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漫画家として生きることの喜びと悲しみ

売れない無名の漫画家である私がこの出来事について言及していいのかどうかわからず迷いましたが、私の考え、意見をここに
まとめておきたいと思い、書くことにしました。
少々長くなってしまいますが、今の私の気持ち、
今後も私自身が漫画家として生きるために書きました。
主観ですので、これが正しいとは言いません。
共感も難しいかもしれません。
もし興味のある方は最後まで読んでいただければ幸いです。

芦原妃名子先生の自死というショッキングで悲しい
出来事について


私は芦原先生の特別ファンというわけではなく…
それでも、誰でも名前、作品を知られている
現役バリバリの人気漫画家で
あるということはもちろん存じています。

そして、「セクシー田中さん」がドラマ化されたとき。

「セクシー田中さん」という作品の存在も
もちろん知っていたし、
しかも芦原先生は過去に「砂時計」でヒットして
ドラマ化されていました。
長年第一線で活躍し執筆されていることに対し、
尊敬とあこがれと共に、
ぼんやりと、「いいな、すごいなぁ」
「いいな、ドラマ化かぁ」としか思っていませんでした。

もちろん漫画だけでも作品として完成されるので、
漫画家は誰も、映像化を「目標」とはしていないはずです。

でも…

やはり、同業者、私のような売れない漫画家には
夢のまた夢の話なのですが、どうしても
「ドラマになれば一気に認知度が上がるだろうな」
という打算が含まれたあこがれがあることは否定できません。
そうすれば、自分の漫画も、もっと多くの人に
知ってもらえるし読んでもらえる機会がぐっと
広がります。
「いつか私も…」という思い、
「映像化されるくらいの漫画を描きたい」という思い。
それはたぶん、多くの作家が思うことです。

そうすれば、売れる。
(実際には最近はすでに売れているものをドラマ化する傾向のようですが)
そして世間にも認めてもらえる。
そう思う人は少なくはないはずです。

なんでなんだろう…と今ではその単純な「あこがれ」が
すごく浅はかで愚かだった気がして…
気持ちがぐらぐらと揺れ動いています。
そして動揺しています。
そういう「浅はかなあこがれ」は
巡りめぐって結局他人や自分を傷つけてしまうことに
なるのではないか……。


芦原先生が亡くなる前日までのこと。
「セクシー田中さん」のドラマについての
ヤフーニュースでの記事が目立つようになりました。
そこで知ったことに私は度肝をぬかれました。

ドラマの9話と10話は脚本家ではなく原作者が脚本を書いた


これはびっくりしました。目を疑いました。
あり得ないことが起こっていたんだ、と呆然としました。
私がその騒動をヤフーニュースで知ったのは、
1月27日ごろ。
でも、そもそもの発端となった脚本家のSNS の投稿
は1か月前のこと。
その間、こんなことが起こっていたなんて、
本当に知らなかったので、驚きました。

原作者がドラマの脚本を書くなんてこと、今まで
ありましたか?
原作は漫画です。ドラマと漫画はまったく違うものです。
このことについて、少々長いですが、
私に説明させてください。

かつて脚本を学んでいたことがあった


私は以前…もう20年ほど昔のことになりますが、
テレビドラマのシナリオを学ぶスクールに通っていたことがあります。

漫画とドラマは似ている。というか
似ている部分がある。
それはプロットがあり、起承転結があり、キャラクターたちの
会話で物語が紡ぎ出されている…など
いろいろ共通点があります。

なぜそのとき、シナリオを学ぼうとしたかというと、
ストーリー作りを徹底的に学んで
身に付けたいと思ったからです。

漫画の仕事の依頼も、多くはないけれど
あることは、あった。

その仕事を、(絵は苦手であっても)
物語だけは完璧にしようと思いました。

とにかく暇が怖い性格なので、なんでもいいから
暇を物語を作っている時間で埋めたい。

仕事がない、少ない、と嘆く時間があれば
新しい物語の書き方にチャレンジしてみたほうが
いいと思いました。




あと、単純にドラマも好きだった。
当時、好きなテレビドラマがたくさんありました。
特に好きだったのは、常盤貴子主演の
「タブロイド」、「カバチタレ」、
豊川悦司主演の「青い鳥」などが
大好きで、どうやってあんなに魅力的で夢中になれる話が作れるんだろう、
と、勉強のためノートに話の流れとセリフを書き起こしていたこともあります。

