そのツケはだれが払うんだろう
海岸清掃をしていて思うこと。
ゴミを持ち帰らなくてよい代わりに、そのツケは海の生態系が、さらにそれを食べる自分たち、後の世代に巡ってくる。
このことを経済用語では、
「外部化」と言うそうです。
自分も他人事じゃなくて、日常でも、便利さと引き換えにコストを払わせていることはたくさんあると思います。
たとえば車。
便利さと引き換えに、
・資源の消費
・歩行者の安全を担保するための社会的費用
・排ガスによる環境負荷
・歩行者が歩きにくい街の設計
にコストを押し付けています。
たとえば安く手に入るコーヒーや服は、
他国の安い労働力に。
たとえば花粉症。
国策で無計画にスギを増やしたことのツケを後の世代が払っています。(つらい🤧)
たとえば児童虐待。
大概は弱い子どもがコストを払うことになりますが、虐待する側にも、社会や固定的価値感のコストが押し付けられていることが往々にしてあります。
たとえばマイナンバーカードを盗んだ職員。
非正規職員で使い潰される社会的コスト、職場環境の悪さ、当人や市を叩くだけでは解決できないコストが押し付けられているのかもしれません。(もちろんあかんことですが)
共通しているのは、
外部化は、大概立場の弱いものが引き受ける。
ということ。
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最近、
公助や自助から共助へ
受益者マインドではなく贈与できる場を探そう
といった世の中の意識の高まりを感じます。
個人利益の追求や公共性の限界をみんなが感じ始めているのかもしれません。
自己責任論の限界も最近感じています。
それは誰が受益し、そのコストは誰(もしくは何)に外部化されているのか。
波打ち際ではしゃぐ娘を見ながら、昼過ぎの海岸で思ったことでした。
海を純粋に楽しめる人になりたい‥
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考えるきっかけをもらったnoteと本↓
個人が「れりごーれりごー」した先に、エントロピーの増大しきった先には何があるんだろう、考えさせられました。