はっきり分けるから境界をぼかすへ
おはようございます。
人生で嫌いなことのベスト3に折り紙が入っているのに、ついついやっちゃう「あお@aosenn」です。
さて、今日は「境界をぼかす」ということでお話をしたいと思います。
この境界って何の境界かと言うと、ボクらが普段から関わるものの境界です。
例えばヒミツキチ森学園で言うと、普段から関わるのは、子ども、ヒミツキチ森学園メンバー(スタッフとは呼んでいないんです!)、親チーム(保護者とは呼んでいません)、地域の方、プロジェクトチームの方々(300名を超えます)でしょうか。
たくさんの方が学園に関わってくれています。
以前facebookでこんな風に投稿しました。
スタッフと保護者と先生
その『くくり』って本当に必要なんでしょうか。
外部と内部ってわけちゃうからこそ、それが組み合わさった時にいろんな余計なことが生まれちゃうのかも。
ボクも当たり前に感じていたことですが、学校の外に立って初めて眺めてみると、その『くくり』が難しさを生んでしまっていたのかもしれません。
くくってることが悪いって言ってるわけではなくて、「こうでなければならない」ってものを取っ払ってあげると、また見え方が変わってくるのかもしれないです。
しっかりと学園側と先生側とスタッフがわと保護者側で線引きをして…
なんてことも言われたなぁ(クラファンの時?)
でも、線引きって必要なんですか?って言う話です。
線引きするのは、そこを管理して「問題を起きないようにする」大人の都合なんじゃないでしょうか。
大事なのは「望む姿」であって、望まない姿を消すことじゃない。
「はっきりと分けるから、境界をぼかす」にシフトしていくのがこれからの社会で必要なことじゃないかなぁと思ったんですね。
ある親チームのメンバーが「調理場を仕切らせてください!」と料理長に就任してくれたり、通っている子の兄弟が学習を見てくれたり…そんなことは、くっきり分けてたら起こらないわけです。
「学園のことはこちらでやりますので、すみません」ってなっちゃう。
子どもと先生の関係だってそう。
ぼかすからこそ、子どもたち自身がときに先生になって教えあうステキな姿が生まれます。
では、境界をぼかすために、ボクらが起こせるアクションってなんなんでしょうか。
1つには、「相手とギフトし合う」ということ。
ちょっとしたことで相手の喜ぶ顔を想像して、ギフトを重ねていくんですね。
ボクだったら、子どもや親の喜ぶ姿を思い浮かべながら、毎日数人の詳細な振り返りを学園のコミュニティに投下します。これは公立の学校ではファンレターという実践でやっていました。
もう1つは、「一緒の場にいる」ということです。
6月に入ってから、まぁ連日授業参観状態なわけです(笑)これ、毎日やっていると慣れるもので、非常に面白い試みだなぁと思っています。
ヒミツキチ森学園では、遠くから来ていただくご家庭もあるので、親チームが学園に残り、学習に加わっていたり、自分の仕事をしていたり…そんな光景が生まれています。
でもそれが自然の場であるということです。古民家だと馴染んじゃうんですね。親チームも一緒にランチしたり、サークルに入ってもらったり…
こういう環境が、境界をぼかすことを生んでいます。
もちろん精度や安全面は大事ですが、くっきり分けるから境界をぼかすへ、シフトしていくと、その空間では社会に近い形でいろいろなことが実現できるんじゃないかなぁと思ったよというお話でした。
現場から以上でーす。
今日のブログ
リヒテルズ直子さんや大日向小学校桑原校長も関わるプロジェクトのクラファン です!
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