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口承文学的な歌の物語

『天湖』石牟礼道子

盆の十六夜、仏送りの晩。九州山地の奥深いダム湖を、一人の青年が訪れた。祖父の骨灰を、三十年前湖底に沈んだ故郷・天底村へ撤くため、東京から来たのだ。そこでめぐり逢った人びとと、ある巫女の死、そして歌が、彼にもたらしたものとは―。

これは石牟礼道子の『死者の書』ではないか?折口信夫『死者の書』を踏まえて書かれたことは間違いないが、折口信夫はあまりにも文学しすぎて読みにくかったのだが(近藤ようこの漫画版で読んだ)、石牟礼道子の小説はもう少しエンタメ寄りのような気がする。そうかと言ってそれほど派手なドラマがあるわけでもなく、都会の青年が祖父の遺骨を散骨するために故郷を訪ねたらダムに沈められた村で、そこの共同体的な風習が日本の古来あるような風習である自然信仰の村だった。

柳田国男の民俗学の根の国として、東京の大木とダムで沈められた桜の木が根によって繋がっているとか、馬酔木の木の花は鈴が鳴るようだとか、村人の方言の優しい言葉とかで石牟礼道子ワールド(世界)を形成している。例えば、『万葉集』の大津の君が謀反によって自害させられ、それを悲しんだ大来皇女の歌も引用されていた。そういう和歌の言霊の世界に通じているのだ。

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに  大来皇女

『万葉集』

そういう古代の伝承のロマンを感じさせながら現代人が失っていく自然と魂を村の風習でファンタジーに描いている。村がダムで沈められた時にオケラが浮かび上がってきたとか、橋が蔦で出来た吊り橋だったとか、瞽女や修験僧が橋を渡る時に楽器をかき鳴らして知らせるとかの表現はファンタジーの世界なのである。都会生まれの青年も音に敏感で霊感を感じる者で、そういう青年が亡き祖父に導かれてかつてあったダムに沈んだ屋敷(祖父の家は大地主で村人から慕われていた)があり、そこに至る道筋に自然の木々や人々の交流(死者たちとの交感)がある物語なのだ。それは文字の文学よりも口承文学に近いのかもしれない。折口信夫が試みた古代日本との繋がり(『死者の書』では中世の中将姫伝説に負っているのだが)を近代化以前の日本の姿とそれが失われていく時代のオマージュ的な幻想譚となっている。そこにある祈りの姿は文字ではなく村人たちの声の文学なのだ。

二人の巫女親子に導かれて天湖と降っていくのは歌を通して夢の中へと上昇していく神話となっていく。それは仏教以前の古代の神道というべきもの姿なのかもしれない。自然神としての川の神や山の神。そして植物や日本の四季の移り変わりを感じてきた村人たちの村がダムによって沈められていくのだ。


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