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せむしの小人が天使になるまでの歴史

『ボードレール 他五篇: ベンヤミンの仕事 2』ヴァルター ベンヤミン, 野村 修 (翻訳) (岩波文庫)

ベンヤミンを読むことは“いま”を読むことだ――パリに移ったベンヤミンは,危機のさなかにあってクリーティシュな姿勢をつらぬき,もつれあった糸をたぐって未来への夢を紡ぎつづける.大衆化時代の芸術を考える上で必読の「複製技術時代の芸術作品」をはじめ,生涯の思考の結晶ともいうべき「歴史の概念について」に至る六篇.

フランツ・カフカ

カフカ好きであまたなカフカ論を読んできたが、その中でも難解な部類に入るだろう。カフカとベンヤミンの共通点は、ユダヤ人であること。そして2人とも失敗者である。これは重要な視点な気がする。つまり成功者の経験談は語りやすいが失敗者の経験談は語りにくいのである。

どういうことかというとブロートによる焼却原稿サルベージ計画で、文学的成功者として読まれるカフカではないと言うこと。それは、ユダヤ教の教えに反する人だ。神学というアカデミーに反することだ。例えばユダヤ教の救済の概念としてパレスチナを占領してユダヤ人国家イスラエルを建国するとか。ベンヤミンが挫折した道なのだ。

ベンヤミンにも神学の夢はあったのかもしれない。しかし、それが不可能となったアクチュアルな今をカフカによって見つめる。それは地下(牢)のせむしの小人なのだ。大人になれない小さきものの姿として現れるカフカの奇妙な動物たちのアレゴリー(寓話)。それは神話世界に生きるのではなく民話世界に生きている。寓話としてのカフカ文学。

世界は己のためにあるのではなく、彼らのためにある。それは大人になった彼らの姿を見つめながら退行していく子供のままのシンジ君(エヴァンゲリオン的に言えば)。民話世界の小さきものたちの世界。それがカフカの小説を書くことだった(大説ではなく小説だ!)。

「複製技術の時代における芸術作品」

これも難し。それは岩波文庫に収められているのが第二稿で、さらに完成稿としての第三稿があるということだ。そのときに大幅に整理された部分に決定稿ではない、ベンヤミンの思考の断片としてのきらめきがあるということだった。それは「複製技術」としての映画論。

芸術の機能として、教会の建築物や絵画を礼拝する「礼拝的価値」と、広告の時代になると商品として売るための「展示価値」があり、19世紀の資本主義社会になると「礼拝的価値」は廃れて「展示価値」が氾濫してくる。

例えば教会の神の似姿を形どった芸術に見出すのは、職人的な技(運慶とか)のイデア(プラトン)として具現化(アウラ=オーラ)があるわけだが、そうしたものも機械化によって変遷してくるわけだった。

「礼拝的価値」は叶えられなければならない願望だが、「展示価値」は欲望の消費として夢見られること。その最大なものが映画だという。つまり大衆社会が夢見る世界。むろんすべての映画がというわけではなく、大衆が夢見る前に作り手(監督)の意図がわからず迷宮入りして眠ってしまうものある(むしろその中に芸術性を見出すとか)。

その可能性を探っていたのだが、映画というものがプロパガンダで民衆のものより権力者(ファシスト)側になっていくので変更を余儀なくされたのだと思う。ただメディア論として、ベンヤミンの思考は現在にも受け継がれていったのだ。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術」について【聴き逃し】カルチャーラジオ 芸術その魅力 美と感性を考える「本物の美(1)」 2月16日(水)午後8:30放送 #radiru https://www2.nhk.or.jp/radio/pg/sharer.cgi?p=1928_01_3760747

参考図書

ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』

カフカについての手紙

先の論文「フランツ・カフカ」によるゲルハルト・ショーレムの反応に対する弁明的な手紙。面白いのは論文を失敗だったと認めたうえで、楕円論を展開している。これは日本の作家後藤明生が論じていた文学論だった。後藤はベンヤミンからヒントを得たのであろうか?

ボードレールにおける第二帝政期のパリ

第二帝政期というのはルイ・ナポレオンの反動の帝政時代を指す。ここで思い出すべきなのはマルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』だ。ボードレールの反動をマルクス主義的に読み込みながら、それをアレゴリー(寓話)としてルイ・ナポレオンに対置させること(弁証法的に?)。だから、なんか凄いわかりにくいのだが、ヒントになるのはセリーヌの受容だろうか?

セリーヌは反ユダヤ主義の作家ではあるが、彼の文学はアレゴリーとしてドイツの国家主義的なものから逃走していく者としての『なしくずしの死』だった。失敗者の系譜と言ったらいいのだろうか?カフカの不可解な動物が人間のアレゴリーとして対置したように、アレゴリーと対置していく文学。

この作品自体も三部作として予定されたが、とりあえずアメリカへの土産(ベンヤミンはアメリカ亡命を考えていた)として提出しようとした論文をアドルノに却下されたのである。そのときに出されたのがこの第二部だったという話。それで実際に原稿が欠けていたりして、まさにベンヤミンの散文らしい散文だった。それこそがまさにアレゴリーだった。

三部作ということだが、この第二部も三部に分かれていて、第一部が「ラ・ポエーム」ボードレーヌの詩がアレゴリーであるという読み。第二部が「遊民」。アラン・ポーの探偵小説から受けた影響で書かれたボードレーヌ『悪の華』。群衆の中の遊民(探偵)が描いたのが『悪の華』のパリの情景だという。なかなか面白い文学論だ。ポーはゴチック的な探偵小説の中に病理学的なアレゴリーや社会的風刺を織り込んでいた。

ボードレールのパリの群衆論が後のベンヤミンのパサージュ論になっていく。麻薬中毒者、淫売、群衆(大衆化)の中に紛れ込む闇の世界。それはヴィクトル・ユゴーが歩む昼間の群衆ではなく、ガス燈に照らし出される夜の群衆。

三部が「近代」。しかしボードレールの晩年は出歩く遊民ではなく、部屋に引きこもり詩作に専念する職業作家(労働者)だった。ボードレールの近代性(モダニズム)は、パリの夜を闊歩するヒーロー(アンチ・ヒーロー)を描くこと。これはロマン主義と対立する。『悪の華』は英雄物語(ギリシア神話や聖書)のアレゴリーとしての文学。それは昼間の大衆文学からは排除される文学だったのだ。

ブレヒトの詩への注釈(抄)

ブレヒトの詩は、クルト・ワイルの曲で歌われる歌詞の内容だ。それがアレゴリー(ベンヤミンを解釈する上で、この言葉は重要というか、アレゴリーですべて言い切ってしまいそう)になっているのだ。『家庭用説教集』はアナーキスト讃歌に「マホガニーの歌」。

『都市住民の読本』は非合法活動家の歌なのだが、ヒトラーに乗っ取られて戦争賛歌『ズヴェンボルの詩』(ドイツ戦争案内)になっていく。

『老子が亡命先の途上で道徳経が成立する言いつたえ』は、まさに老子の教えが道教になって、精神鍛錬や道徳になって、権力者に都合よく解釈されることだった。

歴史の概念について

ベンヤミンの絶筆。マルクスの唯物史観からベンヤミンの歴史主義「歴史哲学テーゼ」という展開を述べたもの。アカデミーとしての神学がある一方で民衆が明らかにする裏側の民話(アレゴリー)。

それがカフカやボードレーヌやブレヒトを見てきたベンヤミンの歴史となって語られているのだと思う。勝利者の歴史ではなく、敗者の歴史として。




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