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センチメンタル源一郎

年の瀬だからか、焦りがあるような。今日は少し腰を据えて(引き籠もって)考えてみたい。昨日も図書館に行って、映画を見て、家に帰ってくると疲れたように寝てしまった。季節的にホットカーペットは寝るためにあるようなものだった。横になるともう抜け出せない。

今日も昨日23時頃起きたのだが、ちょっと本を読もうと横になったら寝てしまい、起きたのが5時過ぎだった。

図書館は短歌雑誌一冊返却して、次の号を借りる。短歌もよくわからない世界というか、俳句より自由かと思ったがそうでもなかった。いよいよ詩か?

映画。『パラレル・マザーズ』。これは面白かった。感想、書かなければ。気晴らしに先に書いてしまおうか?

読書。高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』
本日の躓き本。まず古市憲寿『誰も戦争を教えられない』の評価について好意的に受け入れているが、素直に読めない。まず古市憲寿ほどの人が戦争を知らないと言えるのだろうか?それで良くコメンテーターとかやっていられるな。ちなみに「ウクライナ 古市憲寿」で検索して見ると、けっこうヒットするのだ。戦争を知らない人がよくコメントできるなという感想である。もっともこの本にあるように勉強したのかもしれないが。知らないというのは、彼一流のポーズである。そういう知識人が日本を戦争に導いたのではないか?

いま言論界(社会)を支配する好戦的ムードを高橋源一郎が理解していないということではない。だから、このような本を書いているのだから、その雰囲気を変えようとしているのは事実である。しかし、それは古市憲寿に寄り添うことではない。また若者に寄り添うことでもないと思うのだ。そこが違ってしまうのは、結局は高橋源一郎も人気作家で同じ人気作家を無闇に批判できないのかと思ってしまう。「飛ぶ教室」にも出ていたが古市憲寿と共通項を見出すのは同じ作家で日本について考えているというポーズだけなのか?

もう一つ高橋源一郎で甘いと思うのが土岐善麿の短歌。

あなたは勝つものだとおもつていましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』

この感傷性が短歌なんだと思う。ただ妻の戦争責任は回避されたのだろうか?高橋源一郎がいう男は誇大妄想的に大政翼賛的になって、女は生活の中で自身を見つめたというが、そういう男に付き従ったのも、また女性なのである。女性だけが生活の中で自分自身を見つめていたなんて幻想にすぎないし、少し調べれば与謝野晶子や市川房枝が国防に関わっていたのがわかるはずだ。彼女らに罪はないのだろうか?無論戦後は反省もするだろう。しかし、その甘さはどこにあるのだろうと考えてみることも必要ではないか。

例えば古市憲寿の言う過去の戦争については今の若者には責任がなかった。それは事実だろう。では現在の戦争については?どうして日本だけの戦争でありうるのか?戦争は国家間の争いである。アメリカの支配下にある日本は、どうして間接的に戦争協力をしていると感じられないのか?それを見ない見せないからである。隠しているのは誰か?

事実、湾岸戦争のときに日本は加担した。それを古市はわすれているのか?よくそれでコメンテーターなんてやっていられる。いや、メディアが古市のような御用評論家を必要とするからだ。メディアというより権力がか。そういうところで甘い汁を吸っている者の話を肯定しろと言う。

女性と戦争責任も、軍隊にいなかったというだけでは、後方支援という積極的に関わって行った女性の指導者も多いのだ。そういう構造が見えないから、今の自民党の女性議員の姿が見えていないのだと思う。思想に女も男も関係ない。

高橋源一郎の甘さはそれが生活のためということで反故される戦争責任にあるのだと思う。その基盤にある家父長制という日本の強固な思想を問題にせずにして、解決しない問題だろう。それは母たちにも同罪の罪があるのだ。

ただ高橋源一郎が言う大きな言葉で話す者には気を付けろという。それはある部分事実かもしれない。小さなことをコツコツとやっていく人は信用できるのか。その間で引き裂かれる思いなのだ。それは短歌の生活詠に対しての反感が自分の中にあるからだと思う。そこにある叙情性が嫌になるのだ。啄木はあまりにもセンチメンタルすぎるのだ。高橋源一郎も。

今日の長い日記はここまで。

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