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新緑のメタセコイアの旅の果て

マイ・ツリーとするメタセコイアが青々と茂っていた。昨日は青春18きっぷの最後の日だったので、いつもいく図書館までの旅。映画『川のながれに』を観たので、そこが目的地だったか?その映画で「旅とは帰る場所があること」と青木崇高演じるバックパッカーが言っていた。そんなことを考えながら今日の一日。

今日の一句。

新緑のメタセコイアに旅の果て

図書館で『新潮 2023年5月号』の追悼大江健三郎特集を読む。そこだけしか読めなかったのだが尾崎真理子という人は大江健三郎の編集者だった人だった。だからあんなに詳しいのだった。他は多和田葉子があまり良くない出会いだったがその後に認めてくれたと。作家の政治的な関わりについてだった。どっちでもいいんだけどね。ただ生きていく上で今ある環境がいいのかと考えるだけなのである。

大江健三郎関係では、『イェイツ詩集』を再び借りて「一九一六復活祭」を読む。

一日が終わり、彼らが
勘定台や事務机を離れ、
一八世紀造りの灰いろの建物から、
生き生きとした顔で現れるのに会った。
(略)
あまりにも長いあいだ犠牲に耐えていると
心が石になることもある。
ああ、いつになれば気がすむのだ?
それを決めるのは天の仕事、私らの仕事はつぎつぎに名前を呟くこと。
(略)
私はこれを詩に書き連ねる───
マクドナとマクブライド、
コナリーとピアス、彼らは
今もこれからも、
人が緑を着るところならどこであれ、
変わってしまった。完全に変わった。
恐ろしい美が生まれた。

1916年9月25日

高松雄一編『対訳イェイツ詩集』

イースターの日にアイルランド独立を宣言する者たちがイギリスで処刑された時の詩。今の政治的気分かな。

大江健三郎の言葉として、英語はこれからの多国語を学ぶのにもいいから、翻訳で読んで感動した本の原本に当たって自分なりに翻訳してみるといいと。今からはそういうことは遅すぎたと感じるが、これからの人は英語の力も必要かなと。日本に潰されないために。

だからと言って大江健三郎は外国人になれと言っているわけでもなかった。辺境の人でいろということかな。中心に飲み込まれずに、死者たちが生きていける世界の果てで。それが言葉(言の葉)の樹木に託すことなんだと思う。

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