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「美学」(小田部胤久著)を読んで

難解なカントを親切に解説しているとの昨年12月の読売新聞の書評に、それなら読めるかと思って手に入れた。カントの判断力批判の第1部が、美についての思索の展開になっていいて、それを10の章に切り分けて、Aで解説している。そして、Bではカント以前を解説し、Cではカント以後を解説している。
やはり、用語がすっきりと頭に入って来ない。気になる語を並べてみると様子がわかるというものだ。これは、現れた順にメモしてみた。趣味、適意、感官、観照、現前、観想、表象、質料、陶冶、所産、謬論、包摂、範例、形相、範型、悟性、把捉、喜悦、格率、統覚、虚栄、奢偧、情態、当為、含蓄、微標、知悉、定立、基体など。用語解説を読んでも、普段使う意味と同じなのか違うのか、翻訳語なのか、その辺がしっくり入ってこない。
第Ⅰ章で、「美しい」と判断することを分析する。過去においては、バウムガルテン、以後においてはシラーやデュシャンの解釈を対比させる。デュシャンの自転車の車輪をスツールの上に取り付けたオブジェは、表紙にも登場していて、美、趣味、感性を考えさせる。
第Ⅱ章「趣味判断」は、美が客観性を前提としないこと快の感情とかかわることなどと分析する。第Ⅲ章の目的なき合目的性とは、どうやら「自然」ということを言っているようだ。
第Ⅳ章で趣味判断の範例性と称しているのは、実例であり普遍性をもつということに思い至る。第Ⅴ章は、感性の制約と構想力の拡張と題するが、崇高なるものを美しいものに対比して論じている。さらに第Ⅵ章では、それを展開するのであるが、このあたりで、純粋理性批判において認識における感性と悟性を論じていることと美という判断との関係を論ずる。
第Ⅶ章になって、美しいものの経験的関心、知性的関心を論ずることの解釈をイロクォイ人の「都市の美しい精華を賞賛しない話」やロビンソンクルーソへの言及など、社会的虚栄が美ではないという、一般にもわかりやすい実例が現れた。
第Ⅷ章「美しい技術」としての芸術は、一番素直に頭に入ってきた。技術には、機械的技術と美的技術があるという。これは、ハンナ・アーレントのいう労働と仕事の対比にも通じるのかと思う。そして有名な命題と称し「技術が美しいと呼ばれるのは技術が技術であることを我々が意識していながら、それがわれわれには自然として見える場合がある」とのカントを解説する。そして天才的芸術家は、一人ではなかなか才能が発揮できないという。以前クラシック音楽と江戸の版画が同じ時代だと思ったときに、西洋では音楽の天才が輩出し、日本では画家の天才が輩出したのだと思ったことに通じる。ただし、カントはあまり音楽を芸術として評価していないらしい。第1は言葉すなわち詩、第2は形、特に線描で、色彩はまた別。第3が音のようである。芸術や美を論じながら、シラーは出てくるけど、ベートーベンが出てこない。そしてカントによれば、「ニュートンを天才に帰すことは誤っている」(p.311)とある。これは、山本義孝の物理学についての本を読んだときにも似たことが書いてあった。しかもニュートンはオリジナリティに関して、論文を引用せずに自分の発見のように書いたものが多いようだ。もちろん、著名な建築家にもそのような人は多いが天才ではないということだろう。
第Ⅸ章は、美的理念に触れる。美しいものを見て力が湧くかどうかということのようだ。「美的意味における『精神』とは、心の諸力の活動を強め生気づける原理のこと」(p.346)とある。改めて、音楽が戦いを鼓舞したり、悲しみを癒したりする意味で、偉大なる美だと思うのだが、カントは音をあるいは聴覚を、どのように考えていたのか。さらには、「芸術は伝達の一種」というが、それであればますます、音楽の偉大さを思う。
終章Ⅹ章は、移行論を論じている。主観から客観へ、合理性から経験論へ、「美しいもの」から「崇高なものへ」。そしてまた、第1章と同じように、B.でバウムガルテンを、C.でシラーを登場させる。シラーの言葉は「人間は遊ぶときにのみ全き人間である」(p.420)「道徳的生は人間を自由にする」(p.421)。
美しいと感じることは、どういうことか、理性ではない、悟性でもない、やはり感性か。過剰とか、質と料とか、さらに立法性まで。哲学することを快く思うことか。カントに近づいたとは思わないが、カントをまた少し知った気がする。

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