昔の夏

 あれは何年前のことになるのだろうか。当時付き合っていた彼と、旅行に行った。二人で行く初めての旅行だったと思う。わたしはまだ24歳とかそういう年齢で、彼はわたしよりも何歳か上で28とかそのくらいだったと思う。もちろんわたしは結婚していなくて、まだ夫も子供もいなかった。その彼とは、偶然が重なって、わたしの方から好きになって、仲良くしているうちに、なんとなく付き合うことになった。まだ付き合ってまもない頃の旅行だったので、一緒にどこか遠くへ行ける、というだけで楽しかった。彼は車を持っていたので、それに乗って、彼の運転で二人で出かけた。行き先は、確か彼のチョイスだったと思うが、西伊豆だった。平日だったので、いい感じのところに安く泊まれたし、街も空いていてよかったのを覚えている。当時も暑かったと思うが、いまよりもまだマシだったような気がする。暑くても30度とかそのくらいだったような気がする。いまみたいに、40度近いわけのわからない暑さにはならなかった。当時は、昼間に普通に外を歩けた気がする。その旅行では、海にも行ったし、温泉にも入ったし、囲炉裏が用意されていて、そこでマシュマロを焼いて食べた。その彼は、伊豆が好きで、昔から何度か来ていた、というようなことを言っていた。きっと前の彼女とも来たりしていたんだろうな、と思ったが、もちろんそんなことは聞けなかったし、聞きたくもなかったから、聞かなかった。あれからまだ10年も経っていないというのに、なんだか、いろんなことが随分といまとは違ったような気がする。守る家庭もなければ、子供の世話もなかった。伝手で紹介された仕事をわたしは適当にこなして、適当に友達に代打を頼んで平日に休みをとれたし、彼だって適当に平日に休みを取れるくらいには自由に生きていた。暇だなぁ、と最後に思ったのはいつだろうか。なんでそんなに目まぐるしく忙しなく日々が過ぎていくのかわからないし、わたしが日々こなしていることをリストに書いたりしても、大した内容にはならないだろうというのに、それでも、息を吐く暇もなく毎日が過ぎていく。当時のわたしの仕事は午後からの勤務の仕事だったから、昼過ぎにだらっと出勤していた。彼も、本当は昼前から仕事があったはずだが、わたしの部屋に泊まりに来ると、だらっと昼過ぎまで過ごして、遅れて仕事に行っていた。家族に起こされたりすることもなければ、目覚ましもかけなかった。だらだらと夜更かしして、眠くなくなるまで寝る。それで、さすがに昼だから起きるかな、とのそのそと起きる。目が覚めてもすぐには布団からは出なくて、エアコンの効いた部屋の、狭いシングルベッドで並んで寝ている彼といちゃいちゃしたりして、わたしの1日は始まっていた。畳の部屋に、木のフレームのベッドを置いていた。ベッドの足の下には薄いベニヤ板が敷いてあって、畳にベッドの脚の跡がつかないようにしてあった。その部屋に住み始めた時に、わたしの父が敷いてくれた板だった。きのうの夜もしたのに、彼もわたしもまだ若かったからか、そのうちにすぐにその気になってしまい、起き抜けにそのまま、またしたりして、それから遅すぎる朝ごはんを食べて、わたしの仕事にギリギリ間に合う時間に、二人で家を出て、彼のバイクとか車に一緒に乗って、出勤する、というような日々だった。あの部屋に住んでいたのは2年くらいだったが、彼の前に付き合っていた人は、部屋に来たりする前に別れてしまったので、部屋に来たのは彼だけだった。彼は料理が得意で、頼んでもいないのにいつもご飯を作ってくれた。わたしは当時はまだ同棲の経験はなかったので、同棲したらこんな感じなんだろうなぁ、と彼が泊まりに来た時にいつも思っていた。伊豆に旅行に行ったのは、たぶん、付き合って1ヶ月も経っていない頃だったと思う。お互いのことを知らない方が、恋は楽しい。味が変わる飴玉を舐めているような感じで、少しずつ知りながら、好きだなと思ったり、嫌だなと思ったりする部分を、相手の中に見つけていく。そういう日々からも、随分遠いところに来てしまったなぁ、と思う。結婚してもうすぐ6年になる。その彼と別れて次に付き合ったひととわたしは結婚した。その彼のことがわたしは大好きだったが、少し変わった人で、わたしとは違う世界を生きているんだなぁ、と思うことも時々あった。わたしの夫は、そういう意味では平凡な人かもしれないが、同じような世界を、同じような感覚で生きている人なので、結婚生活をここまで無事に過ごすことができてきた。あの彼とも結婚したいと思ったことがあったが、いま思うと、なんだかそれは現実的ではなかったような気がするし、たぶん、ふたりとも、若かったんだろうな、と思う。きちんと避妊はしていたが、もし何かの間違いで彼との子供をわたしが妊娠したりしていたら、どうなっていたのだろうか。一度、随分と生理が遅れたことがあって、もし妊娠したりしていたら親に何て言われるかわからないし、仕事もあったし、とても不安になったことがあった。わたしがうじうじ言っていたら、思い詰めた表情で彼が検査薬を買ってうちに来てくれた。どきどきしながら検査したら陰性で、生理が来ていなくてそれどころではなくてしばらくしていなかったから、その夜は、久しぶりに思いっきりセックスをしたのを覚えている。伊豆の旅館でもしたし、夜の海でもちょっとだけした。旅館はいいとして、夜の海では、どんなに夫に頼まれたとしても、いまだったらちょっともうしたくない。きっとそれも、若かったということなのかもしれない。家族が寝静まった夜に、別に戻りたいわけではないけれど、でも、二度と戻らない日々のことを思い出して、昔の夏って、いまよりもなんだかキラキラしていたな、と思った。暑過ぎて草もしおれるし、昼間は外を出歩くことすらままならない夏になってしまったし、わたしも20代前半ではなくて、30代になってしまった。でも、あのキラキラした感じは、ちょっと懐かしくて、すこしだけ恋しい。十分楽しんだはずなのに、忘れてしまうのかもしれない。まだ若くて何も考えていなかったわたしは、彼と過ごしているときに、幸せだなぁ、と思っていた。夫と子供と過ごす日々にも、もちろん幸せを感じるが、種類が少し違うような気がする。いまの暮らしにある幸せは、地に足が着いている感じがする。どこかへ飛んでいってしまったりはしない、日々の糧の中にある、幸せ。あの彼とは一緒にはなれなかったし、ならなかったが、だからこそ、今の暮らしにはない、フワフワとしてキラキラした幸せの瞬間が、そこにはあったような気がする。日が落ちて、吹く風が涼しくなって、夕飯の後に、旅館のまわりと彼と散歩した。いまは、夜になってもちっとも涼しくなんかならないし、湿度も高いままだし、吹く風も生ぬるくて、外を歩いていると夜でもすぐに汗が滲んでくるが、当時は、夜はひんやりと涼しかったりした。散歩の途中でドラッグストアに寄って、わたしは日焼け止めを、彼はビールを買った。ドラッグストアを出て、誰もいない駐車場を眺めながら、虫がたかる白々しい蛍光灯の下で、わたしたちはキスをした。

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