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【ショートショート】帰りたくない人

おかしな感覚かもしれないから、あまり今まで人には言わなかったのだが時間もあることだしこの機会だから語ってみようと思う。
私は実家のある愛媛県から就職のために出てきた岡山県に帰るバスに揺られている。読みかけの本を閉じ、ふと窓の外に目を向けた。

つい30分前に松山市駅から高速バスに乗り込んだ。
バスが動き出すその瞬間まで母は見守ってくれる。
お盆明けの蒸し暑さの残る日もお正月終わりの凍えるような日もバスが見えなくなるまで。
「私もう大人だよ。そんな見送ることないのに。」と心の中で小さくつぶやくが、決して口にすることはなかった。
窓の外から見える母の表情が「何歳になっても大切な私の娘なのよ。」と訴えているようだったので、わざわざ伝えるのは愚鈍だと感じた。
私はいつも通り困ったような笑顔で黙って手を振り返す。

別に県外で一人暮らしをすることを寂しいと感じたことはないし、帰宅してしまえばいつも通りの日常が始まるだけだ。確かに長期休暇後の仕事始めは体も心も人並みには重い。しかし、日常生活を自分の手で進んでいる感覚が嫌いではなかった。それなのに、バスに乗って母に見送られる瞬間だけは、本気で帰りたくないと思ってしまう。

生まれ育った愛媛の空気は私の全てを優しく包んでくれているような安心感がある。離れたくない、家族のそばにいたい。そんなことを口にするには大きくなりすぎていて、なんでもないかのようにバスが動き出すとバッグから取り出した文庫本に目を落とすのだ。

どんどんと市街地からは遠ざかり、あっという間に住宅よりも緑の割合が増えてくる。さて、それでは本題に戻ろう。

物心ついた時から、自分の過ごしている時間をふと客観的に見ることがあった。

夏の暑い日小学校から汗だくで帰ると、祖母が私を笑顔で迎えてくれる。
「暑かったでしょう?アイスあるから食べる?
カルピスも冷えたやつがあるよ。」
私は大きくうなずきながらランドセルを降ろす。汗でぐっしょりと濡れた背中に扇風機の風を当てる。
祖母からアイスとカルピスを受け取り、テレビでNHKの番組を見ながらきんきんに冷えたアイスにかじりつく。
そういった何でもない時間を、無意識に外の視点から見つめることがあった。

「幸せだな。この時間は今しか味わえないんだろうな。
大人になったらおばあちゃんとこんな風に過ごす時間も少なくなるんだろうな。」なんて頭の隅でぼんやりと考える。なんだかその度に少し空しい気持ちになった。ずっとこの時間が続いたらいいのにだなんて思うこともあった。こうやって家族で過ごせる時間は期間限定で、特別なことなのだと幼いながらに理解していた。

祖母の実家は久万高原町にあり、祖母の姉は久万高原町に在住していたため夏休みには妹とはとこと3人で山に泊まらせてもらっていた。田舎の地元の夏祭りで盆踊りに参加したり、川に泳ぎに行ったり、全員怖がりの癖に肝試しをしてみたり。確かに楽しい時間だったのだが、どこか不安と焦燥を強く感じていた。この風景が、この気持ちが、この時間が永遠ではないことに気が付いていた。

私が毎年のお年玉を貯めて、初めて自分のお金で購入したのはデジタルカメラだった。中学1年生の時だった。当時のカメラだからそんなにいい性能のものではない。ただ、どうしてもカメラが欲しかった。

母の趣味が写真だったことも多少影響しているのだが、それだけではなかった。永遠ではない一瞬一瞬をできるだけとどめておきたいと考えたのだ。過ぎてしまった時間は戻らない。戻らないから過ぎてしまえば本当に存在していた時間だったのか証明するものが何一つ残らなくなってしまう。時間が経てば経つほど本当に起こった出来事だったのかそれとも夢だったのかどんどん曖昧になっていく。その感覚をいつしか恐ろしいと感じるようになった。

だからどこかに行くたび、何か心が動くものに出会うたび写真に納めた。
それが期間限定のプリンの入れ物だったとしてもティッシュケースだったとしても写真を撮って残した。

幸せな時間にとどまりたい。失われたくない。
今でもその感覚は抜けなくて、だからこそこのバスが正直目的地に着かなければいいのにと思ってしまう。願うならば、乗っていたらもう一度地元につかないかと馬鹿なことを考える。

いや、やっぱり言葉にすると少し異常な人だと思われるかもしれない。
過去に執着しすぎだと我ながら苦笑しそうになる。
そんなことを考えているうちに瞼が重くなってきた。
再度私は岡山に向かって進んでいくバスを恨めしく思いながら、重くなる瞼に逆らわず目を閉じる。今私の話を聞いたそこのあなたも私のことをおかしいと思った?それとも少しでも共感してくれたのだろうか。あまり理解されないから、少しでも分かってくれたらこんなに嬉しいことはないのだけれども。

どれくらい眠ってしまったのだろう。
ゆっくりと目を開けると外はすっかり暗くなっていた。
何か違和感を感じ、周りを見渡してみる。
何かがおかしい。その違和感の理由を知るのに時間はかからなかった。

時期的なこともあり、乗った時には満席だったはずの車内だが、明らかに人が少なくなっている。見渡せる限りだと私以外に3名程度しか乗車していないようだった。

目的地である岡山駅はバスの終点だったが、一番下車する者が多い場所だった。降りる地点が終点であることもあり、安心して寝ていたのだがなぜか焦りを感じていた。バスが出発してから3時間ほど経つ。時間的にはもうすぐ岡山の市街地が見えてもいいはずだ。

どうやらそわそわしているのは私だけではないようだ。
2つ前の窓際に座っている大学生くらいの男性もあたりを不安げに見渡しているのが分かる。窓の外は相変わらず真っ暗で、街頭の一つも見えてはこなかった。いったい自分がどこを進んでいるのかも分からなかった。

ひとまずバスの現在地を知るため、スマホでマップのアプリを開く。
「あれ…?」
いつもであれば現在地を表すはずの矢印がその場にとどまって振動するばかりだった。場所がどこなのか探ろうとするが地図を縮小することもできないので、周りの様子を知ることもできない。

諦めてスマホを閉じ、もう一度窓の外に視線を移す。
すると前方にやっと街らしい街頭が見えてきた。乗車客の数は異様だと思っていたが、どうやら無事に岡山についたらしい。私は胸をなでおろそうとした。

しかし、見慣れたはずの風景が想像していた岡山の街とは異なっていた。
いや、確かに見慣れている風景ではあったのだが。

「なんで…」
窓の外には私の帰りを待っていた母が笑顔で手を振ってくれている。
「お か え り !」
窓越しに母の口がそう動いているのが分かった。
私が到着したのは3時間前に後にした松山市駅だったのだ。

いつもなら「ありがとうございました。」と決まり文句のように運転手に伝えて下車するのだが、何事もなかったようにバスの下の荷物を取り出してくれている運転手に問いかける。

「あの!なぜ戻ってきたんですか?」

すると、初老の運転手は困ったように笑いながら答えた。
「だってお客さん、きっと岡山に戻りたくなかったんでしょ?
このバスはその乗客が行きたい場所に向かって走るんですよ。
降りた場所があなたが心から望む終点です。」

愛媛まで戻ってきたのはどうやら私一人ではないようだ。
結局私が岡山に戻れたのはそれから1か月経ってのことだった。





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