月の光が欠けた闇を照らす社会
『月』(2023年製作/144分/PG12/日本)監督:石井裕也 出演:宮沢りえ、オダギリジョー、磯村勇斗、二階堂ふみ、
辺見庸原作、「相模原障害者施設殺傷事件」の小説の映画化。記憶に新しい事件だけに考えざる得ないことが多くある問題作。映画はかなり暗くてつらい内容なだけに見る人を選びそう。ただこれが日本の現実だと言われれば目を背けることは出来ないと思う。その問題に対峙するのがわずか三年で子供を亡くした共働き夫婦を宮沢りえとオダギリジョーが演じる。
最初はこの夫婦がちょっとイライラしてしまうのだがお互いに気をつかいながら子供が死んだことに避けようとする姿が今風の優しさなのかと思うのだが、こんな家庭ならさっさと別れればいいと思ってしまった。お互いの心の傷には触れないような神経戦のような関係なのだ。ただ二人の間に愛情がないわけではなく、愛情過多だからなのか?お互いに現実を見ようとしない夫婦そのものがここでは問題提起されているのだと思う。
宮沢りえ演じる妻は元作家で東日本大震災の小説がベストセラーになったが、それ以降小説が書けなくなる。それは売れるためには編集者の言うがままに読者に見せたくない部分削除したので、それが理由の一つかもしれない。障がい者施設で働き始めるのだが、そこの同僚の作家志望の二階堂ふみ演じる同僚に綺麗事ばかり書いてヒットしたと批評される。それはかなり核心を突いていたのではないかと思う。二階堂ふみ演じる陽子はかなりポイントになる同僚役で、そのために二階堂ふみが演じていたのは説得力があると思った。
陽子の家族もキリスト教の家族なのだが父は浮気して、母はそれを耐えて何もないような顔で過ごし、娘はわがままに酒に溺れる問題家族だった。現在の家父長制の中でオヤジは自由に生きているが妻は専業主婦で我慢するしかないという家庭。娘は自由に育ってその問題に耐えられなくなっているのだった。誰もが汚れた部分を隠蔽しながら平気な顔をして暮らしている。その構造が障がい者施設の問題と重なって行くのだった。
もうひとりの男子の同僚は、障がい者施設で明るく振る舞う前向きに自分の正義を追求しようとするタイプなのだが、その正義が問題となってくる。それは今の政治状況と重なるような弱者排除の思想だった。優生思想というような社会に価値がない人間は生きていても仕方がないというような。ここでヒロインの堂島洋子(宮沢りえ)の周りの人間はみんな何かを求めているが失敗者ばかりだというのも重要なのかもしれない。自己実現ということが出来ない者たちが仕方がなく底辺の仕事につかなければならない社会の構造が見えてくる。障がい者施設の介護スタッフが底辺だとは思いたくない洋子だが、実際は同僚の陽子が言う通りなのだった。彼女は小説を書くためにそこで働いている。
この部分はかなり自分も当てはまるのでけっこう暗い気持ちにさせられた。加害者の青年も本当は底辺にいる人間なのに、何故か正義を裁く人間になっていくのだ。それは社会的な排除思想がそうしているのではないかという問題作なのだと思う。殺人者の思想を単純に犯罪だからと裁いたとして、その根本原因が無くならならい限り問題は解決しないだろう。そういう施設があるというのは老後介護の問題も含めて考えては行かなければならない問題なのだ。年取れば誰もが認知症になり身体の自由が効かない。実際にそういう老人を抱えて生活することの困難さ、介護スタッフの人不足や低賃金労働という現実。様々な問題が見えてくる映画なので辛い内容だと思う。
ただ宮沢りえ、オダギリジョー演じる夫婦はそこから立ち直っていく姿を描いているのだ。夫が趣味としているストップモーションアニメで賞を取り才能を開花させる。妻もこの事件のことを小説に書けそうだ。それでいいのか?と思わざる得ないが、個人の幸福が第一ならばそれは仕方がないのだろう。
無差別殺人の男は排除され、また忘却されていく。ただ二階堂ふみの精神的苦痛はどうなるのだろうか?彼女はまた小説を書き続けていくのだろうか?
「月」というタイトルはかなりいいと思う。月という影と光が存在するタイトルが秀逸。宮沢りえはその前に『紙の月』という映画にも主演を演じていて、その時も現代社会の問題に対峙する女性の役だった(その頃はまだ全力で走る姿が見られたものだが)。まだあの頃は若さがあったのだが、髪を短くそれなりに老けた宮沢りえも魅力的に感じる映画ではあった。オダギリジョーのなんとなく掴みどころのない男は良かったというか今風なのかな?共感したのは二階堂ふみだったけど、一番傷つく役かもしれない。宙吊り状態になるのは、彼女が一人で立つしかないからか?
参考書籍:『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 』森達也
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