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形に残すということはどういうことか

年末年始を挟んでかなり間が空いてしまいました。
あけましておめでとうございます。笑

最近はありがたいことに仕事が忙しくなかなか記事を書けていませんでしたが、また気を取り直して書いていきたいと思います。
よろしくお願いします。

私は映像の仕事をしていて、趣味で音楽もやっていて、日常的に形のないものを形にするということをしています。
いわゆるクリエイターというやつです。

なので形に残すってどういうことなんだろうとか、これを残してどうなるんだろうとか考えたりすることがあります。
ということで今日はそれについて考えてみました。

形に残すということはどういうことか

かの有名な哲学者ソクラテスは、書物を何も残していなかったそうです。
残っている書物は全て弟子がソクラテスの言動などを書き残したもので、当のソクラテス本人は記録に残すということに執着がなかったそうです。

私がソクラテスを知ったのは、大学の図書館で哲学書を読んだ時でした。おそらく初めてまともに読んだ哲学書だったと思います。
本のタイトルは忘れてしまいましたが、たしか「神とは何か」みたいなやつだったと思います。笑

忘れもしません。あの時読んだソクラテスの言葉。

ソクラテスは権力者の嫉妬や誤解によって無実の罪で投獄され、獄中で毒薬を飲まされて死んでしまいます。
しかし友人のクリトンの助けがあり、脱獄のチャンスがあったそうです。
しかしなんとソクラテスはそれを拒みます。

その時にソクラテスはこう言いました。

「一番大切なことは、単に生きることではなく、善く生きることである」(言い回しには諸説あるそうです。)

自分の価値観とは程遠い考えだったため最初は全く意味が分かりませんでしたが、どうしてもこの言葉が頭から離れませんでした。
この時の言葉に出会っていなかったら今の自分は無かったと思います。

さて少し脱線しましたが何が言いたいかというと、そんな超有名なソクラテスの偉大さも、書物に残していないと私たちは知ることが出来なかったということです。
当然ですよね。

どこの誰にいつ届くかなんて、知りようがないということです。
今も昔も、記録に残すということは誰にでも出来ます。
ただの日記でも未来の自分の為になるかもしれませんし、ましてや現代はブログで記事を書いたりSNSに投稿したり、
物として残る形でもデータとして残る形でも記録に残すことは出来ます。

たいして価値のないものを声高にアピールするのは嫌いですが、
自分や、あわよくば誰かの為に記録に残す、くらいの気持ちで形に残すということを習慣づけるのはいいと思います。

形に残るということは、人に伝わるということです。
そこには必ず他者との関わりを含んでいます。
自分が思っているよりも自分と同じことを考えている人はいますし、予想外な誰かの心に刺さったりするものです。
何も価値がないなんてことはないはずです。

ただ大切なことは、自分でその価値に気づいているか。
今は分からなくとも知ろうとしているか、ではないでしょうか。

記録と表現

歴史というのは、記録です。
口頭伝承とかもありますが、そういうのはもはや個人の記憶とかいうレベルではなく、
社会が口頭伝承の存在を認識し記録しているからこそ、その存在が現代の私達に知られているはずです。

一方、単純な記録ではなく、表現として形に残ったものもあります。
壁画とかがそうですね。
これは時代背景を孕んでいたりするので記録と近い部分もあるんですが、生まれた当初は表現であったはずです。

物の持つパワーというのはすごいもので、経済学者のマルクスは
「歴史上のあらゆる出来事も物質が人間の精神に影響を与えた結果生じたものだ」
的な、唯物史観を唱えたほどです。
こういう考え方を唯物論と言います。

ちなみに唯物論とは、

唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。

出典:Wikipedia

らしいです。

ちなみに、マルクスの唯物史観についてはこの動画がわかりやすくてオススメです。
このアカウント、歴史とか哲学とかを分かりやすく教えてくれるのでかなり好きでいつも見てます。
昨晩も中国史シリーズを一気見してしまいました。笑

↓↓↓
https://youtu.be/EnTMLOwdZag

さて話を戻すと、表現として形を残すことにどんな意味があるねんって話です。
自分のやってることは壁画みたいにずっと残るようなものじゃないし、そんなに人目に触れるようなものじゃない。
こんなことしていてどんな意味があるんだ、と悩んでいる人もいるかもしれませんね。

かなりわかります。

僕が思うに、私たちの表現って、飲食店のメニューみたいなものじゃないでしょうか。
要するに、選択肢であって、多様性の一要素です。

お腹ペコペコの人には大盛りチャーハンが必要ですが、小腹が減った人にはトーストが必要なんです。
この例えが適切かは分かりませんが。笑

だから、「小腹が減ってて何か食べたいけど何食べようかなー、うーん。」って迷っている人に対して、
「こういうメニューがあるんで選んで下さい。もししっくり来なかったら、裏メニューとかもありますよ。それでもしっくり来なかったら店変えてもいいですよ。」

みたいな感じで、「まさにこれを求めていた!」だったり「こんなメニューがあるなんて驚きだ!」だったり、「この店は私には合ってない!」とかを気づかせるもの、だと私は思います。

それはそもそも店を開かないと出会えないし、メニューを作らないと分からない。
そうすることで初めて、「この店よりあの店の方が美味しい」とか「あの店より美味しい店を開きたい!」っていう意見が生まれるわけです。

だからそもそも、表現というものが劇的に世界を変えるっていうことはなかなか難しいと思います。
世界的なカリスマが反戦を叫び続けても、残念ながら戦争は無くなっていないのです。

なので、表現が周囲の人に気づきを与えて、それがさらに新たな表現を生み、取捨選択を繰り返して少しずつ前進していく。
という広い視点で考えないと虚しくなってしまうでしょう。

そう考えると、物を残すということそのものに意味があるように思えます。
心配せずとも、本当に誰にも必要とされなかったものはあっさり無くなりますし、必要なものは引き継がれていきます。
何がどのように残っていくのかは表現者が決めることではありません。
他人が決めることです。

まとめ

ということでまとめると、
形に残すという行為は他人に何かしらの気付きや影響を与える可能性がある。そしてそれをどう受け取るかも、それに価値を見出すのも他人次第。

なので表現者は奢ることなく表現の質や内容に向き合いながら、周囲とどう関わっていけばいいか考えるべき。
といったところでしょうか。

ということで、本日はこのへんで終わりにしようと思います。
それでは。


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