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公衆電話と日曜日

 昼下がりにやっと出かける気になった。どういうわけか、何に対しても意欲がわかなくなるときがたまにある。特に、予定のない休日はその傾向が顕著になる。長く、土日とか祝日とかのカレンダーとあまり関係のない働き方をしていたこともあって、予定のない休日というものをどうやり過ごして良いのかわからなくなる。美術館とかテニスコートとか、そういう場所は、当たり前だが、大抵、週末になると混む。それから、温泉とかスーパー銭湯とか、あとはラブホテルとかもそうだが、週末や休日になると料金が上る。わざわざ週末に行かなくても…。平日にも自由に動けるようなライフスタイルを送っていると、ついそんなふうに考えてしまって、なおのこと、予定のない週末はすることが無くなる。街を歩くのは嫌いではない。三軒茶屋に住んでいたころは、よく、週末の駅前や商店街を散歩した。普段の平日には無い活気があって、人がたくさん集まっていることも、かえって面白かった。たぶん、用事がなかったからだと思う。用事があったり、目的があったりすると、人混みができていたりするだけでイライラするし、それだけでテンションが下がる。それで、オレはきょうも例によって昼下がりから散歩に出かけることにした。オレは、普段は履かないようにしているスニーカーを二足持っている。ニューバランスのM1400とM1700で、どちらもUSA製だ。普段履きにはMRL996などのアジア製の安いものを履いていて、1400と1700の二足は、後生大事に、無駄なくらい大切に履いている。前回の散歩では1400だったので、きょうは1700を履くことにした。柔らかく包み込むような1400と違い、1700は硬めのフィット感が特徴的だ。コツコツと硬い足音が道に響くのが心地よい。ほんとうに行き先のあてがなく、まず家をでて右に行くか左に行くかで悩んだ。同居人の女の子が自転車で出かけるというので、それを見送ってから、オレはそれとは反対方向になんとなく歩き出した。歩きながらビールのロング缶を開ける。用事がない散歩の醍醐味だ。休日の昼間にビールを飲みながら街を歩くというのは、悪いものではない。意欲のなさが、ビールで少しだけ薄まる。さびれている方の商店街を歩いてみることにした。アーケードが長く続きいつも賑わっている駅前のほうではなく、住宅街の中にある、古い商店街を歩く。休日だというのに、もしくは、休日だからなのか、シャッターが降りたままの店も多く、日が傾きかけた静かな街を、ビールを飲みながら歩く。面白い店でもあれば、そんなふうに思いながら歩いていたらいつの間に商店街は終わっていて、一番おもしろかったのは突き当りにあった中華料理屋のショーケースの展示サンプルが、経年劣化でひどく変色していたことだった。カツ丼の見本の米の部分が茶色に変色していたり、ラーメンが紫色になっていたりして、それはそれはおぞましい光景だった。なんとなく携帯で写真をとってから、隣のスーパーに入る。空っぽになったビールの缶をゴミ箱に捨てて、次のビールを買う。起きてから何も食べていなかったので流石に空腹を感じ、何か食べ物も買うことにしたが、食べたいと思うものが全く見当たらず、けっきょく、あたりめを買った。北海道の工場で作っているとパッケージには書いてあったが、国内で水揚げされたイカを使っているとは一言も書いていなかった。国産の原料を使っていれば、おそらく喜々としてそのことをパッケージに印刷しているはずなので、ということは、どこかの遠い外国で水揚げされた怪しいイカをわざわざ北海道に運んで加工しているのだろうか、などと考えながらレジに並んだ。スーパーの斜向いに公園のようなスペースがあった。門柱の石には鬼子母神と彫ってある。へぇ、目黒区にも鬼子母神があったのか、などと思いながらまた携帯でそれを写真に撮る。とりあえず中に入ってみて、一応お参りして、からそのへんに腰掛けてビールを開ける。境内で酒盛りをするのは罰当たりなのだろうか、ということについて考えながら、スルメをつまみにビールを飲む。誰か来て怒られるかもしれない、追い出されるのではないだろうか、などと思いながら、ビールを飲んだが、結局、ロング缶をまた飲み終わるまでに誰かに何かを言われることはなかった。途中、水色のトレーニングウェアの上下を着込んだ初老の男が現われたが、物珍しそうにオレのことを眺めながら広場を行ったり来たり、運動のようなことをしていて、そのうちにいなくなった。二本目のビールの缶をすてて、また同じスーパーで次のビールを買った。スーパーから出ると、隣の中華料理屋に明かりが灯って客が入っていた。営業していたんだ、よかった。と胸の裡に思いながら、店の前を横切る。何がよかったのかはよくわからないが、潰れていない店がある、というだけでなんだかホッとするような気がする。それにしても、あのひどい状態のサンプルは寧ろ撤去したほうがいいような気がするが。あれを見て店に入る人などいない、ということなのだろうか。中華料理屋の明かりで、あたりがすっかり暗くなっていたことに気づき、サングラスを外す。ぼんやりとアルコールで酔い始めた意識のなか、元来た道を戻る。食べたいものがわからなかったが腹は減っていた。武蔵小山は、ラーメン激戦区だとネットに書かれいてたが、調べる限り、個人的に気になるような店は見当たらなかった。それでも、何かを食べようとは思っていたので駅の方を目指す。途中、歩道に公衆電話があるのに気づき、なんとなく、中に入ってみる。この電話機を、一体一日に何人の人が使うのだろうか。昔の流行り歌に、公衆電話の箱の中 膝を抱えて泣きました、というフレーズがある。かつて、公衆電話が生活のなかで欠かせないものだった時代があったことを思うと、いまもこうして残っている公衆電話という物体が、なにか、遺跡のように思えてしまうことがある。昔の公衆電話のボックスは、いまのように透明ではなく、上半分に窓がついているような構造だったらしい。それで、膝を抱えて下に座れば、雨の夜に、周囲に見られることなく泣くことができた、というわけなのだろう。もちろん電話をする用事もなかったし、携帯だってあるので、何のために公衆電話に入ったのか自分でもわからなかった。それに、公衆電話のボックスに入るのなんて、何年ぶりのことだろう。なんとなく、少しだけ楽しくなって、おれはポケットから取り出した文庫本をそのままそこで数ページ読んだ。蛍光灯の白々しい明かりが活字が印刷されたページを照らす。外の方が暗いので、意識して見ないと周囲の様子はあまり目に入らないが、さしあたって公衆電話を使いたそうな人も現れないし、ただただ、日曜の夕暮れの闇がその濃さを増していく。ビールがまた空になったので、ラーメンを食べに行くことにした。文庫本を閉じて公衆電話のボックスから出ると、いつもと全く変わらない、日曜日の夜がそこに出来上がっていた。(2018/01/22/03:49)

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