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100分de名著ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 (第3回、第4回)

『ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年2月』朱 喜哲 (NHKテキスト)

第3回 言語は虐殺さえ引き起こす

第1回、第2回はいつものように漠然と見ていたのですが、第3回はけっこうまじまじと見てしまったのは、伊藤計劃『虐殺器官』を取り上げていてそれが今の世界状況にまったく当てはまると思ったからです。その舞台裏がここで紹介されてます。

伊藤計劃『虐殺器官』も随分昔に読んだので内容もうろ覚えでしたが、この番組でだんだん思い出して、もしかしてこの作品は現在ではオーウェル『1984』に代わりうる世界文学なのかもと思いました。

再記述は「屈辱」ももたらす、というのは最近あるサイトでリンクの仕方が分からないので、何回も指摘を受けてとうとうもうリンクを貼るのは止めようとしたら、今度はその説明を求められた。なんだろう、面倒くさいというのもあるのですが、自分なりにやっているつもりの努力が認められない。そこは出来る人が参加するコミュニティだったと思ったのでした。

ローティの言葉で言えば「クラブ」と「バザール」の「クラブ」ということですよね。現に今議論している方も「クラブ」内では波風立てないで欲しいみたいなことを言われる。そうなるとこっちは黙るより仕方がない。ローティの言う対話が成り立ちそうもない。

コミュニティだから「クラブ」でもいいと思います。そしてそういうコミニュティには参加出来ないで、波風が去っていく。果たしてそれでいいのだろうか?と思っている時にローティの言葉がリアルに入ってくる。

「再記述」は出来ない人に出来るように成りなさいという今のコンピューター社会を言っているのではないか?そこに確定申告が来た。e-Tax推奨という流れです。封筒で送ると切手を貼らなければならない。また確定申告に行くことを控えろという。そういう面倒くさい人間は避けたいのですね。

このコンピューター化という問題は、いろいろ問題があると思うのですが、企業としては管理に楽なのかな?とにかくパソコン操作が当たり前になろうとしている時代がやってきていると感じてしまう。

出来ない人間は排除されていく。たぶん排除ということには気が付かないのだろうと思います。波風立てない方がいいという一般的な言論(言説か?)がまかり通っているから、このAIシステムの人工知能が張り巡らされている世界を感じないわけにはいかない。

それはネットの自由がほとんど企業の経済的なシステムよって管理され始めているということです。一番わかり易いと思うのがX(旧Twitter)だと思いますが、一部の人はXには不信感を持っている。しかし大多数の人はXは存続するのだし、波風立てないでいればコミュニケーションツールとして利用価値が高いのだと思っているのだと思います。

そうしてクラブ化という囲い込み社会だけになる。バザール型の多様性を求める時代は過ぎてしまったのかと思います。

そういうことで「文化政治」という文学の力について考察しているのも面白いと思いました。とくにフェミニズムでは日本と韓国のフェミニズム文学の違い。韓国文学を読むとけっこう日本ではあり得ないような現象が起きていると感じます。そういう波は押し寄せている。

去年の100分de名著でも正月からフェミニズム特集で、それらの本を随分と読んでいた記憶があります。

一方でネット社会のグローバル化があり、もう一方でそれに対抗する流れもある。文化政治というのは、やはり一元化管理のAI支配によるものではなく文学の力なんだと思いました。そのことが今回の芥川賞受賞作九段理江『東京都同情塔』に期待を寄せる現れなんだと思いました。

第三回で衝撃だったのはジェノサイド至る「言語ゲーム」で人権という言葉は通用しないというローティの指摘です。なによりも文学者は人権と言いたがる。そこの落差ですね。これも一方でヒップホップ文化のクラブ化みたいなものがある。それがラジオによって拡散されてジェノサイドが起きるということの衝撃というか、そういえばヒップホップ文化の対立構造も映画ではよく描かれているように感じる。

どこか「人権」という言葉が砦になって最後は機能すると思っていましたが、それよりも感情なのだというのは、最近の映画を観ても感じることでした。そこで先日、伊藤野枝の映画『『風よ あらしよ 劇場版』でセンチメンタリズム主義のようなことを言っていた。

弱者の感情に寄り添っていくアナーキーな共同体と言えばいいのか?伊藤野枝や大杉栄のアナーキズムには相互扶養という思想がある。弱者を助け合っていく思想ですね。この映画で一番面白かったシーンが当時の大臣であった後藤新平に出す大杉栄釈放の書簡ですね。伊藤野枝は黙っていない!

黙っていては駄目なんだと共感した映画でした。

大杉栄とか伊藤野枝はここに書かれている「リベラル・アイロニスト」ではなかったのかと思います。それが映画の中で野枝が言っていた弱者の側に付くセンチメンタリズム主義(論理ではなく感情で行動していく実存主義のような)。このへんはもう少し深掘りが必要かな。

第4回共感によって「われわれ」を拡張せよ!

それが伊藤野枝の言っていたセンチメンタリズム主義なのかもしれない。それは弱者に対する残酷さに気がつくこと。野枝がそのことに目を見開かされたのは「足尾鉱山事件」によって一つの村が公害の排泄所としてダムとのなって沈んでいく。これはチェルノブイリの石棺と同じ思考ですね。臭いものには蓋をしろみたいな。それはフクシマにもある。

そういう文学を伝承していた作家として、日本は水俣の公害訴訟に関わった石牟礼道子がいる。彼女はそれまで文学の世界では重要視してこなかった思うのです。その評価が覆させたのは池澤夏樹=個人編集「世界文学全集」でそこに日本文学として上げられたのはノーベル賞作家の大江健三郎でもなく、世界的に読まれている古典『源氏物語』でもなく、石牟礼道子『苦海浄土』だった。

そこに希望としての「感情教育」があるのだと思いました。

ローティの本では無関心を暴く『ロリータ』を上げてましたけど、この本はむしろ主人公側になってしまう恐れもあるのではないかと感じてしまうのは、日本の戦争アニメがけっこう戦争批判をしているのに、軍事オタクが増えていく。これはどうしてなのか良く考えるべきだと思います。


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