見出し画像

#ネタバレ 映画「風立ちぬ」

「風立ちぬ」
2013年作品
置き去りにされた者の哀しみ
2013/9/3 21:27 by さくらんぼ(修正あり)

( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

最初に私がそれを感じたのは、確か30代も後半の頃です。それまではトレンディー・ドラマみたいな、青年部・婦人部的グループ交際が、ごく、あたりまえだったのに、その日突然に、疎外感を感じたのです。

そして、もうグループからは卒業で、これからは義理で誘われても遠慮すべきだと、まちがっても自分が幹事になって皆を誘い、哂われてはならないと、そんな哀しい覚悟をしたのでした。いつもの通り、皆は優しいけれど、見渡せば、自分だけが飛びぬけた年長者になっていると、鈍感にもその日、初めて気がついて・・・。

その後、年月はさらに通り過ぎ、何回と無く、精神的、肉体的な、いくつかの節目を通り過ぎて、歳を深めてきました。そして、つい最近も、新たなる老いの一里塚に気づき、愕然としたのでした。

老いるとはどういうことなのか、賢人の色々な言葉が残っていますが、この映画からは「老いとは置き去りにされる事である」と、聴こえてきたのでした。

二郎は、最後には、ゼロ戦(一機も戻らない)と、菜穂子(死に場所を求めて出て行った)から、置き去りにされています。もう両者には夢の中でしか逢えない。二郎の輝ける10年は終わりました。

他にも、軽く4月入社でOKだと思っていたら、3月中に来なければいけなかったとか、希望しても親友とは一緒に働けないとか。また、初仕事はすでに完成していたとか・・・。

また、背負われて救出された女性が、やもうえない、とは言え、一時的にせよ置き去りにされたとか。その女性との再会では、逆に女性から二郎が置き去りにされたとか・・・。だから彼女は主題の為の人物かもしれません。

震災の日の菜緒子も、家に送り届けてもらっただけで、二郎は名乗らずに、帰って行ったとか。菜緒子との初ディナーの日には、菜緒子の体調が悪くなり、ドタキャンとなったとか・・・。

想いおこせば、これは、たぶん、これは映画「グラン・ブルー」と似たような主題を持つ映画だったのでしょう。

あの映画も(以下ネタバレ・未観の方はご注意)、

ジャックはイルカに恋をし、女はジャックに恋をし、エンゾ(LGBTと思われる)もジャックに恋をして、三角関係の三人全員が、実らぬ恋に、置き去りにされる者の哀しみ、を味わうものでした。

映画「風立ちぬ」は宮崎監督72歳の絶唱なのでしょう。

彼は、つねに人より半歩先を歩かなければならない世界のトップ・クリエーターでありながら、密かに内面に膨らみつつある「置き去りにされた感」に悩んでいたのでしょうか。

特に若者に観せたいアニメであるのに、そのクリエーターの自分は、だんだんと老人になる。それでも、少しでも高く飛ぼうとして、心身ともに無理をしすぎたとき、ふと脳裏をよぎる空中分解の恐怖。

だから、それを映画作品に込めて昇華するという、クリエーターの正攻法を成すことによって告白し、精神のバランスもとりたかったのかもしれません。

私は映画「グラン・ブルー」で激しく心を揺すぶられたのと同様に、今回、映画「風立ちぬ」でも、心の奥のほうから染み出てくる涙をこらえ切れなかったのでした。

効果音を、ぞくそくするほど、なまめかしい、人の声で作ったり、映像全体も、シーンによって画風を変えるなど推敲を極め、私は抑制の効いた日本的名作の誕生だと思います。その誕生の瞬間を映画館で味わえて良かった。

宮崎監督にはお礼を申しあげます。監督はリタイアしたのちは充分に余生を楽しんでください。そして、充分に充電して、もしも退屈し始めたら、私たちは、いつでも次回作をお待ちしております、と本当は言いたいのですが、これからは、ご自分の為に生きてください、と申しあげておきます。