そして「ドラマの脚本って正確にはどうやって書くんだろう」と
いう疑問もあり、脚本に興味がわいていました。


そのスクールでは、毎週1回2時間ほどの
授業があります。
まず半年間は東京から講師の先生がきて、講義です。
そして毎週、宿題が出ます。

1週目はペラ1枚(200字詰め原稿用紙1枚)
2週目はペラ2枚、3週目はペラ3枚、というように
毎週、違うテーマで、実際にシナリオを書いていき
提出していくという形でした。

そして、添削されて返してもらえます。
基本的なシナリオの書き方が、間違っていたりすると
赤でなおしてもらえます。
柱をたてるときの注意点、ト書きの書き方など
最初は間違いだらけでしたが、何度も宿題に取り組む
うちにだんだんとわかってきて、自然に身に付いてくる…
とてもいい内容の学校でした。
(すごく楽しかった)

(確か)約10分のドラマを作るためには
20枚のシナリオが必要です。

講義中心の半年間が終わると、
今度はグループわけされて毎週20枚のシナリオを
提出するという、わりとハードなスケジュールでしたが
そのとき仕事も暇だったもんで、
夢中になっていたし、毎週書かさず宿題を提出していました。



シナリオは、漫画とも違うし、小説とも
全然違うものです。

それは設計図のようなもので、それを見ながら
多くの人がひとつのドラマを作ることができる
非常に大切なものです。
俳優さんはもちろんのこと、
どんなスタッフが見ても、そのスタッフさんの役割によって
そのシーンでの役割が一目瞭然で理解できなければ
いけません。

脚本とは主に「柱」と「セリフ」と「ト書き」
の3つで構成されます。
その他の余計なことをごちゃごちゃ書いていたら
混乱して撮影ができません。


脚本家の仕事というものは、
その3つを駆使しておもしろいドラマというものを
表現するという職人の仕事です。

小説を書くことに慣れている人には
最初は少し難しいと思います。

ト書きに余計な感情を書くことはできません。
すべて、セリフ、動作で感情を表現します。
小説なら地の文、漫画ならモノローグを使って
表現できますが、脚本はそれはできません。
(モノローグをうまく使うドラマもありますが、あまり使いすぎると
うざいし幼稚にうつります)
回想シーンも多用するとわかりにくくなります。
(何か用事をしながらドラマを流し見する人もいるので)


私が長々と何が言いたいのかというと…

それくらい、脚本を書くこということは
慣れない人には難しいということです。

それなのに、漫画家である芦原先生が
脚本を書いた…なんて
本当に信じられないことでした。

芦原先生にもともとの才能があったからと
いっても、
脚本の書き方は素人の場合
半年繰り返し学んでやっと習得できるものです。
そして、口頭で伝えるのではなく
脚本に仕上げるということ…
10分のドラマを書くのも
素人なら1週間はかかるのです。

それを…30分のドラマを2話も…。

しかも…本職である漫画の締め切りもあったのに…!!

漫画は漫画で、これまたたいへんなのです。
ネーム自体はできたとしても
作画があります。
よく漫画家の作業場の実態をしらない人は
「アシスタントさんが背景描いてくれるんでしょ」
と簡単にいいますが、
それは、本当に時間がないからです。
先生ご本人だって背景だって描けます。
トーンだって貼れます。
でも、キャラクターを描かなければいけない。
1回の漫画の原稿というものは
どんなに優秀なアシスタントさんがいたとしても、
1日徹夜して完成できるもんじゃないんです。

もしネームにやり直しなどがあり時間が裂かれると、そのぶん
作画の時間が減ります。
でも、ネームも納得がいくまで直さなければいけません。
でも、作画に手を抜くわけにはいきません。



異常です。
どんなに苦しい作業であったか…。
想像するだけで吐き気がします。



なぜ、こんなことになったのか。

芦原先生の当初の約束として
「あらすじとセリフを用意する」そしてそれを
プロの脚本家の人に形にしてもらうという
方法はとても正しいことだと思います。

でも、実際はじまってみると、
毎回先生が用意したあらすじと大きく異なる脚本が
出来上がったというじゃないですか。

そのたびに、毎回毎回、芦原先生が
修正して戻し…という作業を
8話まで繰り返していたそうじゃないですか。

これはよく脚本家側が反論して訴えている
「漫画とドラマは尺の関係云々があって、
その通りにはならないのであって云々」
ということとはまったく関係ありませんよね。

尺やテンポの問題ではありません。
そんなこと誰だってわかってます。
そういう専門的なことを「原作と違う」と文句をいう
原作者なんていません。

脚本家側は尺がどうのこうのってすぐに
訴えてくるけど、
じゃあ、漫画は好き勝手好きなページをいくらでも
使えると思っているのですか?
漫画だってページ数に厳しいのです。
「今週は24ページで」と言われたら24ページぴったり、
「60ページで読みきりで」と言われたら
60ページぴったりの読みきりを
用意します。
プロなら、できます。


