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働かず正月三日フェミニズム

どんよりした正月二日目。ワインを飲み過ぎなのかもしれない。朝風呂に入って落語を聴く。ここまでは昨日と同じだったが、昨日は家でぐだぐだしてしまった。短歌が決まらなかったのもあるのかもしれない。落語も風呂から出た後も聞きながら寝ていた。小原庄助さんみたいだ。昨日聞いた落語で印象に残ったのは「三枚起請」。これも『幕末太陽傳』に折り込まれていた落語だったのである。「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」と入っていたわけだ。他にもあるかもしれない。

朝「聴き逃し」で「高橋源一郎の飛ぶ教室」のゲストが上野千鶴子で夜見た「100分de名著」でも「フェミニズム特集」で上野千鶴子が出ていた。今日は「フェミニズム」だな。

「高橋源一郎の飛ぶ教室」で上野千鶴子は大学時代に俳句をやっていて、自由律から入ったそうなのだが、そこで随分と意見の対立があったと。 

今日は出だしが遅かった。「うたの日」のお題が出てしまった。「32音でお年玉」という。簡単短歌の作り方でやると真ん中にテーマを置く。そして前半と後半で逆説になるようにすればいいわけ。例えばネガティブな内容からポジティブとかに「お年玉」に変換させる。

親戚の子供ばかりの
お年玉
孤独老人夢から覚めて

これはネガティブ→ネガティブだからちょっとだけど。

今日は短歌レッスンも兼ねている日記だから。

「フェニズム」の話題に戻すと、上野千鶴子は失語症になって尾崎放哉の自由律俳句に出会って俳句同好会に入ったのだ。けれども俳句同好会は伝統俳句が主流だったのだろう(推測だが)。そこで議論を重ねていくうちに疎外感を感じた。それは、言葉というものは他者の言葉だから。俳句の世界はそこに自己を消していかなければならない。短歌だったらまた違ったかもしれないと言っていた。それに気づいたときに他者の言葉なら、それで自己ではなく一般論でやっていけばいいと社会学という学問の世界に入った。文学は一般論ではなく自我を表現していくところだから。学問は少なくとも客観的に他者の言葉を組み立てて議論すればいい。そこが上野千鶴子のフェミニズムだったのではないか?最初に疎外があるわけだ。

フェミニズムでわかるのは、疎外ということ。それは社会の仕組みが家父長制的な世界で成り立っているから。そこで女性は疎外されていくのだ。

家父長的世界はでは疎外していくのは女性だけではなく弱者である者も疎外していく。それは子孫を維持していくのに強い男を求めるからだ。生物学的にそれは当然という立場なのかもしれない。しかし、進化論で必ずしも強いものが生き残るのではないこと。恐竜の滅亡は巨大故に飢餓に絶えられなかった。そういう世界で生きてきたのは哺乳類の子孫である本来なら恐竜に捕食される動物が逃走=闘争で生きながらえてきた。これは生物学的にみた優生思想の過ちとして論じられている。

このへんは複雑だが、必ずしも一元的な優生的な生物が有利に生き残るのではない。多様性という生命システムに対しての対応が求められるのは、いいときばかりではないから。自然に四季があるように、人間にも四季がある。年中夏の繁殖期でもないのだ。人間の再生産ということを考える経済学は無限に自然の恵みがあるということなのだが、そのパイは限られているというのがエコロジーの世界。それだから限界ある生き方を模索していかなければならない。そこでフェミニズムなのか?

ちょっと違うかもしれないが弱者は疎外される世界を変えて共存する世界にして行こうとすることだと思うのだ。そこには男とか女は関係ないと思うが、女性性はまず自分の身体を通して考えていこうということなのだと思う。だからなかなか男には難しいのだが、老いることで疎外される社会を考えればわかるような気がするのだ。いけいけではいけない身体問題。そこに何を希望の世界として見出していくのか?

今日の俳句。

働かず正月三日フェミニズム

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