★★★★★

追記 ( 菜穂子という精霊 )
2013/9/4 13:56 by さくらんぼ

>二郎は、最後には、ゼロ戦(一機も戻らない)と、菜穂子(死に場所を求めて出て行った)から、置き去りにされています。もう両者には夢の中でしか逢えない。二郎の輝ける10年は終わりました。

モーツァルトに作曲の秘訣を尋ねたとしたら、きっと彼は言うでしょう。「簡単だよ。耳を澄ませば、天上から聴こえて来るんだよ、音楽がね。僕は、ただ、それを五線譜に写し取るだけさ。君には聴こえないのかい?」なんてね。

天才の仕事と言うのは、どんな分野でも、大なり小なりそんなものでしょう。そこには凡人には伺い知れない、神がかり的なインスピレーションの降臨があるのだと思います。

ところで、ゼロ戦について私は詳しくありませんが、どこかで「ゼロ戦は二郎の天才的なインスピレーションの中で誕生したもので、その飛行能力は、航空力学の常識を越えた様なところにまで達している」と、正確ではありませんが、概ね、そういう意味の事が書かれてあったのを読んだ事があります。ゼロ戦は神がかり的な高性能機であったのですね。

宮崎監督は、この「神がかり的な部分」をなんとかアニメの描写として可視化したいと思ったのかもしれません。もしカッコいい空中戦のシーンがそぐわないのなら、設計シーンででも描こうかと。

そこで登場したのが菜穂子でしょう。

二郎と菜穂子は風のなかで出会いました。一回目も、二回目も、これが風の記号。

二郎と菜穂子は森の奥深くの水辺で出会い、お互いへの想いを交換しました。風の精霊ですから水はあまり関係が無いのですが、水辺はロマンチックですから男女の逢瀬には、最適でしょう。これが精霊の記号。

二郎と菜穂子は飛行機会社の上司の家で、上司を仲人に、結婚しました。飛行機との因縁の記号ですね。

そして、結婚式で菜穂子が着ていた着物の意味は、広げて衣紋掛けに掛けてあるシーンで明白になるのですが、あの形は、羽のある飛行機の記号。

ならば菜穂子が髪飾りに着けていた、髪飾りの大輪の花は、飛行機のプロペラの記号でしょう。

つまり、たとえ菜穂子が表層の物語では人間だったとしても、菜穂子に込めた監督の深層での思いは「風の精霊」、もッと言えば、尊敬するイタリア人師匠のごとく「飛行機の精霊」だったのかもしれません。

そう見ると、菜穂子が布団から手を出して二郎の手を握りつづけたことの、理解の補強も出来ます。あれは単なる愛情表現だけではなかったのです。ああやって精霊は飛行機へのインスピレーションを二郎へと送り続けたのでしょう。

やがて、その甲斐あって見事にゼロ戦は完成します。でもゼロ戦はすぐに飛び立ち、一機も戻らなかった。菜穂子が早死にする運命だったのは、ゼロ戦と符号させているからでしょうね。両者は一心同体ですから。

仕事を恋人に出来た人は、なんと幸せな事でしょう。私にも確かに輝ける10年はありましたが、それは、なにも創造的なものに結びつきませんでしたから。

追記Ⅱ ( 青春時代は美しい )
2013/9/5 14:22 by さくらんぼ

>そう見ると、菜穂子が布団から手を出して二郎の手を握りつづけたことの、理解の補強も出来ます。あれは単なる愛情表現だけではなかったのです。ああやって精霊は飛行機へのインスピレーションを二郎へと送り続けたのでしょう。

本文でも書いた通り、この映画は宮崎監督の告白なのでしょう。普通、告白とは、今まで言えなかった本音を言うことです。

今、平成の、反戦思想を持っている男の子でも、内心、たぶん多くの人が、戦闘機でも駆逐艦でも、カッコいい兵器が好きなのだと思います。だからガンダムとかヤマトとか、そんなアニメにも人気があるのでしょう。

