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遊歩道ランナーのあとに散る桜

日曜の朝の散歩。8時前だから花見はまだそれほどでもなく、でも巨大な望遠レンズを付けた人たちがチラホラといた。今がチャンスとばかり何かを狙っているんだろうけど望遠レンズという写実的な風潮に反旗を翻したいというか、『古今集』や『新古今集』の桜は山の遠桜の風景に情緒を感じていたんだよな。もとは山の信仰とかあるのだろう。その四季の変化が初夏では霧の山から桜の山に変化していく様を見続けていたのだ。でも都会には山なんかないし、そういう贅沢を味わえない。だから近視的な世界に惹かれるのかと。

イメージとしての桜を体感しながら近視的観察ではない桜の一句を詠めないものか?それは望遠レンズ付きのカメラを持てない自身の僻みでもなく、短詩というのはそういうものだと思うから。今朝の一句。

遊歩道ランナーの跡に散る桜

早朝ランナーが走り去っていくときに桜の花びらが舞い上がった瞬間を読みたかったのだが、これだとランナーの走っているときに桜が散っているようだった。

偉大なランナー大江健三郎の死去の後に坂本龍一の訃報があったので尚更感傷的になってしまう今朝の一句でした。

午前中一時間以上散歩して、映画館。見たい映画の時間を間違えておりその前のチャップリン『黄金郷時代』を観た。ほとんど眠くて、肝心の靴のディナーシーンとか見逃していた。あの頃と今は似ているのかもしれない。「ゴールドラッシュ」はネット世界のバブルだろうな。そうだ、ニール・ヤングの「ゴールドラッシュ」聴きたくなった。

ニール・ヤング『After The Gold Rush (50th Anniversary) 』 https://music.amazon.co.jp/albums/B08NT9G51N?ref=dm_sh_0c68-9ce6-20e6-943f-3d94d

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そういえば朝一番のニュースで坂本龍一が亡くなったことを知る。先日の大江健三郎が亡くなったことと時代の変わり目を感じないではいられない。そんな坂本が最後のメッセージが原発政策の見直しだった。

ドイツの反原発政策がロシアの天然ガス供給に頼っていたので今エネルギー政策が見直されているというNHKBSでの番組があった。それがプーチンにウクライナ侵攻を招いた背景というような。でもそれは結果論で、プーチンが横暴なだけであって当時のドイツの政策は間違いとは言えないと思う。確かに今その苦しさを国民が享受しているのだが、エネルギー政策は場当たり的なものではなく、長期的な視点が重要だろう。果たしてそれが原子力発電に見直される視点となるならば、3.11のことを健忘していることに他ならない。そのことが坂本龍一が最後に残したメッセージなのかと。

要は過剰になった経済政策の見直しが来ているのだと思う。これからの日本を見ても発展なんて望めないのだから、それを理解できない者たちが今だけ潤おえる内に潤っておこうする「黄金郷時代」に他ならないと思うのだ。

日本の政策がアメリカの資本主義政策そのもので、その前にロシアと繋がろうとした安倍政権もそういうことだったと思うのだが、北方領土共同開発はパイプラインとかあったのかなと今だと思う。ロシアのプーチンがこの先続くとも思えないので、一概にドイツの政策が誤りだとは言い切りれないのだ。ただ今は戦争状態にあるので我慢比べかとは思う。

その後に『ワース 命の値段』を見たわけだが、アメリカの9.11の補償問題で政府が経済を停滞させないために遺族補償を一括してやり手の弁護士に抑えるような遺族補償委員会を立ち上げるのだ。それは数の問題から個人の感情の問題へとシフトしていくのだが、結局は数値の問題に戻ってしまうことだった。そういう経済政策の問題だから、経済優先だとトランプのような政治家が出て来ないとも限らない。プーチンがまさにそのような独裁者だったのだから。

ETVの「大江健三郎ノーベル賞の旅」は、そういうアメリカの後を追いながら「曖昧なる日本の「私」」にならざる得ない日本の姿と作家として意見する、それは第二次世界大戦後に日本人が培ってきた平和憲法を守ることであると。「ヒロシマ」の人々と対話しながらそういう方向に世界を持っていこうというノーベル賞記念講演だった。さらに今の世界はグロテスク・リアリズムの世界として描いたのがラブレーでありその研究者の渡辺一夫の弟子である大江健三郎宣言みたいな話だった。グロテスク・リアリズムはマジック・リアリズムのような辺境の文学、アメリカに対してのラテン・アメリカのような、それが大江のアメリカ留学体験としてあるのだった。アメリカの大学(カリフォルニア大学バークレー校)から招かれたのが辺境の思想に至るのだ(『「雨の樹」を聴く女たち』辺の小説)。それは中央集権的な一神教的じゃない信仰世界の祈りに結びつくのだと思う。それが『新しい人よ、目覚めよ』という大江健三郎からのメッセージだったのだろう。それは障がい者として生まれた息子である大江光の音楽活動と繋がっていく。彼が生きられる時代、音楽を通して弱者(障がい者)が開いていく道なのだ。その繋がりとして坂本龍一もいたのかもしれない。

近視眼的見方ではなく、長期的俯瞰的世界の展望として。


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