ディストピア小説の金字塔
『1984』ジョージ・オーウェル,(翻訳)田内志文 (角川文庫)
最初に読んだのが1983年で本屋に積まれていたことを思い出す。オーウェルは『カタロニア讃歌』とかのようなノンフィクションの方が好きだが、『1984』はけっこう理屈っぽいというか、通常のSF小説のようには楽しめなかった。
それは反政府組織のリーダーであるゴールドスタインの理論書がまるまる引用(これも創作だが思想書を読んでいる感じ)する中で「二重思考」や「ニュースピークス」の言葉の解説がなされる。特に「二重思考」はこの小説のキー・ポイントになる概念で、第三部でも政府の官僚であるオブライエンとの対話の中で繰り返されるのだ。それは諦念という概念なのか?極めて哲学的考察だと思う。
言葉には二重の意味が含まれていて、それは弁証法のようにテーゼがあり、反対するジン・テーゼがあって昇華されるのだが、ここでは永遠に昇華されることなく疑問のまま宙吊り状態にさせられることである。
例えば2+2=5と国家で定められた法があるとして、個人の思考で2+2=4であっても、それを思考するのは個人一人ならば、国民の全員が信じる2+2=5が善であり逆に考えることは悪なのである。これは全体主義国家だけではなく、例えば中絶が違法ならそれは中絶手術は違法であり、誰もが従わなければならない法律として存在する。それを破るのは悪なのだ。国民は自ら妊娠しない限り、中絶なんて考えないから、その法律は実質透明のような存在で大多数の国民には支障がない。法に反する者がそもそも悪人なのだという思考。先日、観たアメリカ映画がそんな映画だった。
ただ生むための存在としての男に対しての侍女として描いたのがアトウッド『侍女の物語』はこの『1984』のフェミニズム版だと言ってもいいかもしれない。
自分では正しいと思った思考がその国では異端的な思考ならば、内面の問答だけで外部には出せない堂々巡りを繰り返し宙吊り状態にさせる。国家に反する考え思っただけで思想犯なのだった(これはかつての日本の治安維持法に近いと思う)。それは国家がどうにでも解釈出来る問題なので、国民はまず疑いを持つ事自体が危険思想だとされている。
さらにそれを密告するスパイやらあるいはそういう教育を受けた子供たちが親を密告するのだ。そこでは何が正しいかよりも何が善であるかが問題なのである。それも国家によっての善ということだった。
この傾向は今の保守的なナショナリズムが横行する社会では実際に見られる傾向だった。それは国が言葉を管理するから、そのような教育が必然的に洗脳教育となって、誰も疑問に思わない。疑問に思うことは国家の反逆罪になるのなら国民は思考事態を悪とみなすだろう。『1984』の世界は思考することよりも身体を鍛えること、健康と美の世界(国家にとっての)なのだ。
それは今のロシアや北朝鮮の全体主義だと言うことは出来るがオーウェルが考えていたのは、その対立する西側諸国でも敵として自らは正しい国家だと国民が思い込むようにさせることで、そうした敵対世界がやってくるというディストピア世界なのだ。それがヘイトという感情なのである。
なによりもネット社会がヘイト化されてしまった社会になったとき、そこにある建前の平和な世界の深層にそうしたヘイトを引き起こす感情が自動的に作用するような社会なのである。第三部でウィストンがオブライエンに洗脳させられる教育(諮問委員会みたいな)はまさにそういうことだった。それは日本の企業にも言えることかもしれない。企業の善は社員が平和で問題を起こさず企業ルールの中で会社の奴隷となって働くこと。そこでヘイトされないように個人は消滅して組織が存続していくのだ。それが今は国事態の組織がそういうものとして、システムから外れたものは排除せねばならないという全体化教育がなされているのだと思う。
それは異分子を出さないということではなく、異分子はいつでもターゲットしている世界(人の内面をもコントロール出来るのだ)だから、いつでも排除出来るシステムなのである。コンピュータの二進法はまさにその白黒の二分法に適したシステムなのだろう。そこでは中間の灰色なんてなく、いつでも排除出来るシステムが構築されているのである。それがヘイトという国民感情で部外者は排除していくのだ。だからヘイトされないように努力する。
その機関が「愛情省」と呼ばれる。そういう政府機関が本来の言葉を変えて政府の都合のいい言葉で呼ばれて更生させるという芥川賞作品が、九段理江の『東京都同情塔』だった。彼女の作品もオーウェルの東京版なのであろう。
『1984』がけっこう読むのがしんどいと思うのは、今の日本社会にあるあるだからだろうか?
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