それなら監督の様な軍国時代をリアルに生きた少年なら、今は、平和主義者であっても、なおさら兵器好きでしょう。いわゆる古き良き青春時代の、甘いずっぱい記憶の一部であるはずです。今回、監督はその気持ちを包み隠さなかった。だから今、ゼロ戦なのでしょう。

そしてタバコ。

今でこそ禁煙の時代ですが、つい、この間までは、タバコに市民権が認められていました。

公共の場、たとえば区役所などに行っても、タバコの煙で、部屋の奥が白く霞んで見えるほどにモウモウとしているのが珍しくありませんでした。そのデスクには一つずつ灰皿が置いてあり、職員は勤務中でもくわえタバコで仕事をしていたものです。

映画館でも同様で、ロードショーともなれば煙モクモク状態でした。それなのに、ろくに換気もせずに昼の回を上映し、朝一番で観に行った嫌煙家の私は、喉を痛めて寝込んだ経験もあります。

そんな、タバコ時代を過ごし、自らもタバコを吸われる監督が、「あの当時の時代考証では、なおさらクリエーターには、タバコがつきもの、なんだけどねぇ・・・」と、もしも、そんなふうに考えたとしても不思議ではありません。

この映画にはタバコのシーンが多数出てきます。カットしようと思えばいくらでも出来たはずなのに、余剰なほど出てくるのには、逆に、確信犯的な、それなりの意味が込められているはずなのです。

それを、あえて言うならば、タバコ=「不足感・渇望感」なのでしょう。何かが、足りないから、それをさがして、もだえながら一服するのです。言うまでも無く、足りないのは、飛行機設計のインスピレーションであり、時代や境遇に対する満足感なのでしょう。

クリエーターが灰皿を吸殻で一杯にしても、なお、タバコを口から離さず、頭をかきむしりながら、唸っている・・・というのは、よく見るステレオタイプなシーンですね。そんなとき、彼らは「足りない、足りない・・・」と悲鳴を上げているわけです。

そして、このシーン。

菜穂子(風の精霊)が結核の病床の中でも、隣席の二郎がタバコを吸います。

これを前述の流れで意訳するならば、二郎が風の精霊に対して、「もっと、インスピレーションを!」と要請しているのと同じになります。そのシグナルを聴きたいために、あえて精霊はタバコを許したのでしょうか。

そして二郎がタバコをふかす。

すわ、要請が来た精霊は、ただちに最適な返信のインスピレーションを送ったのでした。

追記Ⅲ ( タバコとキス ) 
2013/9/13 14:23 by さくらんぼ

映画「異人たちとの夏 」のネタバレ話しをします。(未観の方は、ご注意下さい。)

主人公の原田は、離婚して、疲れ果てていました。そんなある日、幼い頃に住んでいた浅草で、驚愕の出会いをします。彼の両親は、原田が12歳の時、すでに交通事故で他界しているのですが、なんと、その両親が、その時の年齢のまま、浅草に住んでいたのです。やさしかった両親との夢の様な再会。それから毎日の様に、両親の家に通う彼。しかし、両親は幽霊であり、幽霊と交わり続ける彼は、次第に生気が無くなり、衰えていくのでした。

甘味ですが、怖いですね。この映画の主題はともかくも、この、あらすじ、から言える事は、「ノーペイン、ノーゲイン」と言うことでした。

ここで映画「風立ちぬ」の話に戻ります。ある意味、ちょっと、似ています。

室町時代、キスは「口吸い(くちすい)」と呼ばれていました。そんな、話しを持ち出すまでも無く「タバコを吸う」と「口吸い」は相似形記号の意味もあるのかもしれません。つまり、関連付けて解釈する必要があると思います。

二郎が所かまわずタバコをスパスパ吸っているので、この禁煙時代になんたることかと、話題になっているこの作品ですが、タバコに市民権が認められていた当時も、禁煙時代の現在でも、タバコに、健康へのマイナス・リスクがあることには変わりありません。つまり・・・

