旅という時間性
『西脇順三郎 絵画的旅』新倉俊一
芸術は時間芸術か空間芸術か分かれるが時間芸術の代表が音楽だとすれば空間芸術は絵画ということになる。萩原朔太郎の「芸術は時間芸術か空間芸術か分かれるが時間芸術の代表が音楽だとすれば空間芸術は絵画ということになる。萩原朔太郎の「詩の原理」では詩も時間芸術だとして音楽的なものだというのだが、そこに絵画的空間芸術として詩を考えたのが西脇順三郎だろうか?
それは象徴ということでイメージとして詩的言語を絵画化するのだが、ヨーロッパ芸術の古典から来ている。その永遠性に美を見るというような。そこに諧謔性を見るのが西脇順三郎が新古典主義の精神論に陥ることがないような気がする。それがヨーロッパの新古典主義(T.S.エリオット)とはちょっと違うような。というよりジョイスの諧謔性に近いのかもしれない(ヨーロッパの中心に対する辺境のダブリンというような。それはセルバンテスのスペインとも共通しているのかもしれない。)
例えば翻訳の問題について、どこまで正確に訳しても原語で読まない限りズレを生じさせてしまうものであるが、ただ原語を読んだからといって理解したのかというとそうでもない。
それは翻訳が解釈ということを含んでいるので、例えば大江健三郎がT.S.エリオットの「四つの四重奏曲」を原作を参照しながらも翻訳詩として西脇順三郎の日本語を引用するのはズレの部分よりも重なりの部分に共感したからであって、それが新たな開かれた作品を生産していく。
それはベンヤミンのいう複製技術の中の芸術というものなのかもしれない。しかしその本質的な不変(アウラ)という精神よりも変わりやすいズレを伴った状況にわれわれは置かれているのではないか?
そのことが大江健三郎が何度も再読することによって、その都度文学は時代によって更新されていく。それはピカソのキュビズムのようにズレを伴った線によって拡張されていく存在なのではないのか?そこに諧謔精神というパロディを見るのが西崎順三郎なのだ。
それは日本の俳諧の軽みや侘び寂びの世界に通じていくように、西脇順三郎が芭蕉や蕪村に近づいていく。それは漂泊の詩人という朔太郎なら郷愁の詩人という、すでに故郷を喪失した者の生き方ではないかと思う。
美の永遠性を求めたくなる(神の問題)。しかしそれはすでに喪失された世界なのだ。そこに彼岸性がある。例えば西崎順三郎が川に見出す安らぎと水に求める霊性は、人間存在は不変でもなんでもない。それは川の水のように漂流していく。このへんは『方丈記』のような仏教的思想なのかもしれない。
ジョイスの川のモチーフに西崎順三郎が引かれるのは音楽的な多声(ポリフォニー)の文学ではないのか?それは厳密に空間芸術だとか時間芸術で分けられるものでもない。そのズレの響きに共感するものがあるのだとすれば(例えば大江健三郎の文学ように)、西崎順三郎の詩も古典的に解釈されるよりも現代詩として読まれ続け共感を得る方がいいにきまっている。