でとくに好きだったのが、北極星を中心にコンパスでたくさん曲線を描いたような長時間露光の写真でした。北極星を中心にして、色も大きさもさまざまな光の半円が、地球の自転を写像するのだと想像しては、その壮大な秩序にうっとりしていたのです。(大きくなった今の私はインターネット上では「アポラ」を名乗っていますが、元を辿ると北極星の英名「ポラリス」がその由来なんですよー!)(下の写真はこちらからお借りしました)

画像15

 埼玉の家からは星もほとんど見えないので、天体を見るよりももっぱら本を読むことに時間を使っていた私ですが、だんだんと、図鑑に載っているような長時間露光の写真を、自分も撮ってみたくなったのです。その写真をとるためには、シャッター速度を「バルブ」にできるカメラとレリーズケーブルが必要だと本に書いてありました。家にあったコンデジは長時間露光にもレリーズケーブルにも対応していなかったので、どうしたものかと困っていると、祖父が使わなくなったフィルムカメラをくれました。

画像7

 カメラ屋さんをいくつか回って、となり町の個人経営のカメラ屋さんでレリーズケーブルを買ってもらいました。これでやっと、図鑑に載っているような写真がとれます。さっそく、夏休みの家族旅行に持っていきました。カメラを三脚にのせて、シャッター速度を「B」にして、フィルムを巻き上げて、レリーズケーブルを押し込んで、つまみを回してロック、しばらく放置して、もうそろそろ良いだろうという頃にロックを開放、シャッター幕が閉じて、できあがり。

 やっと撮れた長時間露光の写真ですが、なんだかそれで満足してしまって、それからフィルムを撮り切ることもなく、現像に出すこともありませんでした。もっとも、その頃の私は、ピント合わせや絞りといった概念も知らず、NDフィルターも無しで数十分間の露光をしてしまったので、現像に出しても図鑑のような写真が撮れているかどうかは怪しいところですがね。いずれにせよ、祖父のカメラの存在はしばらく、押入れの奥に忘れられることになります。

================

 時は流れ、私が中学校に上がった頃のことです。優しくて頼れるかっこいい祖父は、いろいろなつらい出来事が重なってアルコール依存になり、家庭内はめちゃくちゃになりました。私たち家族は逃げるように家を出ました。荷物を整理する時間は無く、手当り次第に引っ越し先へ持っていきました。その荷物の中には、祖父のカメラも含まれていました。

 その後、しばらく経って、祖父の体調が悪化。そのまま祖父は亡くなりました。祖父のアルコール依存でたいへんな目に遭ってきた私たち家族は、死にゆく祖父に優しい言葉をかけることができませんでした。

 祖父の死後も、私たち家族は祖父に対してトラウマのような感情を持っていました。むろん私も、祖父のことでたくさん傷つきましたし、家族をたくさん傷つけた祖父のことを許そうという気にはなりませんでした。

 祖父のカメラが入った荷物は、引っ越し後の私の部屋の押入れにありました。早く捨ててしまいたかったのですが、不本意な死に方をした人の遺品を粗末に扱うとなんだか祟られるんじゃないかというような気がして気持ち悪かったですし、荷物をあけるとイヤなことを思い出してしまうので、記憶に蓋をするように、押入れの奥に仕舞い込んだまま、カメラの事は忘れて過ごしました。

================

 年月が経つと、トラウマはなぜそれがトラウマだったのか思い出せなくなるもの。大学生になった私は、傷がかさぶたに変わるにつれて、祖父はどうしてあのような死に方をしなくてはならなかったのかと考えるようになりました。祖父のことが許せない気持ちは変わらないけど、今から当時の状況を振り返ってみると、なんだか祖父を責められないような気がしてきたのです。同時に、死にゆく祖父にやさしい言葉をかけられなかったことが、段々と心残りになってきました。

 祖父に対する複雑な感情を抱えたまま、どうにかこの気持ちに決着をつけられないかと思いを巡らせたところに、祖父のカメラの存在を思い出しました。祖父のカメラで写真を撮ることで、もう会えなくなってしまった祖父との別れをやり直して、ありがとうね、ごめんねと、伝えられるんじゃないかって。気づくと、荷物の中から祖父のカメラを探し出して、動作確認をはじめていました。

画像12

 通気の悪い場所で長期間放置されたカメラの状態は最悪でした。レンズはカビだらけで、すりガラスさながら。レンジファインダーの二重像も見えずピント合わせもままなりません。それでも、巻き上げレバーを引いて、シャッターボタンを押すと、シャッター幕はちゃんと動いています。これなら、写りはどうであれ、なんとか写真は撮れそうです。でも、正確なピント合わせもできず、露出計も無く、そしてどうしようもなく状態の悪いカメラをどのように扱ったらいいものかと、途方に暮れました。

 思い巡らすうちに、フィルムカメラについての知識が足りないのであれば、完動するフィルムカメラを買って使い方を勉強すればいいんだと思い至りました。それにしても、長い歴史の中で進化を重ねてきたフィルムカメラにはとても多くの種類があり、自分に適したものを探すためにはまとまった量の調べ物が必要でした。いろいろ勉強してフィルムカメラの知識をつけていって、縁あってオリンパスOM-1という機械式の一眼レフを迎えることになったのですが、その頃には祖父のカメラで写真をとるにはどうすれば良いのか、一通りわかっていました。