二郎は、タバコをスパスパ吸ってインスピレーションをもらいました。でも、その代償として、後日、健康被害を受ける定めにあったのです。

二郎は、結核の菜穂子(風の精霊)にキスを(Hも)してインスピレーションをもらいました。でも、その代償として、後日、感染を受ける定めにあったのです。でも、二郎が意識している、いないに、かかわらず、キスをし、結婚式を挙げて、初夜の儀式をすることは、女への愛の証であり、インスピレーションを受け取るために避けて通れない重要パフォーマンスだったのですから、ここでは、やもう得ませんでした。

そして、映画のラストで、夢の中の菜穂子は「生きて」と言いましたが、(私の記憶違いでなければ)絵コンテには「来て」となっているらしいのです。真逆ですね。

つまり、二郎は、菜穂子からインスピレーションをもらうかわりに、肺を病んで「死」という代償を払う結末になるという話が、オリジナルだったのかもしれないのです。タバコでも結核でも病巣は「肺」でしたね。

と、いうことは、喫煙に無神経だったのではなく、逆に、喫煙者の健康被害リスクを描いていた。もっと言えば、これは直接的な主題ではありませんが、宮崎監督は「俺みたいにタバコを吸うと早死にするぞ」とも、言っていたかもしれないのです。

しかし、映画制作の土壇場でセリフがひっくり返った。理由は分かりませんが、二郎が死んだら、あまりにも暗すぎる話しになったのは間違いないでしょう。そのため、喫煙者の健康被害というメッセージも、煙に巻かれて霞んでしまった恨みが残りました。

追記Ⅳ ( 音も演技してます )
2015/7/16 15:01 by さくらんぼ

昔、ステレオ屋さんでスピーカーを物色していた時の話です。

「シンフォニーの音はこっちの製品が良いけど、聖子ちゃんの声はあっちが良いね!」とか言って、迷っていたら、店主さんに「あなたは、聖子ちゃんの生の声を聴いたことがあるの?」と言われました。

私は、デビュー当時の、初々しい聖子ちゃんのステージを観たことがありましたが、PA(拡声器)を通した声であり、生声は知りません。私は実にいい加減な人間です。

そんな私ですから、ユーミンさんの声にも、独断と偏見に満ちた一家言があります。

彼女の声(もちろん生声は知りません)からは、意志の強さ、密度感の高さ、ときに金属質的、そんなものが感じられます。

ひと言で言えば「鋼」のイメージ。

それから、彼女の名曲「ひこうき雲」で歌われている飛行機雲は、私がイメージするに、ジェット機が通過したばかりの空に残る、クッキリとした白線です。まだ、ぼやけていない雲です。

これはまた、映画の主人公たちが、いろんな困難にもめげず、一直線に高性能な飛行機を追い求めた姿勢ともイメージが重なります。感情が込められた強靭なラインなのです。

そして映画「風たちぬ」のラストに流れる「ひこうき雲」はLPレコードのものだそうです。

プチッという、針をLPに落としたときの音も入っています。

監督が、どのような理由でLPを選んだのかは知りませんが(もしかしたら「過ぎ行く時代」の記号だったのかもしれません)、LPレコードの音は、概ね「太めの針金のように高密度な音」なのです(カートリッジによって音色は変化しますが)。もちろん、芳醇で柔らかく。

だから、ユーミンの「鋼」の声=飛行機雲「クッキリとした白線」=LPレコードの「太めの針金のような音」になり、イメージが繋がるのです。この選択をした監督のセンスは抜群。

では、CDの音はどうかと言うと、これはCDプレーヤーによって違いますが、概ね「紙テープの手触りのような、さらり感のある、低密度の音」なのです(初期の頃は特にそうでした。でも最近のものは、だいぶ高密度化してきました)。

ですから、もしラストの歌をCDで流したなら、感動の密度感も、違った味わいに、なっていたのかもしれません。

映画を見るときは、みなさま、貴重なLPの音もご堪能ください。

音も演技してます。


( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?