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デザインと写真と、noteのはなし。


昨日の話の核と同じ話になるけれど、SUZURIで絵を描いて売っていて思ったことの話。

初めは自分が欲しいものを自分で描いて自分で買えばいいかなと思っていた。誰かと被らないし、Tシャツくらいなら、すごく高価なわけでもないから、それなら欲しいものを作った方が探すより良いなと思った。

それから、学生時代こんなのが欲しかったんだよなぁと思ったものだったり、好きな植物や虫を描き起こしたりしている内に、外で仕事ができなくなった自分にとって唯一続ける事のできる事なんじゃないかと思った。

それだけで生きていく事はできないけれど、続ける内に他の絵やデザインの仕事も見えてくるかもしれないと考えて。まずはそれから初めてみるのは良いかなと。

ただもう五月になるのに、いろんな事が思うように進んでいないので、とても焦る。こんな事では何も達成できそうにないなと毎日思う。


けれど現実的な話は置いておき、夢見がちな話を。

最近SUZURIでデザインを販売している事について、少しだけ意識の変わる事があった。

とても好きなファッションの方が、自分のデザインした服を購入し着てくれた。

自分のデザインの服を着る日があって、コーディネートを考えてくれて、写真を撮ってくれて…

それはあまり考えた事がなかった。

買ってくれた人がいる事が有り難いという感動は毎回、すごくある。本当に嬉しい。とても励まされる。けど、そうか当たり前だけれど服は着られるものなんだなと、アクセサリーやポーズやヘアメイクを考えて写真を撮ってくれた人のおかげで、今更やっと商品以上のものを認識できた。


なんだか話が重くなってしまうので、書こうか迷ったけれど、フラットに読んで貰えたらと思う。

もし自分がいなくなったら、それに備えて振込先を信頼できる人の口座などに変更しておけば、おそらくまだ服は販売されているのだろう。

そして少なくとも既に購入して下さった方は、自分がいなくなっても暫くはその服を着てくれるのかもしれない。

服は消耗品だし、生地の意味でもデザインの意味でも、いつか廃棄される日はくる。それでも、自分がいなくても束の間でも着られている服があるかもしれなくて、また販売も続いているというのは面白いなと思った。

今はデジタルタトゥーという言葉すらあるけれど、インターネットがない頃には考えられなかった。大多数の無名な人間は、身近な人に遺書や遺品を託す事しか出来なかった。

ネットの普及で売れなくなったものや、秀でることが難しくなり埋もれやすくなったものはたくさんある。今も多くのものが潰れていく時流だ。

けれど、このnoteもSUZURIも消される日が来るまでは、または運営側がやめてしまうまでは、誰でも言葉や商品を残しておける。

誰でも出来るのは価値が下がる事ではある。それでも、自分の作ったものや、愛したものが遺せるのは、なんか良いな。

自分をまるで知らない人が、偶然欲しいデザインの検索をして、偶然ヒットした自分のデザインを気に入って、手に入れてくれる事があるのかもしれない。

90年代の漫画やバンドでは、箱みたいなコンピュータ、ファンタジーと世紀末とが混ざって、滅びゆくディストピアのイメージが流行した。魁はブレードランナーやAKIRA辺りなんだろうけれど。

そんな未来的な遺跡に憧れのある自分にとっては、案外その理想を叶えられるのかもしれないなと思った。自分がいなくなった時に完結するちいさな物語。

誰にも気付かれなくてもいいような、いつか古いネットコンテンツの片隅に置き去りにされた遺跡になるだろうか。10年に一度くらい思い出して、覗いてくれる友人やフォロワーさんがいるだろうか。(いなくても構わないよ)noteは最初からその為に始めたものだったけれど、SUZURIは手に取れる品物だ。画家でなくても、名の知れたバンドマンでなくても…

それってちょっと素敵だなって、最近思う。

自分はコミケや、サークル活動、デザフェスなどとあまり縁深くなく、参加した事がないので、新鮮に思うのだろう。

写真も素材としてなど、今時不要だろう。無料から有料までたくさんのサービスがあるし、TwitterやInstagramにはたくさんのプロかプロ並みの写真が滝のように溢れている。

それでもこのnoteに出している写真は、この朝に庭に咲いていたこの色の花があり、この部屋に射した朝陽があり、その光を輝かせることのできる鉱石や硝子があった事を、遺している。

つまらない有り触れたものなのかもしれないけれど、私小説のような写真を、いつか誰かがふと、そんな朝を見たくなった時に見て貰えたら良いと思う。

今年咲いた花が必ず来年も咲くわけではないと知っているし、撮影するたび細かに砕かれる鉱石の脆さ、いつまであるかわからない自分と庭と家とその窓辺、二度目は無い時間。

溢れている誰のどの写真ももちろん同じだ。二度目はない。全て瞬間で、たとえ似ていても同じではない。

デザインだって、言葉だって、写真だって、絵だって、何時間かけて制作しても、InstagramやTwitterの滝で見かけ感動する時間は、余程琴線に触れなければ実に2秒も無いのではないかと思う。

だからそこに載せないものがあっても良いかなと、思っている。この箱庭みたいな自分の遺跡にひっそり飾っておこう。秘密の花園みたいに。お金を鍵にするのは無粋かな? そうだと思う。けれど、それでなければ、誰も迷いもしない。スクロールして、それで終わりだ。

購入して見て下さった方、あの朝の陽射しとあの日の花の色彩が、どうか綺麗に届いていますように。束の間でも、時の留まった瞬間の質感が癒しを生みますように。呼吸を留めるように露出を合わせる瞬間、それを焼き付けてくれるよう願って、シャッターを切る。





これまでサポートくださった方、本当にありがとうございました!