脚本家は、ドラマとしてちゃんと伝わるような
設計図を作るのが仕事です。

だったら、脚本においては本職ではない
芦原先生が、あらすじを書いて、それを
きちんとぴったり尺にあった脚本という形にすることぐらい、できるはずですよね。プロなのですから。


でも、それを脚本家はしなかった。

「できなかった」のではなく、
「わざと」、しなかったのでしょう。

脚本家の誹謗中傷はおやめくださいとはいってるけど、
じゃあ、なんでバカみたいにわざわざ毎回
芦原先生の提示するあらすじとまったく違う脚本を
書いて提出していたんでしょう?
まるで挑発しているみたいじゃないですか。
そして最終的に何度も修正を求める芦原先生に対し、
「そんなに気にくわないのならあなたが書いてみなさいよ」
となってしまったのでしょうか。
もし本当にそうであったのならば、
ガラスの仮面に出てきそうな陰険な筋金入りの悪役キャラです。

9話、10話は、ちゃんとあらすじ通りに書いてくれる
脚本家に交代してほしい、と先生は訴えたそうですが

当然、できますよね?プロの脚本家なら、
先生のあらすじを正しく脚本にすることくらい。

でも、どうしてそれが、先生本人が書く、
なんてことになったのでしょう。




シナリオの学校の話に戻しますが、
小説を読んで、それをドラマ化すると仮定して
プロットを書く、という課題がありました。


課題の小説は2つあってどちらか選ばなくては
なりませんでした。
「自分の好きな小説を」ではなく
学校側が「これを書きなさい」と選んで指定した
小説です。

ここでドラマ(映像)というものと、小説というものの
表現の違いを学ぶことになりました。
小説は、感情のおもむくまま
話の流れがいったりきたりできるけど、
ドラマではそれができない。

場合によっては、エピソードを大幅に削ったり
逆に足したり、キャラクターを減らしたり
しなければ、とっちらかってしまって、
ドラマとして「何がいいたいのかわからない」
となってしまいます。

でも、一番大切なことは、
大事な部分は絶対に変えない、ということ。
自分が好きか嫌いか共感するかしないかとか
関係なく、その原作となる小説を
何度も何度も読み込んで、自分の中で
キャラクターを組み立てる、そして
「自分はこういう意図でこういうラストシーンにしました」
と、胸をはって自信をもって言う。

もちろん、原作と自分の意見は違うという
場合はあるでしょう。
でも、そこも脚本家の仕事です。

原作者だって同じ人間です。
何を表現したいのか、何を伝えたいのか、何を訴えたいのか、
ということを掘り下げていけば、必ず自分の中にも
同じ思いにたどり着くはずです。

要は「掘り下げる」、ということ。

人間の、考え、答えはひとつじゃないはずです。

そうやって原作者の思いを深く共有することで、
自分という人間も一歩成長するのでは
ないでしょうか。

おおげさかもしれませんが
「他者」と「自分」とは深い部分でつながっていることを
感じることができるのが
ドラマの魅力のひとつではないでしょうか。

脚本家さんが「そこまで考えて仕事してねーよ笑」ていうなら
仕方のないことですが。

なにもオリジナルだけが自分の作品という
わけではないはずです。

一人の人間が命がけで書いた原作に
違う表現方法で携わるということ、
それも立派な脚本家の仕事なんじゃないですか?

よって…

プロの脚本家さんであれば、当然
それをわかっているし、「できる」はずですよね。

芦原先生の原作を読んでいれば、
きっとこのお話の核たるものが
なんなんのか、
一体どうして毎回毎回
修正を求めてきたのか
それくらい理解できているはずです。

だったら…

「わざと」「わかっていて」
まったく違う話に書き換えていた。

ちょっと私には理解できません。
わざわざそんなことまでする理由って
一体なんだったのでしょう。

プライド…ですか?

原作の漫画なんかよりも
いいものが書けるんだぞという中学生並みのアピールですか?

