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小説詩集「青いサンゴ礁」

私は青い大海原へとダイブした。
そこはあくまでも澄みきって自由だった。
そのはずだった。
早朝私は家を出る。白いあぶくがブクブクと私を包む。四肢を伸ばして泳ぎ出すと水は冷ややかで、それを感じながら私は進む。白いサンゴが美しい。赤いサンゴも眠る貝も美しい。右を見て、左を見て、耳を澄ませ、私は軽く笑みをつくった。すべてが体にしみ込む。子供の頃と同じだ。と言っても、いつ頃のことかは定かでない。


信号を待つ。徐々に私は喧噪に包まれる。赤いシグナルと青いシグナルが交互に現れる。それは時々忙しそうに瞬く。私は再び喧噪に目覚めて前進する。知らない人たちがやって来ては通り過ぎる。知らない人たちだからそれは本当に海藻ににている。ただ違うのは、彼らにぶつからないように上手にすり抜けなければならないこと。ごく自然に数センチ、数ミリのぎりぎりを行き交う。彼らが海藻だったら私は挨拶するだろうに。海の中ってそんなことを思わせる。


ビルのドアが開くと私たちは潮の流れに流されて、それぞれが水流を描きながら進んでゆく。私はなぜか溺れそうになる。えら呼吸ができない。水面へと浮上したくなる。遥か昔陸上に住んでいた名残か。
私は海流をどんどん進む。周りに小魚が無数に群がる。楽しそうにおしゃべりしながら、噂話なんかしながら、あるいはたわいのない愚痴を言いながら同じ方向に大きくうねってゆく。私は驚いて方向転換する。うねる方向を知らなかったのだ。それどころか、どうして他の魚たちはうねりを知っているのかさえ知らなかった。だから余計に慌てたのだ。


慌てたのは一度だけではなかった。他のキラキラした、あるいはツルツルした魚たちの流れに追いつこうと走り出すと慌てることしきりだった。小さなパニックが何度も訪れた。それでもくじけなかったのは、自分もやはり魚だったから。何とかやろうと思えばえら呼吸はできる。ただそれが何故かスムースじゃないだけ。けれど、そのスムースじゃないことが気にかかる。


何度も群れの方向を間違えているうちに、私自身の姿が否応なく見えてきた。驚いたことに私は小魚ではなかったのだ。みんなよりかなり大きかった。それでも最初のうちはみんなを騙せているような気がしていた。だから、息を止めて体を小さく見せた。そのうち、何とか騙しおおせていると思い込んでいる自分を騙しきれなくなった。すると余計に体は巨大化した。


「やあ、店員さん。君、僕に挨拶しなかったね」
お客さんが私をなじった。そういえばこの人は何度か、いやそれどころかかなりの頻度でお店に来ているような気がする。見たことのあるような、しかし他の誰とも同じようなその面立ち。私の頭の中は真っ白になった。見つからない記憶を無理やり探そうとしたせいだ。
「店員さんよ、愛想が悪いんじゃあ、これからはお付き合いできないねえ」
私はまっかになった。お客さんのことなんかどうでもよかったけれど、私の頭の中に何のデータも入っていなかったから。嵐のようなパニックがおとずれる。そしてよく見ると、お客さんは大きな姿をしていて私の方が小魚になっている。自分が驚くほど巨大化していると思っていたのは間違いだったのか。パニックは吹き荒れる。
けれど、お客さんが帰るとやはり私は大きな魚に戻っていた。他の店員さんはみんな小魚で、私だけが膨張していた。

潮は大きく満ちてくる。注文伝票が何枚も流されてゆくけれど、私は溺れかけながらそれを見送るしかない。見知らぬ荷物が次々やって来てすべてをお返ししたくなるけれど、何か仕分けるヒントがあるに違いない。私は息も絶え絶えに右や左に振り分ける。
じっとりとした汗を拭く暇もなく時間は積み重なり私を押しつぶそうとする。ああ、これが恋人の包みだったら丁寧に紐をとき、ゆっくりと品を定めておくべき棚におけるのに。祖母が元気だったころの夏休みの朝を思い出す。そのころの幸せが私を熱くして胸を焦がす。焦がされた胸はただれて押しつぶされる。


潮が引きはじめる。すこしだけれど、あれもやった、これもやった。失敗もあった。伝票の一文字が余計だったせいで何度も書き直した。そんなことを指摘されるたびに、自分はやはり陸の生物だったのかと思う。みんなは上手に泳いでいる。
「お疲れ様」
小魚さんが私に挨拶する。
「お疲れ様、お先に失礼」
私は再びドアをキックして泳ぎ始める。少し自由に、どんどん自由になってゆく。ビルを出ると再び見知らぬ小魚が行き交っている。私はもう人目もお構いなしに上を向いたり、ため息をついたり、頭をふったり、髪をかき上げたりする。うろこに着いた何かとげとげとしたものを振り払うために。
電車に乗って駅を出て町の角をいくつか曲がると、そこは陸だった。小さな島の上だった。そこには、はっきりと知っている人達がいた。恋人と、母親と弟が。
「お帰り」
と彼らは言った。
「疲れたろ」
と恋人が言った。
「君がすきだよ」
彼はそうも言った。船がやってくるのを待ち望んでいたこともあったけれど、船は私をどこへもつれていってくれなかった。ラグーンは昔からあった。そして今もある。私の泳ぎがうまくなっていないだけなのだ。青く澄みきった、冷たく寒い、かつては自由だった私の青いサンゴ礁。

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