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旅という時間性

『西脇順三郎 絵画的旅』新倉俊一

エクゼキアスのキュリックス、ピカソ『アヴィニョンの娘』から写楽『宮野城』まで。作中にあらわれた豊富な絵画的イメージをテーマに、西脇詩の魅力の秘密に迫る。
目次
1 絵画的な詩への旅(詩の新しさと古さ;『アムバルワリア』の翻訳詩;もう一つのトリトンの噴水)
2 二大潮流 萩原朔太郎と西脇順三郎(音楽派と絵画派;女の立場『旅人かへらず』はしがき;鳥居清長からクールベの女まで)
西脇詩の原風景(信濃川と郷里小千谷―風景としてのふるさと;多摩川と多摩人;「ふるさと」のエティモロジー―人類・宇宙・永遠)
4 詩と溶け合う絵―西脇美術館(グロテスクの画家たち―ピカソから写楽まで;自然と芸術―ゴーガンからセザンヌまで;肖像画の「見立て」―ゴヤからマネまで;オノマトペーと諧謔―ゴッホ、クレー、キリコなど;彫刻のイメージ―ミケランジェロ、ロダン、ムア)
5 西脇訳でエリオットを読む(パロディーか文明批評か―『荒地』をどう読むか;初めと終り―『四つの四重奏曲』をどう読むか;より巧みなる者へ―エリオット、パウンド、西脇)
6 古典とモダン(「郷愁の詩人与謝蕪村」と「はせをの芸術」;西脇順三郎と現代詩人たち)

芸術は時間芸術か空間芸術か分かれるが時間芸術の代表が音楽だとすれば空間芸術は絵画ということになる。萩原朔太郎の「芸術は時間芸術か空間芸術か分かれるが時間芸術の代表が音楽だとすれば空間芸術は絵画ということになる。萩原朔太郎の「詩の原理」では詩も時間芸術だとして音楽的なものだというのだが、そこに絵画的空間芸術として詩を考えたのが西脇順三郎だろうか?

それは象徴ということでイメージとして詩的言語を絵画化するのだが、ヨーロッパ芸術の古典から来ている。その永遠性に美を見るというような。そこに諧謔性を見るのが西脇順三郎が新古典主義の精神論に陥ることがないような気がする。それがヨーロッパの新古典主義(T.S.エリオット)とはちょっと違うような。というよりジョイスの諧謔性に近いのかもしれない(ヨーロッパの中心に対する辺境のダブリンというような。それはセルバンテスのスペインとも共通しているのかもしれない。)

例えば翻訳の問題について、どこまで正確に訳しても原語で読まない限りズレを生じさせてしまうものであるが、ただ原語を読んだからといって理解したのかというとそうでもない。

それは翻訳が解釈ということを含んでいるので、例えば大江健三郎がT.S.エリオットの「四つの四重奏曲」を原作を参照しながらも翻訳詩として西脇順三郎の日本語を引用するのはズレの部分よりも重なりの部分に共感したからであって、それが新たな開かれた作品を生産していく。

バートン・ノートン

現在と過去の時が
おそらく、ともに未来にも存在するなら
未来は過去の時に含まれる。
すべての時はとり返しが出来ない。
あり得たものは一つの抽象されたもので
ただ思索の世界にしか
永遠に可能なものとして残るだけだ。
(略)

『西脇順三郎コレクションⅢ 「エリオット 四つの四重奏曲」』から

それはベンヤミンのいう複製技術の中の芸術というものなのかもしれない。しかしその本質的な不変(アウラ)という精神よりも変わりやすいズレを伴った状況にわれわれは置かれているのではないか?

そのことが大江健三郎が何度も再読することによって、その都度文学は時代によって更新されていく。それはピカソのキュビズムのようにズレを伴った線によって拡張されていく存在なのではないのか?そこに諧謔精神というパロディを見るのが西崎順三郎なのだ。

それは日本の俳諧の軽みや侘び寂びの世界に通じていくように、西脇順三郎が芭蕉や蕪村に近づいていく。それは漂泊の詩人という朔太郎なら郷愁の詩人という、すでに故郷を喪失した者の生き方ではないかと思う。

美の永遠性を求めたくなる(神の問題)。しかしそれはすでに喪失された世界なのだ。そこに彼岸性がある。例えば西崎順三郎が川に見出す安らぎと水に求める霊性は、人間存在は不変でもなんでもない。それは川の水のように漂流していく。このへんは『方丈記』のような仏教的思想なのかもしれない。

ジョイスの川のモチーフに西崎順三郎が引かれるのは音楽的な多声(ポリフォニー)の文学ではないのか?それは厳密に空間芸術だとか時間芸術で分けられるものでもない。そのズレの響きに共感するものがあるのだとすれば(例えば大江健三郎の文学ように)、西崎順三郎の詩も古典的に解釈されるよりも現代詩として読まれ続け共感を得る方がいいにきまっている。


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