漫画家が上とか脚本家が上とか、そういうことではなく、
もしも、本当に脚本家としてのプライドや誇りが
あるのなら…。
オリジナルでは通らないとかまた漫画原作でいっか、とか
ぐちぐち文句いってないで…

ちゃんと脚本家としての仕事をまっとうしてください。


漫画家、小説家、脚本家の大きな違いとはなんでしょう。

漫画家と小説家は、それだけで作品として完成します。
でも、脚本家は、あくまでも、脚本を書く仕事です。

脚本は、映像にすることを前提に作られた設計図です。

脚本は、脚本そのものだけではまだ未完成なのです。

その脚本を頼りに、俳優さん他、多くの様々な人たちの手が
加わることによって作品は完成します。
要は裏方です。
裏方がどうのといっているのではなく、
(たまに脚本自体が素晴らしい!芸術だ!というものもあるかもしれませんが、一般の人の目にふれることは難しい作品です)
裏方に徹する脚本家というものを目指したのでは
ないのですか?
一体なんのために脚本家になったのでしょうか。
自分の筆ひとつで有名俳優たちがその通り動いてくれるので
それが快感になっちゃったのでしょうか?
自分は偉いと勘違いしたのでしょうか?
本当に偉大な人ならば偉くなればなるほど謙虚になると思いますが
違いますか?





少女漫画家の孤独と悲しみ



これは、実際私が原作を読んだわけでもなく
ドラマもまだ観ていない身なので、憶測、というか
ここ数日の芦原先生に関するニュースや記事を
読んだ上で知ったことなのですが…

「セクシー田中さん」は今までの恋愛漫画にありがちな
ものをすべてあえてとっぱらった革命的な作品らしいのです。

「少女漫画」「恋愛漫画」と聞けば
一般的に、「ああ、イケメンが平凡な主人公のことを
好きになってくれて幸せにしてくれるやつだよね?」
という偏見があると思います。

そしてこれ長年、私たち恋愛漫画を描く女性の作家たちを
苦しめてきました。

私たち漫画家は…

本当はそういう甘いぬるい恋愛なんて
描きたくない。

だってそうじゃないですか?
イケメンや王子さまや御曹司が
救ってくれて幸せにしてくれることを
本当に望んでいるのなら、
そもそも漫画家になんてなりません!
(ここは声を大にしていいます)

そもそも漫画家になんてなりません!
(大事なことなので2回目)



確かに、少女漫画のテーマの多くは「恋愛」です。

「恋愛」ってすごく難しい。

でも、一般的に「恋愛もの」って
なんだかすごく軽いものとして
扱われています。

そして「恋愛もの」だから、
最後は一番好きな人と結ばれてハッピーエンド。

…なのですか?本当に?
それだけでいいのですか?

もっといろんな恋愛の形やテーマがあるはずです。

「セクシー田中さん」も少女漫画家による
恋愛ものなのだと思います。

でも、今までの「恋愛ものってこうだよね」という
セオリーをわざとはずす作品であったようなのです。


私はこのことについて、
深く自身の作品について、仕事についての
あり方を反省することとなりました。


一般的な少女漫画とは…

二人ほど甲乙つけがたいイケメンが登場して
主人公は最後はどっちとくっつくのかな?
というものが大半です。
少女漫画の恋愛ものは
「くっつく」というラストに向かうことが
正しいかのようになっています。
(くっつく」という表現も冷静に考えると気持ち悪いですね)

この一連の騒動を知る前、
ドラマの「セクシー田中さん」が最終回を
迎えたあと、まだ9話と10話は原作者が書いたという
ことを知る前、
どなたかのドラマの感想をヤフーニュースで読みました。

そこには「セクシー田中さん素晴らしかった」という
内容が綴られていました。
どこが素晴らしかったかというと、
よくある恋愛もののように安易なハッピーエンド(ちょうどいい誰かとくっつく)には
しなかったから、という部分です。
その感想を書かれた方にとって、
そのラストは、本当に勇気を与えてくれる
納得のいくものだったらしいのです。
そして「救われた作品」となったのです。

