金木犀の風
星が零れるように咲いた庭の金木犀もそろそろ終わりだけど、風の吹くたびその香りが部屋にも入っていた。秋の大気に金木犀の香りが満たされて、この短い時季に、必ず風と木の詩のジルベールを思い出す。今もシオン・ノーレに憧れたまま。
あまり想いが深いと言葉にし切れないことが多くて、紹介や感想を書こうにも、取り留めなく美しい場面や言葉が断片的に流れていってしまう。
高潔なセルジュと、奔放な美を持ったジルベールの対象的な在り方のどちらへも、こう在りたいと思うところは多かった。二人の関係の物語と同じくらい両親の話も好きだった。
終盤に最後の硬貨で海へ行く二人のことは、この先も死ぬまで忘れないと思う。自分は幸福よりも、美しさが欲しかったな。その為に破滅できるほどのものが欲しかった。半端に生きてきた自分には、どちらも手に入れられなかったけれど。
人はどうして海へ辿り着くんだろうね。
「世界の中心へ連れてって」とタクシーに乗ったマドンナはタイムズスクエアに降り立ったけど、この世の果てはどこだろう?
Vivienne Westwoodのあるロンドンのワールズエンド、世界の終わりという名の雑貨店で印象的な…
それを読んだ頃から、世界の果てをずっと探している気がする。世界の中心よりも、この世の果てに辿り着きたかった。
陸の果ては海だから、辿り着く場所なんだろう。母なる海というくらいだから、海には遺伝子レベルで特別なものを感じるのかもしれない。
前に世界旅行のような番組で、「素晴らしいものはいつも、海からやってくる」と、海辺の漁師が言っていた。
ドイツ映画のKnockin' on heaven's doorで二人が死にに行くのも海だったね。
老人と海は、まだ読めてない。どんな物語だろう。
海には、深い思い入れがある。
この頁に思い出のすべてを書き切る事は出来ないから、また少しずつ書こう。
この薔薇は、以前書いた、株分けしたレンゲローズが無事に開花したもの。今季は咲かないかなと思っていたけれど、元の親株より立派な蕾を付けてる。
と、花が咲くたびにパスカル・ビケの言葉を思い出す。その話を東京のどこかのカフェで友人としたな。あれはいつの記憶だろう?