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火を焚き、水が沸く

 無人地帯に入ってからもう2週間、人と喋っていない。人の声を聞いていない。車や電車の走る音も、TVやラジオから流れる音声も、部屋の壁に掛けてある時計が刻むチクタクも。日本での生活から考えると、なかなかの異常事態である。

 うるさいと思っていたあの雑音たちは、日常を日常らしく脚色するためには、意外と必要だったのかもしれない。綺麗な音だけが聞こえる世界では、もはや綺麗な音はただの音で、雑音がなければその美しさは感じないはずだ。

 
 今まで気づかなかった些細なことに気づき、何も感じていなかったことを感じる。どうでもいいことが疑問として次々と脳に浮かんでくる。
 オフラインの世界に自分1人となると、疑問が湧いても常に自分自身との対話で終結することになる。それが有意識と無意識のやりとりなのか、或いはおれに人格が2つ以上あるのかは定かではないが、今まで考えたことのなかったことを考える時間が膨大にあるのだ。というか、ほかにやることがない


 例えば、森の中では、どんなに深く眠っていても、夜が明けるとともに目が覚める。なぜだろう。体のリズムが自然のリズムに同調してきているからか、それとも夜明け前が1番寒いために、体を動かし凍てつくまいとする生存本能に依るものなのか。いや、たぶん単純に安物のテントが陽を遮らないから眩しくて目が覚めるのだろう
 
 
 そんな感じで毎日他愛もないことを考えながら朝飯を作っていた。

 自分の怠惰さが顕著にあらわれるかのように、調理時間0分で食べれるパンが食糧袋から一番乗りで姿を消し、次に3分で作れるインスタント麺が、追って8分のパスタが徐々に数を減らしていき、やがて炊くのに時間のかかる米だけが最後まで残った。それからは朝から米を炊く羽目になった。ちなみに主食は米が1番好きである。

 荷物が多くなるのが嫌で、おかずはハムやチーズなどを除いてはほぼ持っていなかった。味付けはいくつか持っていたスープの素みたいなものが主。出発後に気付いたのだが、食物を栄養素的に赤黄緑の三色に分けた時の緑ゾーンの食べ物が全然足りていなかった。我ながら大胆な食事計画である。ここでこんなこと書いたら、おそらく健康分野の誰か偉い人に怒られるであろう。

 このように偶然が重なり質素を極めた食事は、ここでは生命維持のためにのみ役割を果たしていた。
 最初の1週間は腹が減る度に、なぜか中華料理屋で次から次へと出てくる大皿料理と、ファミレスのドリンクバーという2つのイメージが交互に脳内を支配していた。その度によだれで口の中が潤されていたのだが、何もないこの場所では、その無意味な妄想は自分を苦しめるだけだと学びを得たのか、少し経ってからはそのイメージは段々と薄まり、やがて美味いものを食いたいという欲すらなくなった。あのまま本気を出したら悟りの境地に達していたかもしれない。

 4Ⅼのボトルに満タンに持ってきていた水は、文字通り渇望した体が、一日目に全部飲み干してしまっていたので、なくなりそうになるたびに近くを流れる小川で汲んでいた。

 アラスカの川の水は、おれの期待を大きく裏切り、うっすら濁っていて、半透明のボトルを満たすとそれがよくわかった。紅茶のティーバッグを繰り返し使い、ちょうど五杯目くらいの薄茶色。そのまま飲むとカタカナのナントカカントカという寄生虫がいるらしく、出発前にアウトドアショップで手に入れた浄水機能のあるカーボンストローなるもので、間抜けな顔をしてチューチュー吸って飲んでいた。

 調理用のストーブと燃料のホワイトガソリンを持ってきてはいたが、燃料には限りがあるため、できるだけ使わずに、拾い集めた枝木で火を焚いて煮炊きしていた。火加減の難しい焚火で炊く米は基本的に美味くないのだが、前述のように既に食に興味は失せていて、おれの脳は炭水化物が体内でエネルギーに変わりさえすればそれで満足していた。


 しかし面白いことに、お湯を飲む時だけ、美味い!と感じる自分がいた。乾燥した喉を潤しながら滑らかに食道を下り落ちていく水分が、冷えた体に直接熱を与えながら染みわたっていくさまを感じ、味覚がというより身体が悦んでいるようであった。煮沸している分、無意識に安心もしていたのかもしれない。

 

 薪を拾い、水を汲む。火を焚き、水を沸かす。もう何百年も前から営まれているであろう、この時間のかかる単純な作業の繰り返しを、現代の世界で毎日一つ一つこなしながら生きのびるために生活する。そんな自分を俯瞰すると、こんなにシンプルでも生きていられるという至極当然なことに気付かされ、またそれにある種の魅力を感じた。
 
 日本での生活が、ただ生きているだけでは飽き足らず、利便性や機能性や娯楽性が次から次へとアップグレードされている一方で、同じ世界の別のコミュニティでは、まさにアラスカのエスキモーのように、この現代においても昔から積み重ねた知恵とともに、ずっと変わらぬ狩猟生活により生活を維持している人々がいる。

 無人地帯でのサバイバル生活を通して、日々の日本での暮らしの豊かさにありがたみみたいなものを感じるのだろう、という出発前の安易な想定は見事に真逆をつかれた。
 雑音があるからこそ綺麗な音に耳が心地良く反応するかのように、無駄の多い都会生活との対比により、むしろこの生活のシンプルさゆえの美しさに惹かれたのである。何もない生活というより、生きることに専念し洗練されたという方が正しいのかもしれない。


 またそんな他愛のないことを考えながら寝袋にくるまる。陽が沈み、もう周りは真っ暗だ。ここでは1日が終わるのが早い。
 寒いので外に出る気はないが、深夜にはまた頭上をオーロラが揺れているのだろうな、という都会生活では味わえないであろう贅沢な環境を感じながらも、おれはこう思うのであった。「あぁ、でもやっぱりそろそろ帰りたいな。」と。

 おれのような怠け者の脳は、一度楽なことを覚えてしまったら、やはりその快適さを簡単には忘れられないようだ。



続く

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