私にとって、
「おもしろかった」「好き」を超える感想は、
「救われた」です。

女性は、この世の中で、

救われたいのです。

「女性は恋愛もの好きでしょ」
「恋愛ものっていったらイケメンと結ばれてハッピーエンドでしょ」
なんていうことは、断じてないのです。

よくある恋愛もののストーリーが安心できるから
好きと言う人ももちろん多いと思います。
でも、それをはずすことによって
救われる女性も確実にいるのです。


女性はみんな同じことを求めているわけではないのです。


少女漫画で恋愛もの、だったとしても
恋愛しなくていい。

俗にいう恋愛だけが女性の幸せではない。断じて、ない。


これはすごく新しい選択肢だと思いました。



それで思ったのは、
そういう漫画を産み出した
芦原先生は、ものすごく苦労したし、
戦ってきたんだろうな、ということ。


私が漫画家としてデビューした頃、
デビュー作は男女の恋愛ものではなく
少年と青年の友情の話でした。

でも、その後は男女の恋愛ものしか
描かせてもらえませんでした。

デビューしたばっかりのなにもしらない
自信もない世間知らずの田舎者の小娘が、
編集者に逆らえるはずがありません。

そのときの編集者に言われたのは、
「漫画読んでる人って大抵彼氏もいないし暇なひとだから」
といった内容のことでした。
「だから、漫画の中だけでも夢みさせてあげて幸せな気分にしてあげなきゃ」
というわけです。

私はショックでした。
私自身も、その編集者の言う
「彼氏もいないし暇な人」の部類だからです。

「そういう人がこぞってあこがれるような恋愛の世界を
描けるようになりなさい」というわけです。
私自身が恋愛してないのに?

恋愛よりも夢中になれるものが
漫画にあると信じたから漫画家になったのに?

なのに漫画のなかでは「恋愛が一番最高!ハッピー!」なものを
描かなければならないの?



これはもう30年以上昔のことですから
今は違うとは思いますが…。


私は漫画を仕事にするために
しがみつくような思いでやってきました。

なんでも描いたし、
編集者が「直して」と言われたら
直してきました。

でも…

今おもうと…

なんであんなに編集者の言うことを
きいていたんだろう?

ということです。




芦原先生が人気作家だからって、
自由に描けるわけがありません。
しかも小学舘です。
私の抱く小学舘の少女漫画、女性漫画のイメージは
古い体質の昔ながらの少女漫画です。

きっと「セクシー田中さん」の連載をスタートさせ、
ここまで人気漫画になるまでに、
ものすごく苦労したはずです。
編集部、出版社の圧力だってあったはずです。
そして厳しい締め切りもある。

私のような売れない漫画家と、
芦原先生のような人気作家の大きな違いは
きっとここです。

自分の信念を曲げなかったこと。



そんな苦労を乗り越えてやっと
生まれた作品なのに…

ドラマ化ということになり
今度はテレビ局や脚本家にないがしろにされ
軽く扱われ…

どんなに辛かったか。

一人で、ダムで、命を絶ったなんて…

悲しすぎます。

「それくらいで死んではいけない」と
言う人もいるでしょう。

でも、先生は死ぬほどつらかった。
ドラマがはじまってから、ずっとずっと
つらい思いを抱えてきた。





この騒動の中、
「そもそもドラマ化が嫌なら承諾しなければよかったじゃないか」
とか、
「一度原作として手離してドラマはドラマで別物だとわりきれば」
とか、そういう意見も飛び交っています。
でも、
実際、こうやってドラマ「セクシー田中さん」で
救われた女性がいるのです。

芦原先生が途中で投げ出さず、一度受けてしまったのだから
最後までやりとげなければ、という強い責任感と
作品を守る気持ちで最後まで格闘してくれたからこそ
救われた人がいるんです。






漫画家として生きていくために



私も、「セクシー田中さん」で救われた人がいるのと
同じように、
たくさんの漫画に救われてここまで生きてきました。

漫画だけではなく、ドラマも、映画も、小説も

私は「物語」というものが好きなんです。


私はこれからも漫画を描いていきます。

恋愛ものを描いていきます。

それは、私が「こう思う」と訴えるものを
描きます。
信念をもって描きたい。
読んだ人が救われるような話が描きたい。
まずは自分自身が救われるような話を描きたい。
自分に恋して愛するような物語を描きたい。

仕事の合間に描き続けている
インディーズ作品に加えて、今、もうすぐ始まる連載の準備中です。

それは恋愛がテーマです。
(でも、普通の恋愛ではない!)

誰にでも親しみやすく、おもしろく
疲れたときにでも気軽に読めて、エンタメの要素も忘れずに、
その中に毒もあるような
そんな恋愛の話にしていきたい。


自分が長年売れない漫画家であることを、

もう気にしない。
自分を卑下しない。
周りの人に漫画を描いていることを理解されなくても、
悲しまない。
自信をもって責任をもって、描き続けたい。

だって私は自分の描きたいものが
描けるはず。
絶対絶対、描けるはず。

私の漫画を読んでくれる人のため、と
自分のために。

私も

救われる物語を作っていきたい。


















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