画像11


画像10

 正確なピント合わせができないのは、なるべくF値を大きくして絞り込めば「写ルンです」のように全体にピントが合いますし、目測で「あの被写体までは大体何メートルくらいかな」というような要領で大体のピントを合わせてしまえば、大きく外すことはありません。F値を大きくするとレンズを通る光の量が少なくなり、薄暗い場所で写真をとるのが難しくなってしまいますが、なるべく感度の高いフィルムを使えば問題ありません。露出は携帯のアプリがあって、ISO感度とF値を入れれば、照度センサーの値から計算して適正露出になるシャッター速度を教えてくれます。これで、マニュアル露出と目測のピント合わせでもなんとか使えそうです。といってもカメラの事なんてほとんど知らない状態でこの手順の多さでは、気軽に撮れるようなものではありません。そこで、露出と目測の感覚を身に着けられるよう、機械式・目測のハーフサイズカメラ「CANON Demi S」を買い足して、いつもの散歩道を撮って回って練習することにしました。ここはこれくらいの明るさかな?と勘で露出を合わせて、携帯のアプリで答え合わせをして、というようなことを繰り返すにつれて、感覚で概ね適正露出を当てられるようになりました。これなら、露出計がない祖父のカメラでもテンポよく撮影できます。

画像13

画像12

それでもやっぱり覚えることは多くて、あれやこれやと勉強しながらだったので、37枚撮りのフィルム1本を撮り切るためにずいぶんと長い期間が掛かりました。

 撮り終えたら、せっかくのご縁と思って、小さいときにレリーズケーブルを買ってもらったとなり町の個人経営のカメラ屋さんに足を運んで現像をお願いしました。そして出来上がったのがこちら。

画像5


画像2

レンズの状態は絶望的でしたが、祖父のカメラのレンズはなんとか像を結んでくれていました。写真が「写ってる」なんて今となっては当たり前のことだけど、それだけで嬉しくて飛び上がるほどでした。

画像17

 死人に口なし。死んでしまった人とはもう、どうやっても、話すことは叶いません。謝りたいとき、感謝の言葉を使えたいときに限って、往々にして、もうその人にはもう会えないもの。それでも、祖父のカメラを私の首に提げれば、祖父といっしょにいろんなところへ行くことができ、現像された写真を見れば、祖父から返事をもらったような感覚になりました。そうです。撮っているときには気づきませんでしたが、私が祖父のカメラのファインダーを覗いているとき、私は祖父といっしょに景色を見ていて、シャッターボタンを押すことで「こんなものを見たよ」と祖父に話しかけていたんですね。現像から上がったネガを仏壇に供えて線香をたくと、なんだか祖父に言えなかったことをぜんぶ言えたような気がして、気持ちがすっとしました。

 このカメラを通して、祖父と話すことができる。そうとわかったら、祖父のカメラをいろんな場所に連れていって、いろんな景色を見せたいと思うようになりました。何でもないちょっとした用事でも、首から祖父のカメラを提げて、シャッターを切って、今日はこんなところに行ったよと祖父に話しかけました。

画像14

画像3

画像4

 家族が祖父に対して複雑な感情を持っていることは知っていたので、祖父のカメラの話を自分から家族にすることはありませんでした。とくに母親は、一連の出来事の中でいちばんつらい思いをしているはずなので、祖父のカメラを持ち出しているところをあまり見せないようにしていました。でも日常的に持ち歩いているとなると、家族に隠し事は通用しませんね。自分の首から提げた祖父のカメラを見た母が、祖父もカメラや写真が大好きだった、まだ前の家の物置を探せばカメラやレンズがあるんじゃないかと教えてくれました。あれだけつらい思いをした母親でも、この長い年月のあいだに、着々と記憶の整理をすすめていたんだなって。時間とは偉大なものですね。

画像8

 祖父に話しかける手段を得た私ですが、お別れは突然に来るもの。つい先日のことです。2本めのフィルムをもうほぼ撮りきってしまうくらいのところで、シャッターが閉じなくなる問題が発生。このカメラを製造したペトリカメラはすでにカメラ事業を畳んでしまっています。また大衆機ゆえ構造も複雑で、自力での修理も困難を極めるそうです。これではもう写真は撮れません。いずれレンズもレンジファインダーもきれいにしてこの祖父のカメラでいい写真を撮るんだと意気込んでいたのに、また、祖父とお話しできなくなってしまいました。

 でも、言いたいことを伝えられた後の二度目のお別れは、何も伝えられなかった一度目の頃とはきっと違いました。私が祖父のカメラと、祖父との記憶と、過去と、向き合って、言葉を交わせたことで、きっと十分なのでしょう。

画像6

画像1

 ところで、祖父の残したカメラのおかげで、すっかりカメラの沼にはまってしまいました。手許には、ちゃんと動くフィルムカメラが2台と、こだわって選んだデジタル一眼カメラと、たくさんのレンズ。冷蔵庫をあければ、買い溜めたフィルムがたくさん。光が入らないよう細工した押入れをあけると、自家現像に使う道具一式と、業務用の通販に登録して取り寄せた薬品一式。祖父も写真やカメラが好きだったそうですが、下手すると私のほうがハマってるんじゃないでしょうか。祖父は天国にいるのか地獄にいるのかわかりませんが、すっかり沼にはまった私を見たらきっと大笑いしそうです。

画像16

あるいは、自分がこうやって写真を続けることで、祖父とのつながりを繋ぎ止められるのかもしれないですね。これからも、めいっぱい写真を楽しんでいければ、祖父の写真趣味の続きになれるでしょうか。自分が写真を続ける限り、いっしょにいるような。なんだかそんな気がします。

 昔ばなし風の文体はどこ行っちゃったんでしょうかね。思いのほか長くなってしまいましたが、祖父のおかげでまんまとカメラの沼にはまってしまったという話でした。めでたし、めでたし。

この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?